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迷いの森を迷わず抜けるのも慣れたものだと思う。それもそのはず、父に教えられたこのルートを通るのも、行きと帰りを合わせれば今回で通算五度目なのだ。始めて通ったのは四年半ほど前のことか、帝都アルバティクスで執り行われる納物祭のために故郷を出立した、あの旅の始まり。当時、自分はまだ十三歳だった。それを思えば幾分背も伸びたし、それだけ見える景色も変わったように思う。二度目は失意の中であった、同じ旅の帰り道。ぼうっとしていたためか、こちらはあまりはっきりとした記憶がない。三度目と四度目は、先日(といっても半年前か)シンと待ち合わせた帝都への行きと、その帰り。久々に会ったシンは少し丸くなった印象だったが、毒舌っぷりは健在だった。
頭の中へ並べられた記憶の本棚から、四年半前、初めてこのバウムの森を訪れた時の記憶を引きずり出す。当該のページを開いてみると、旅に出て初めての苦境だった、とある。と同時に、失い難い大切な思い出の一つである、とも。目覚めさせたばかりのドボロと、その年の納物祭で踊りを捧げる巫女役であったルチカが一緒だった。森を抜けるルートを見失ったうえ、迷いに迷って消耗したところを、四年半を経た今から考えても規格外の大きさの、大樹に擬態した巨大な魔物に襲われたのだ。そして、ドボロと初めての〝共鳴〟をした。フォルスチェインは持っていなかったし(今も持っていない)、なんなら〝共鳴〟という言葉自体、当時は耳にしたことすらなかった。あれはほとんど奇跡だった。そしてそこから始まったあの旅は、振り返れば奇跡の連続であったと思う。
「今度は迷わず抜けられただな」
物思いに耽るリリの左隣から、ドボロが嬉しそうに声をかける。「リリ?」
「ああ、うん。ごめんごめん」
平原を吹き渡る風にクリーム色の頭髪を靡かせながら、濃紺の瞳を持つ目をドボロへと向けるとリリは答えた。「だから言ったでしょ。もう迷ったりしないって。さてはドボロ、あのときのこと根に持ってるね」
「そんなことないだよ。ただ――」
ドボロが言いかけたその時、突風が二人へと押し寄せた。頭上の萌芽を煽られ、太陽の刺繡が施された緋色のマントをぶわりと大きく翻しながらも、ドボロは眉間を僅かに顰めるのみで微動だにしなかった。驚きに微かな声をあげながら、リリは小さくよろめいた。咄嗟にドボロが手を差し伸べたが、それには及ばなかった。
力強く立ち上がった後頭部の癖毛(あまりにも強く立ち上がるので、リリは普段これを寝かせることを諦めている)を手で押さえながら、「すごい風!」とリリは弾んだ声で言う。よろめきに絡まりかけた足元を整えると、次いでドボロを向き直りながら、「ただ、なんだって?」と改めてリリは問うた。
「ンだ」と頷くとドボロは答えた。その声は優しくて懐かしい、くすんだ春の花の色をしていた。
「記憶が残ってるのが嬉しくて、つい色々と思い出すだよ。それにしても、リリは本当に大きくなっただな」
新しい風が、二人の間を通り抜けていく。リリの心に、ドボロの言葉はじんわりと足跡をつけるみたいに残った。ギョロリとしたドボロの黒い瞳を見つめながら、リリはしばらくその言葉を噛み締めていた。たぶんその言葉は、世界のすべてが引っくり返ったとしても、決して覆ることのない真実だった。それくらい、二人にとっては大切なことだった。
ドボロと出会い、そして別れた十三歳から十四歳にかけて、リリの背丈は大体一五〇センチ前後だった。十七歳になった現在では、一七〇センチに今少し届かないというところだ。願わくばその成長を、彼にも隣で見ていてほしかったとリリは思う。しかし、そうでなかったからこそ、いま再び目の前に居てくれるドボロの存在を、自分は今まで以上に大切に(そして二度とは失えないと)思えるのだし、その欠落こそが自分たちの関係性を決定づけたのだということを、リリは何となく理解していた。そして、それを敢えて言葉にする必要はないのだということも。
