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箱庭の怪物たち  作者: 暫定とは
一章『残火』
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 途切れていた意識が戻ってくるときの感覚は、催眠から解けたときのそれに近かった。或いは、二重人格を持つ者が、別人格から主人格に戻ったときの感覚と言ってもいい。どちらも実際に経験したことがあるわけではないので、あくまでも想像には過ぎないのだけど。

 とにかく、僕は意識が戻ってくるよりも前から、この場所にいて(つまり無意識に)歩いてはいるのだ。そして或る時、前触れなく意識が僕の下へと戻ってくる。だから毎度、『気付いたらここにいた』ということが発生するのである。砂嵐の中、地底湖のある洞窟、そして今回は、山道だ。ここまでの道のりをどうやって移動してきたのかということは、目覚めた僕には分からなくなっている。

 しかし今度は今までに比べて、幾分意識がはっきりとしていた。前回目覚めていた時の記憶も或る程度、残ってはいる。とはいえすべてを綺麗に思い出すことが出来るわけではなく、瞼の裏に焼き付いた残像を見るように、それは薄暗く曇っていた。それにやはりというべきか、僕の足元は覚束(おぼつか)なく、その歩みは理想的な歩行とは程遠い。ただこれまでと比較すると、それらは遥かに明瞭であったのだ。この世界に合わせた肉体の調律が、無事に進んでいることをそれは示唆しているのだと思う。

「――……クオン」

 そしてこの山道でもやはり、誰かが僕を呼ぶ声は聞こえてくる。その声を頼りに、僕はこの鼠色の岩山に囲まれた山道を彷徨(さまよ)うほかなかった。僕の名前を知る誰かを、僕の名前を呼ぶ誰かを求めて。

 ここへ来て一つ分かったことがある。僕の肉体が、確かにこの世界に存在しているということだ。下を向けば自分の身体は見えていたのだし、手を伸ばせば二本の腕は、これまでも視界に入っていたと思う。それをどういうわけか、僕の視覚と、そして頭は、自分のものとは捉えられていなかったらしい。それが今でははっきりと分かる。ここにいるのは僕であり、この目に映る身体は僕のものだ。それらの情報は今では正しく処理されている。僕はここにいる。

 地底湖の水面(みなも)に映った自分の顔を知覚できたことは、或いはいい意味で、その認識を手伝ったかも知れない。どんな顔だったか、いまいち正確に思い出すことは出来ないが。白い髪をしていたように思う。あれは確かに僕だった。

 くすんだ駱駝色(らくだいろ)のローブを、僕は全身に纏っていた。いつから着ているのかは分からないが、あちこちが汚れたり、破れたりしてしまっている。足は少なくとも、裸足ではない。何かを履いている感じはある。ただこれもボロボロで、感覚としては裸足とそう変わらない。

 首からは何某(なにがし)かのアクセサリーを、僕は提げていた。かつてこのアシリアに生きていた頃の或る記憶へ、これは何か、強烈な印象と共に結び付いている。コスモスフィア――誰かがこのアクセサリーを指して、そんな名を口にした映像の記憶が頭をよぎる。あれは誰の声だったろうか。僕はこの首飾りが好きではなかった。嫌いだったかも知れない。しかし外すことは許されなかった。僕の使命、或いは運命と、これは何らかの繋がりを持っていたように思う。僕が幽閉されていた、あの暗闇の世界。僕があの世界へと幽閉されることになったきっかけ――僕の生まれてきた意味と。

 それ以上を思い出そうとすると、頭の芯がぐらりと揺らいだ。それを思い出すのは今ではないと、頭のどこかの回路が指令でも出しているみたいにだ。今少し正確な調律を待つ必要が、そこにはあるようだった。

「君は……――」

 山道を下っていった先の、少しばかり開けたところに、彼はいた。やはりかつてとは変わり果てた、恐ろしく、そして痛々しい姿を、彼はしていた。

 山のように膨れた巨大な身体。岩のように硬く、炭のように黒い肌。足は四つ、腕はなく、背には亀のような甲羅を背負い、その形状はまさしく山そのものと言える。甲羅の天辺(てっぺん)からは赤く輝く泥が流れ出し、その肉体を滴り落ちては地を焼いた。大きすぎる力を制御できずに、彼が流す涙のようにもそれは見えた。僕の来訪に気が付くと、ぐったりと地面に横たわっていた彼は、重たそうな首を持ち上げて、どうにかこちらへと視線を向けてくれた。

「クオン……。本当に、……お前なのか」

 魔獣――その姿を見たとき、そんな言葉が僕の心の中へ浮かんだ。かつて、彼のような姿をした者はみな、そう呼ばれていたような気がする。しかし、彼は決して魔獣などではない。姿形は変わろうとも、彼は僕と同じ、一人の人間だったはずなのだ。ただやはり、僕にはどうしても彼の名前を思い出すことは出来なかった。

「たぶん、いや、きっとそうだよ。でも、ごめん。僕には君のことを、思い出すことができないみたいなんだ」

 「いいさ」と彼は再び、ぐったりと首を寝かせてしまったが、その声色は嬉しそうだった。

「お前が生きていてくれたというだけで、俺たちがどれだけ嬉しいか。お前が帰ってきてくれたというだけで、俺たちがどれだけ救われるか。お前は俺たちのことを、思い出してくれなくてもいい。お前は俺たちのことを、許してくれないままでいい。俺たちはそれだけのことをしたんだ。あのとき、お前を――」

 そのとき、突如として不思議な声が響いた。不思議――というのは違うかも知れない。少なくとも、僕や彼が言葉を交わすのとは違う次元から、その声は発せられていた。完全なる調律の向こう側から。実物としての肉体を持つ者だけが存在を許される、現実のアシリアから。

「だれだ ? ここで なにを している ?」

 どうやら僕の耳は、その声を聞くことを拒んだらしい。その声を聞いた瞬間、また頭がぐらりと揺らぐあの感覚がした。まだそこまでの調律が出来ていないのだ。声の主は、白髪交じりの黒髪で、白いローブを身に纏った長身の男だったように見えた。彼の放った言葉を、言葉として認識しようとすればするほど、僕の頭は割れそうなほどに痛んだ。それからたぶん、僕の首飾りが赤黒く(ひか)った。その(かがや)きは鮮烈で、僕は思わず目を閉じた。何かに巨大な流れに巻き込まれるような感覚と共に、僕の意識は途切れた。

 あの瞬間、また僕の記憶の鍵が開いたような感じがした。掴み取れたと思ったのに、すぐにどこかへと手放してしまった。もう少しで、あとほんの少しで、僕は彼の名前を呼べたのに。

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