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岩の山肌に刻まれた雨風の跡は、遥かなる時の流れを物語っていた。その凹凸の一つ一つに、きっと本来は名前を付けていいほどの歴史があるのだろうとバーンズは想像する。谷間を吹き抜ける風は、宛ら時空を超えて吹く古代の風だった。ざらりとした砂の匂いが、その風の中には時折混じって運ばれてくる。
昨夜の雨を吸い込んで固まった土の地面には、大小さまざまな礫がそれぞれ違う表情で埋まっている。その合間には雑草がひしめき合っており、礫の白と土の黒、そして草の緑は、そこに完全なる調和を生んでいた。空は概ね晴れ渡っており、しかし風が巻き起こす砂埃によって、地表へと届く太陽の光は僅かに茶色く濁っていた。
「どこまで行っても岩の山。よくもまあこんなところで、国が栄えたもんですね」
両の手で目の上に庇を作りながら、ルチカは左手に聳える岩山を見上げる。
「こんなところだからこそ、なのかもな。これだけの岩山、砦とするにはもってこいだ」
バーンズの言葉に、「確かに」とルチカは頷く。
「しかし、ピエトロさんたちの言った通りだな。確かにクラスィア大陸の中では、この辺りは他と比べて、幾らか暑さがマシな気がする」
「夜の間に岩山が吸った冷気が、日中放出されることで暑さを和らげる、って話でしたっけ。シンやトーマがいれば、もっと詳しく教えてくれるんでしょうけど」
「俺たちじゃ、あいつらには敵わないな」そう言いながらバーンズは笑った。
バーンズとルチカはいま、クラスィア大陸を南北に分断する岩の山脈――ロカッチャ山脈の或る谷間を、東の方角へと進んでいた。山脈の東端のフェルゼン石山、その麓に生まれ、採石業によって栄えた旧国家・フェルゼニアを目指して。あの日、ルドニークの飲み屋街で遭遇したヨークとピエトロの話を受けて、バーンズたちはフェルゼニア行きを決めたのであった。二人と遭遇したあの夜に、話は遡る。
「ルチカ? ルチカじゃないか!」
ルチカを呼んだのはヨークだった。その声に振り返り、二人の顔を視認すると、ルチカは驚きながらも二人の名前を呼び返した。「ヨーク! それにピエトロさん!」
「知り合いか?」後方からバーンズが問う。
「ハレたちの旅に付き添っていた時に知り合ったんです。マドラインのギルドの人たちで、ハレたちにアビスシルクを託してくれた、ピエトロさんと、ヨークです」
二人を順に手で指し示しながら、ルチカはバーンズにそう紹介した。次いで、バーンズのことをなんと説明するべきか、顎に手を当てて「うーん」と首をひねらせてから、ルチカは言った。
「ハレが連れていたアーツのドボロ、覚えてますか? 実は、ドボロの本来の使役者はハレじゃなくて、あたしの幼馴染のリリって子なんですけど、そのリリのお父さんの、バーンズさんです」
困ったように眉間を顰めながら、ヨークとピエトロは顔を見合わせて首を傾げる。それからルチカを向き直ると、「なんだかよく分からないけど、複雑な人間関係だということは分かったよ」とピエトロが答えた。
「兎にも角にも、バーンズさん。ピエトロです。その節はルチカをはじめ、ハレやみんなの世話になりました。あなたにも、こうして出会えてよかった」
差し出されたピエトロの右手を、バーンズはしばし、申し訳なさそうに見つめた。その沈黙を、ピエトロは不思議そうに待った。何か気を悪くするようなことを言っただろうか、などと考えさせているに違いないと思いながら、バーンズは止むを得ず左手を差し出した。バーンズの右手は、最初の旅が終わった後から、麻痺して動かなくなっているのだ。
「失敬。わけあって右手を動かすことができないんだ」