「うん」と頷くと、静かな声調でリリは言った。
「約束を守ってくれてありがとう、ドボロ」
横長の口を縫い合わせるみたいにニンマリと笑って、ドボロは答える。「こちらこそだよ、リリ」
少し前にシンからの報せを受け取ったリリとドボロはこの時、事態の詳細説明を受けるべく、コントゥリを発ってシンのいるファンテーヌへと向かっていた。シンの筆には混乱と焦燥の跡が見えた。あのシンが混乱するほどのことなのだ。果たして自分が行って役に立てるかどうか、リリには正直自信がなかった。しかし、あのシンが自分を頼って手紙を寄越してきているのだ。少しでも力になれるのなら、なってやりたいというのがリリの思いであり、同時にドボロの思いでもあった。そして、(くどいようだが)あのシンがわざわざ手紙を寄越してきているという時点で、彼の中では自分を役に立たせる算段くらいは、恐らく既についているのだろう、というのがリリの読みだった。それがたぶん、役に立てるのかどうかという問いに対する答えなのだ。それに――。
「いいよね~、ドボロは」
「ンだ?」
それを除いても今度の事態の収拾には、参加しておきたい理由がリリにはあった。先日シンの元から戻ってきたドボロの口から聞かされ、シンからの手紙にも記されていた、ミドの血縁なる少年・ハレと、彼が再び目覚めさせたというバロン――彼らに会っておきたかったのだ。シンからの手紙によれば、今後彼らにも連絡を取り、今回の事態の収拾に加わってもらうつもりだということだった。
「ハレって子と旅をして、バロンの目覚めにも立ち会ったんでしょ? 羨ましいよ。僕も早く会ってみたいんだ。ノアって子にも、それからプリマギアにも」
喫茶店のテーブルを破壊しながら目覚めたバロンの姿を思い浮かべながら、ドボロは苦い笑みで答える。「あれは……、なかなか衝撃的だっただよ。確かにリリにも見せてあげたかっただ。でも……」
表情を曇らせるドボロに、リリは尋ね返す。「でも?」
「ハレたちの旅も、全部が無事に終わったとは言えないだ。まだ解決しなきゃいけない問題が残ってる」
「うん」と小さく頷きながら、リリもまた真剣な表情を浮かべると続けた。
「トーマ、って言ったっけ。彼のことだよね。ハレの親友で、夜明けの月光の側についてしまったっていう……」
ドボロは無言で頷いた。トーマとカレントが離脱したところを、ドボロはその目で見たわけではない。シンやハレの口から伝え聞いただけだ。ドボロには未だ、その事実を信じられない節がどこかにあった。あのトーマが、(相応の事情があったにせよ)ハレやノアのことを裏切るだなどと。
「今回の件には、夜明けの月光も関わってるってシンは言ってた。トーマが出てくるかどうかは分からないけど、彼とも話をしてみたいよ。そして出来ることなら、彼をハレたちの元に連れ戻す手助けもしてやりたいんだ。ハレが悲しめばバロンも悲しむ。それじゃ、ミドとの約束を果たしたことにはならないからね」
リリの言葉を聞くと、「ンだな」とドボロは嬉しそうに笑った。
夜明けの月光と、闇の大精霊・プリマギア、そしてエンデラの森を巡るハレたちの旅の概要について、リリはシンからの手紙や、ドボロの口から聞いて凡そその外殻の理解はしていた。ハレたちの旅から今回の事態に至るまでの事の顛末を、リリは頭の中で組み立て直す。
