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発光性質を持つ鉱物の放つ光によって、洞窟内はうすぼんやりと照らされていた。鉱物は地面のみならず、洞窟の壁や天井など至るところから突き出しており、その光は淡い黄蘗色をしている。視界は明瞭とは言えなかった。ただ、あの砂嵐の中を歩いていたときに比べれば、多少ましになったとは思う。
またしても、いつから自分がこの洞窟を歩いていたのかということは知れない。気付いたときにはここにいた。分かるのは、やはりここがこちら側の世界であるということだけだ。
アシリア――記憶の中の誰かが、この世界をそんな風に呼んでいたことは思い出した。自分もその名を口にしたことくらいはあるはずだったが、どうにもそれを、自分が発したことのある言葉とは認識できなかった。しかし、それは何もアシリアという言葉に始まったことではない。
あの無の世界での記憶、こちら側の世界の記憶、肉体を動かす感覚、呼吸や鼓動などの生理現象、大地を踏む足の裏の感触。そのどれもが、月明かりの暗がりで探す小石のように不鮮明であり、自分自身のものとは思えなかったのだ。しかし、それも少しずつましになってきているという自覚はあった。たぶんこの肉体は、あちら側の世界に慣れすぎてしまっていたのだ。それをどうやら肉体自身が、こちら側の世界に合わせて調律し直しているのであった。ただそれも一筋縄ではいかないらしい。指先の感覚がはっきりしたかと思えば、腿の感覚がおかしくなり、視界がはっきりしたかと思えば、急に耳が聞こえづらくなったりと、そんなことをこの身体は、もう長いこと繰り返しているような気がする。というのもやはり、記憶が曖昧なのだ。眠っているという自覚はないのだが、眠りと目覚めを繰り返すかのように、僕の意識はこの僕の制御下と、そこから遠く離れた地を往復しているらしい。だからたぶん、気付いたときには別の場所にいて、その都度僕の記憶は途切れるのだろうと思う。
最近になって思い出したのは、この世界の名前だけではない。ようやく自分自身の名前を、僕は取り戻すことができたのだ。どこか遠くから聞こえてくるあの声が、僕の名前を呼んだのである。あの瞬間、すべての記憶が戻ったような、すべての感覚を取り戻したような、そんな気がした。それはほんの一瞬の出来事であった。
この名前から繋がるすべての人々の名前、誰かの声、誰かの温もり、誰かの企み、友情、裏切り、失望、自分の生まれてきた意味――つまり使命。それらすべてが、一瞬にしてこの肉体に流れ込んできたかと思えば、一瞬にしてどこかへと消え失せた。いや、たぶんそれらはずっと、この僕の内側にあったのだ。その秘密の隠し場所に、誰かが鍵をかけてしまったというだけで。それがあのとき、あの一瞬だけその鍵が僕の手元へと戻った。だから僕は扉を開けることができたのだ。あれはそういう感覚だった。
昨日なのか、ついさっきなのかは分からないが、まだ砂嵐の中を歩いていた時、その向こう側に一人の青年の姿を見た。その隣に、彼は何やら大きな人影を連れていた。人にしては大きすぎたような気がするが、精霊の類だったのだろうか。二人は共に、やりきれない、とでも言うような目でこちらを見ていたように思う。あの目を僕は知っていた。同じ目で僕を見つめる誰かを、僕はやはり、(砂嵐の中のような)簡単には抜け出すことのできない場所から見送ったことがある気がするのだ。あれはそう、助けたいものを助けられない人の目だ。慈しみと憐れみが入り混じった、悲しき愛の眼差し。彼らは僕を助けようとしてくれたのだろうか。もしそうなら、それは喜ばしいことだ。彼らの目に僕が映っていたのならば、それは僕がこの世界に実在することを裏付ける、新たなる証拠となるのだから。
ここで、僕は僕自身が、無意識的にこの世界での実在を望んでいることを知る。が、その理由は分からない。あちらの世界よりも居心地がよいというのはあるだろう。しかし、それだけではない気がするのだ。僕の使命と、それは密接に関わっているような気がする。
「……オン……、来てくれ……」
また僕を呼ぶ声がして、僕は洞窟を奥へと進んでいく。
声が聞こえる度に思い出して、そのうちにぼーっとして忘れてしまうのだが、僕はこの声を頼りに、ここまで歩いてきたのであった。この声に、僕は導かれてきた。僕を呼ぶこの声の主を探して。心の残火を絶やさぬよう、声の聞こえるその度に、心に強く誓いながら。
君たちがどんな場所に居ようとも、必ず辿り着く。君たちがどんな窮地に立とうとも、必ず助け出す。君たちにどんな困難が立ちはだかろうとも、必ず守り抜く。何もなかった僕にすべてをくれた君たちに、僕が出来るすべてのことを僕はする。そのために、きっと僕はこの世界に帰ってきたのだから。
「やっと会えた……やっと……」
洞窟の最深部にしんと佇む地底湖で、変わり果てた彼の姿を見つけたとき、僕にはもう、彼が何者なのか分からなくなっていた。とても大切だったような気がするのに。忘れてはいけないことだったはずなのに。
「……ごめん。僕には君が誰だか、もう思い出せないのかも知れない」
それでも、僕が君にずっと会いたかったことは分かる。君が僕にずっと会いたかったことは分かる。
「いいんだ。……それでいい」
竜の姿をした彼の頬に触れると、懐かしい感じがした。その悍ましい姿からは、かつての面影を見出すことは出来ない。しかし、彼は確かに彼だった。そしてもう一度、彼は僕の名を呼んだ。
「――クオン」