「おっと、こいつは失礼」と、ピエトロは右手を引っ込めるなり、左手でバーンズの手を握り返した。「すまない。お会いできて光栄だ」とバーンズが言うと、「こちらこそ」とピエトロは微笑みと共に返した。
「ヨークです」次いで差し出されたヨークの左手を握り返しながら、「よろしく、ヨーク」とバーンズは言った。握手をほどきつつ、バーンズは二人へと問う。「ギルドの方たちということは、ここへは交易に?」
「そういうことにはなるんですが、実はここでの用事は、もう一週間以上前に済んでるんです」
ヨークの物言いには、それを一言で言い表すのは難しい、というような語意が込められていた。
「そうなのか。じゃあ、しばらくここに滞在を?」
「不本意ながらね」とピエトロが苦笑する。何かわけがある、ということらしかった。「二人とも、夕食はこれからかい? ここで会ったのも何かの縁だ。良かったら一緒にどうかな。実は昨日、いい店を見つけてね。飯も美味いし、それに……」
分かるだろ、と言いたげに眉間を歪ませながら、ピエトロは飲み屋街から響く喧騒へと視線をやった。ピエトロの言わんとするところが、二人にはすぐに理解できた。静かに食事がしたいと考えているのは、自分たちだけではないということだ。
ピエトロとヨークに案内されて辿り着いたのは、飲み屋街の外れ、というよりも、ルドニークの街から見ても外れに位置するのであろう、閑静な通りに一軒だけで建つ小料理屋であった。店内はバーカウンターのほか、いくつかのテーブル席も設けられたダイニングバーのようになっており、この地方では古くから好んで食されるボルシチが、その看板メニューとして掲げられていた。
案内されたテーブル席で食事を摂りながら(バーンズとルチカはボルシチを注文したのだが、これがまた絶品だった)、ピエトロたちは事のあらましを聞かせてくれた。曰く、彼らは現在このクラスィア大陸を、定期交易に訪れているとのことだった。既に三つの街を回っており、元々の予定では、今頃は次の目的地に辿り着いていてもおかしくはないのだと、ピエトロは愚痴るように言った。
「ロカッチャ山脈の東の果てに、フェルゼニアという街があるのはご存じかな。あそこの石材は良質でね、次の目的地はフェルゼニアだったんだ。途中までは首尾よく進んだのさ。ところがね……」
話の続きを、ヨークが引き取った。「道中立ち寄った村で教えてもらったんだ。近くの山で噴火があったみたいで、フェルゼニアに続く道は大部分が通行止めになっているらしい。道が整備されて通行止めが解除されたとしても、しばらくは街の復興作業で、交易どころじゃないだろうってね」
その話に、バーンズは或る違和感を覚えた。眉間に皺を寄せながら、「噴火?」とバーンズは問う。
「俺の知識不足だったらすまないが、ロカッチャ山脈に活火山はないんじゃなかったか? それとも、休火山とされていた山に活動があったということだろうか」
仰る通り、とでも言うように深く頷いて、ヨークはその質問に答えた。
「話を聞いたとき、俺たちもそう思ったんです。だから色々と聞いて回ってみたんだけど、どうも村の人たちも詳しくは分かってない様子で。ただ、フェルゼニアのほうからやってくる旅人や商人なんかから、噴煙を見たとか、火山弾が降ったとかって情報が断片的に上がってくるもんだから、噴火があったんじゃないかって噂が出始めたみたいでした。だから正直、真偽は分からないんです。ただ、苦労して辿り着いても相手にしてもらえないんじゃ骨折り損だぞってことで、俺たちは一旦このルドニークまで引き返してきた。マドラインのギルド本部にこっちの状況を伝える鳩を飛ばして、今は本部の判断を待ってるってとこですね」