自分たちの側から見た発端は、たぶん半年前、帝都でシンと再会したことだった。或る研究の参考にするために、ドボロを預かりたいというシンからの申し出を受けて、リリはシンへとドボロを託した。シンはこの時点で、かなり先のことまで読んでいたのだろうとリリは推察する。というのも、シンはこの時、ルチカには今回の事態の中心ともなっている『箱庭現象』の調査を、バーンズには夜明けの月光の情報収集を依頼していたのだ。一方で、丁度この頃コントゥリでは、バーンズ不在時の村長業務を若い衆たちに代行してもらおう、という動きが活発化しており、バーンズが村を離れる代わりに、リリはコントゥリに残らざるを得なかった。シンに託したドボロがリリの元へと戻ったのは、数ヶ月後のこととなった(ハレたちの旅に参加していたことを、リリはシンから手紙で報告を受けて知っていた)。
一方でハレたちの側はというと、祖母と暮らしていた家を焼かれ、孤独な旅立ちを余儀なくされたノアと、アーロンを探して帝都の孤児院を脱走したハレとトーマが出会ったことが、その発端となったのだと聞く。かつてアーロンを孤児院へ運び込んだシンを訪ねて、ハレたちはファンテーヌを訪れ、そこでシンと一緒にいたドボロとも出会ったのだということだった。
そして今回の事態の中心となっている、箱庭現象。――或る時、或るところで、異空間へと続く〝門〟が前触れなく開き、その周辺一帯に生息する魔物たちが一様に凶暴性を増すというこの奇怪な現象は、一年ほど前からアシリアの各地で突如、目撃され始めた。
空間ごと切り抜かれたかのようにぽっかりと、空中に黒い穴が開く。それが門だという。現在のところ一〇センチから五〇センチほどの直径を持つものが確認されており、門の付近の空間は陽炎のように歪む。穴の中からはほんの小さな、赤黒くて菱形の紙吹雪のような〝何か〟が、溢れ出ていたり、出ていなかったりする。
門の向こう側には、この世界とは異なる謎の空間が広がっているらしい。が、もし仮に門を見つけたとしても、決して覗き込んだり、近付いてはいけないということが、シンからはもちろん、新聞などでも全世界的に伝えられていた。箱庭現象が初めて発見され、研究が始まった当初、それで何人かの研究者が失明したり、手を触れようとして腕ごと失った者もいるのだという。
「で、研究は日夜進められているものの難航しており、現在のところ目立った進展はないと……。これ、本当に僕たちの手に負えるのかな。ドボロはどう思う?」
胡散臭そうに眉間を顰めるリリに、ドボロは首を傾げながら答える。「オデも難しいことは分からないだよ。ただ、魔物に襲われる町や村なんかも出てきてるってシンは言ってたから、それだけでもなんとかしたいだな」
「そうだね……、うん、魔物の相手くらいなら僕たちにでもやれそうだ。あとはそうだ。箱庭現象の発生地点と、夜明けの月光の目撃情報が重なるケースが増えてきているって話だったよね」
手紙の中で、シンはそのことについても触れていた。まだ非公開の情報だが、と注意書きのように付け加えながら。
箱庭現象に便乗して、夜明けの月光は新たな企みを巡らせている。更に言えば、箱庭現象自体を夜明けの月光が引き起こしている可能性もある、とシンの手紙にはあった。果たしてそんなことが可能なのかどうか、リリには分からない。
「ンだ。箱庭現象だけなら片手間だっただが、夜明けの月光が絡むなら本格的な調査が必要になりそうだって、オデがまだ向こうにいる頃から話していただよ」
「そうか。そんなに前からシンは気付いていたんだ。もっと早く知らせてくれればよかったのに」
「リリがコントゥリを動けないことは、シンも分かってたみたいだっただな。それに、それが分かったのはオデがいた期間の中でも最後のほうになってだっただよ。父ちゃんが調べた夜明けの月光の足取りと、ルチカが調べた箱庭現象の発生地点に、いくつか重なるところがあるって話からだっただな。で、それ以外でも箱庭現象の発生地点に夜明けの月光の目撃情報がないか調べてみたら、かなりの確率で一致してるってことが分かったみたいだっただ」
「……なるほどね」