こんな説明で十分だろうか、という具合に、ヨークは隣に座るピエトロへと視線を送った。視線に気付くと、啜っていたスープカップを口から離し、それを一旦テーブルに戻し、口の中のスープを飲み込んでから、ピエトロはヨークの説明を補足した。結果的にはこの補足こそが、翌日の朝、バーンズたちをルドニークから旅立たせてフェルゼニアへと向かわせる、そのきっかけとなったのであった。
「それに加えて、フェルゼニアの辺りじゃ、ほら、最近話題の箱庭現象が発生してるって噂だ。凶暴化した魔物の群れが市街区に大挙した、なんて話もある。突然の噴火に、箱庭現象まで起こってるんじゃ、奴さん、相当手を焼いてるんじゃないかな。俺たちも現地に行って、復興を手伝ってやりたいのは山々なんだが、こっちはこっちで仕事があるもんだから、そうもいかなくてね」
時は再び現在に戻り、薄く火山灰の降り積もるロカッチャ山脈はフェルゼン石山、その中腹。斜面を一つ登り切ったバーンズたちの前には、目を伏せたくなるような惨状が広がっていた。
「これは……」とバーンズが呟くと、「……酷い状況ですね」とルチカが続く。
フェルゼニア採石場。バーンズたちから見て左手側に聳える、巨大な階段状に切り出された岩山の傍らには、様々な形状の八面体に切り出された石材が並び、大勢の作業員による会話の応酬と、鶴嘴などで石材を削り出す音で、一帯は大変に賑わっている――はずだった。ここは本来、そういう場所のはずなのだ。
「……」状況を確かめるように目を細めながら、バーンズは採石場の全体にぐるりと視線を渡してみる。
まず、生きた人影は一つもなかった。バーンズたちの視界に飛び込んできたのは、一〇センチほど降り積もった火山灰と、噴石と思しき岩石の数々。石材はそれらの下に埋もれてしまっており、見えるのは凡そ、そのシルエットのみだった。そして何よりも衝撃的だったのは、そこら中で倒れている、作業員と思しき複数名の、それは恐らく死体であった。騎士と見られる鎧を纏った者も、その中にはいる。数にして凡そ、三十人前後といったところか。
「大丈夫ですか!」ラメールを目覚めさせながら、そのうちの一人へとルチカが駆け寄る。ラメールを目覚めさせたのは、彼らが生きているのなら、ラメールと〝共鳴〟して治癒術をかけてやる為だった。しかしそれには及ばなかった。彼らの脈は確実に途切れ、その息は確実に絶えていたのだ。間に合わなかったことを悔いるように、ルチカは唇を内側に引っ込めて目を伏せた。
「いったい、何が……」ラメールが空を仰ぎながら漏らす。辺りは完全に静まり返っていた。いや、実際には唸るような風の音や、鳥の声が、彼らの耳に届いてはいるのだ。しかし、それらを勘定に入れたとしても、この凄惨な光景がバーンズたちの耳に齎すのは、無を超えた無。沈黙を超えた沈黙であった。そこに名前を付けるとするならば、無力感、或いは遣る瀬無さというのが相応しい。
「本当に、噴火が起こったというのか」バーンズがそう呟いた直後、採石場の奥地から、何者かの声が響いた。「誰かいるのか!」
足音と共に、声の主はこちらへと向かってくるらしい。少なくともその声は、死にかけの人物のものではなかった。フェルゼニア採石場の向こう側には、フェルゼニアの街があるはずだ。であればそこからやってくるのは、フェルゼニアの人間と考えるのが妥当である。声には僅かばかりの敵意が含まれてもいたので、バーンズは念のため、ヘルズを目覚めさせつつルチカの元へと寄った。岩陰から姿を現したのは、騎士団の(といっても帝国騎士団のものとは微妙に異なる)鎧を身に纏った、三人の騎士だった。
「……何者だ?」