今回、リリがコントゥリを離れられたのは、バーンズとリリが共に不在でもコントゥリはもうやっていけるだろうというバーンズの判断によるものだった(一時期はハレたちの旅に合流していたバーンズだったが、一度はコントゥリに戻ってきており、しかしリリよりも先に再び出発していた)。そして二人が不在の間、複数名いる村長代行役の中心となるのは、ルチカの父親のダグザと、リリの幼馴染のニックだ。当初、ニックの枠はジンが筆頭候補だった。が、本人が辞退した。曰く、自分は頭を使うよりも身体を動かすほうが皆の役に立てるから、ということだった。ダグザもどちらかというとそういうタイプだったが、頭の切れるニックとなら上手くやっていけるだろう、というバーンズの見解によって、現在の形に落ち着いた。とはいえ――。
(大丈夫だろうか、みんな。もしも箱庭現象が村の近くで起こったり、夜明けの月光に襲われたりしたら……)
リリの心配事は尽きなかった。そしてそれはバーンズも同じであった。村長として、バーンズももちろん村の皆を案じていた。しかし、バーンズと揃って村を発つことが決まりかけていた当時、本当にそれでいいのかと頭を悩ませていたリリを、「俺たちには俺たちにしか出来ないことがある」とバーンズは諭した。「例えばその中には、四年前の戦いを知っていることや、共鳴術に精通していること、というのもあると思う。でも一番大切なのは、お前が今、皆を心配に思っているその気持ち、『守りたいという意思』だと俺は考えている。俺たちはシンに頼まれたからやるんじゃない。陛下のご意向があるからやるのでもない。ただ、やりたいからやるんだ。それを他の誰かに頼むことは出来ないだろ? そしてそれは、四年前の旅でも同じだったと思う。違うか?」
その言葉を聞いたとき、リリは不思議とすっきりとした気持ちになった。解けなかったパズルが解けたみたいにだ。村長代行を買って出てくれる者(そしてそれを安心して任せられる者)は、ありがたいことに何人もいる。しかし、自分のこの手の中にある、守りたいという意思を代行できる者などいない。これは自分だけが、自分だけの方法で成就させられる意思なのだ。
右手の平を見つめ、静かに握り締めながら、リリは今一度父の言葉を反芻する。時に迷い、時に戸惑い、常に完璧に正しかったわけではないが、いつも自分を導いてくれた、父バーンズの言葉を。
(誰かに頼まれたからやるんじゃない。僕たちがやりたいからやるんだ。もう二度と、誰も失わないために)
決心を新たに一つ頷くと、リリは俯いていた顔を上げた。「よし」と小さくつぶやくと、目の前に広がる小高い丘の地形を、リリは勢いよく駆け上がった。「ンあ!」とドボロは驚きつつも、すぐにリリの後を追って走り出す。丘の勾配は思ったよりも急だったので、頂上に辿り着くよりも少し前に、リリは走っての登頂を諦めてゆっくりとした歩調に切り替えた。深い呼吸で息を整えながら、その頂上へと辿り着くと、緩んだ靴紐を結び直すべく、リリはその場にしゃがみ込んだ。
「いきなり走るとびっくりするだよー!」
後ろから響くドボロの声に、口元を緩めながらリリは謝る。「ごめんごめん!」
そのうちに、土の巨人は青年の左隣までやってくると、そこへ立ち止まりながら青年へと問うた。
「大丈夫だか? リリ」
キュ、ときつく靴紐を締めながら、青年は答える。
「うん。これでよし、と」
立ち上がると、遠く何処までも広がる世界へと、青年は視線を渡した。追い風が、青年が身に纏う葡萄色のケープをはためかせている。巨人の纏うマントと揃いの、太陽を模した金色の刺繍がそこには施されていた。古の時代、このアンモス大陸を統治した国家に伝わる王家の紋章だ。それは彼らの運命を象徴する紋章だった。運命により出会い、運命に翻弄され、そして運命により再び巡り合った、彼ら二人を象徴する紋章と言ってもいい。彼らにとって、それは彼らを繋げた特別な絆を映し出す証でもあった。
「行こうか、ドボロ」
「ンだ、リリ」
新しい旅が始まる。