銀の地に赤いラインの入った鎧を、彼らは身に纏っていた(帝国騎士団の鎧は銀の地に金のラインである)。自分たちが旅の者である旨と合わせて、箱庭現象が発生していることを伝え聞いたこと、箱庭現象を含めた事態の鎮静化に協力させてもらいたいということを、バーンズは彼らに説明した。とはいえ、特筆すべきはアーツを連れているということくらいで、傍から見れば自分たちはただの旅人だ。大精霊を召喚して見せるくらいのことは出来るものの、初対面の人間の信用を得るのに、それは適切な方法とは言えない(見る人が見ねば大精霊であるとは分からないし、見る人が見たとしても、武力の誇示と取られる可能性が少なくはないからだ)。おまけに、彼らの街は大打撃を受けた直後であり、声色からも分かる通り殺気立っている。バーンズたちを見る騎士たちの目は懐疑的であった。
シンはこの事態を予測していた。そしてバーンズたちに、ある書状を託していた。
「これを、あなたがたの指導者へ見せてもらえないだろうか」
そう言って、バーンズは騎士の一人にその書状を渡した。そこへ目を通すと、騎士たちは少し離れたところで一分ほどの相談をしたのち、うち二人が、バーンズたちの元へと戻ってきた。どうやら一人は、街にいる彼らの指導者へ、書状を届けてくれるということらしい(そして二人はバーンズたちの見張り役ということらしかった)。
「うまく理解を得られるといいんだが」と心配そうなバーンズに対し、「きっと大丈夫ですよ。あれを見せたんですから」とルチカはどこか自信ありげだった。
バーンズたちが騎士へと渡したのは、このフォックシャル帝国の現国王――ライラット王による認可証であった。『この者たちは国王自ら認めた信用に足る旅人であり、戦闘のエキスパートであり、箱庭現象の鎮静化に奔走するレスキューである』、『既に各都市・地域の指導者に通達している通り、各都市・地域の自治体・騎士団・警察・自警団またはそれに準ずる組織は、この者たちの訪問を受けた場合、速やかに彼らと連携し、必要な情報を提供し、事態の収拾に努めること』、『これも既に通達している通り、この書状はフォックシャル国領のあらゆる国境・関所またはそれに準ずる機能を有する区域の通行証としても機能する』というのが、その主な内容だった。言ってしまえばこの認可証は、トランプで言うジョーカーだった。現在このアシリアで、最も強い力を持つ紙切れの一つだと言ってもいい。これを使用することを想定して、ライラット王はアシリア中の街や村のトップに、この認可証と、それを携行してアシリアを渡り歩く旅人の存在を、事前に告知してくれているということであった。
「あなたたち、すぐに下がりなさい」
小一時間ほど待っただろうか、フェルゼニアの指導者と見られる女性が、数名の騎士を引き連れて、バーンズたちの元へとやってきた。彼女の言葉に従って、バーンズたちを見張っていた二名の騎士は退くと、彼女へとひざまずいて見せた。物々しい雰囲気を感じながらも、軽い会釈で応えながら、バーンズたちは彼女を迎える姿勢を取った。
深みのある草色をしたロングヘアを、彼女は後頭部でシニヨンにしていた。どこか寂しげに憂いを帯びた目は、濃い藍色をしている。
バーンズたちは二度、驚いた。一つ目は、彼女もまた、鎧をその身に纏っていたことについてだ(他の者とは違い、兜は着用していなかった)。他の者が纏う鎧とはまた少し異なった複雑な意匠が、彼女の鎧には凝らされており、銀の地に若葉色のラインで描かれたその意匠は、見る者には高貴で風雅な印象を与え、それを着用する人物の階級の高さを物語っているようでもあった。
そして二つ目の驚きは、その直後に彼女がとった言動に対してだった。バーンズたちの前にひざまずき、左胸の辺りに右の拳を当てると、仰々しくこうべを垂れてみせ、彼女はこう言ったのだ。
「お待たせして申し訳ありません。フォックシャル帝国騎士団、第八師団師団長、ランツェ少将であります。部下のご無礼をお許しください」