25、恩師グリーンヒル先生
何とか前後で纏められたかな?
25、グリーンヒル先生
☆
それから数日。
未だに自分を立て直せない私は、楊先生の講義にも出席出来ずにいた。幸いな事に、楊先生の講義は、テストにさえ合格すれば問題ないと、先生本人からのお墨付きがある。本当は、是が非でも講義を受けて、知識欲を充たしたかった。けれど、彼等を見ると、『私』の内側が暴走しそうで、私は怖かった。だから、当然、研究室にも行っていないし、皆と鉢合わせそうな場所には近付けずにいた。
こんな駄目な自分を律しようと朝の鍛練をしてみるが、自分一人では、それも難しかった。心はぐちゃぐちゃに乱れて、整ってはくれない。
それを見かねたのだろう。
グリーンヒル先生からグリーンヒル先生の研究室に呼び出された。
「トリス。ちょっとここに来なさい。」
種族柄、体格の大きなグリーンヒル先生は、私を一人掛けの椅子に座るように告げた。そして、先生自身は膝を着く体勢を作ると、真っ正面から目線を合わせる。
先生は、迷いの無い強い眼差しで、俯く私の目を覗き込むと、
「一人で何か抱え込んでいる様だな。それが何かは、残念ながら、今の私には分からん。思っている事は、言葉にしないと伝わらないからな。だからな、トリス。不安かも知れないが、お前の師である私に、お前の不安を話してはくれないか?言葉に出来ない事もあるだろう。だから、不安な事の内容を纏めて上手く伝えようとしなくてもいい。断片でいいんだ。ゆっくりでいいから、単語でも構わんから、言葉にのせてみろ。」
小さな子供に言い聞かせる様に、頭をぽんぽんとしてくれる。
そんな先生に勇気を貰い、心のぐちゃぐちゃを話そうと恐る恐る口を開こうとした。
途端に、私はヒュッと呼吸が浅くなり、ハッハッハッハッという短い吸気しか出来なくなった。
目が見開き、胸の辺りを何かにギュッと掴まれたみたいに苦しくなる。
だらだらと汗が流れ、耳の奥にドクドクと血が流れる音が響く。
「・・・・ッ!?」
そんな自分にパニックに陥る寸前。
バサリ。と、何か大きくて暖かい、もふもふした生き物の温もりが、私を包み込む。
人間ばっかりで、人工物ばかりの大学構内。慣れ親しんだ動物のふわふわなど、無いと思っていた。
だが、私を包んだこの温もりは、懐かしい生物の温もりだった。
故郷の、裏庭の木々を思い出した。裏庭に棲むヒトの言葉を話さない友達を思い出した。
パニックになると心を宥めてくれる、ふわふわした生き物の温もりがあった事を思い出した。
(・・・いつだったか、前にもこんな風に柔らかな温もりに助けられた事があった気がする・・・。)
数少ない、自分の過去を認識したのが良かったのだろうか。
次第に私の呼吸は穏やかになっていった。
そして、私は気が付いた。
グリーンヒル先生が、ふわふわの羽毛で私を包み込み、子供をあやす様に背中を撫でて呼吸を落ち着かせてくれている事に。
「落ち着いたか?」
私の様子を確認しながら、グリーンヒル先生が声を掛けてくれる。
まだ声の出ない私はこくこくと頷いて肯定の意思を伝える。
「まだ言葉は出ないだろうからな、まずは深呼吸だ。ゆっくりでいいぞぉ。」
グリーンヒル先生の指示に従い、何度も深呼吸を繰り返す。
そうして、漸く呼吸が整い。意を決して、私は、ポツリ、ポツリと、話し始めた。
「先生、私、『消えたい』んです。」
「ほう。」
「『私という存在が、存在したという痕跡を含めた全てを』、消してしまいたいんです。」
「ふむ。」
「私という自我ごと、消えたいんです。」
「いいぞ。続けろ。」
「でも。消えたいのは、自分だけで。皆には幸せでいて欲しいんです。『私』という存在が居たという記憶が残ると、悲しむ人が居るのも分かるんです。その人達に、気に病んで欲しくないんです。世界に何の影響もなく、『私』だけが、消えたいんです。」
「そうなのか。」
「この考えが、良くないというのも理解しています。両親や友人、先生方に、知り合えた方々。大切にして頂いているのも、ちゃんと認識されていることも、愛されているのも感じているんです。どれだけ感謝しても、足りない位に、存在を許されているって、感じているんです。」
ぼろぼろと零れる涙。震える唇。掠れる声。
切り裂かれる様な痛みを感じながら、言葉を紡ぐ。
身体は、またガタガタと震え出している。
でも、言わなきゃいけない。
伝えないといけない。
不誠実な自分は、許せない。
そんな自分は、嫌だった。
「おう。」
気長に肯定の言葉をくれて、生命の温もりでもって私を勇気づけてくれる、グリーンヒル先生に、グリーンヒル先生という私を支えてくれる世界に、想いを伝えなくては。
そんな使命感が、『私』を後押しする。
「なのに。」
深呼吸をして、絞り出す様に、
「『消えたい想い』が、消えてくれないんです。」
心のヤミをコトバにのせた。
まばたきと共に、大量の涙が滴り落ちる。
そんな、私の苦い努力を、心の重みを、グリーンヒル先生は、
「頑張ったな、トリス。」
たった一言で、受け止めてくれた。
滂沱の涙を流す私に、その言葉が染み渡る。
たった一言。それだけで。
私の震えは止まった。
師の弟子への暖かな心遣いに、肩から力が抜ける。
だが、グリーンヒル先生の、私へのケアは、それだけではなかった。
「なぁ、トリス。その大きな不安は、一般的には、自分に自信が無いから興るモノだ。それを解消するには、これから沢山の経験を積むことだ。小さな出来事も大きな出来事も経験して、色んな感情を知って、自我を成熟させる事で己のモノにする自尊心だ。自分を認められる心の強さだ。お前には、それが必要な様だな。」
「自分を認める、『心の強さ』、ですか。」
「そうだ。トリス。『強い』という事には、種類がある。それは分かるか?」
「はい。分かります。戦闘において、単純に腕っぷしが強いとか、勝負事に負けない強さ、とか、最後まで生き続ける強さとか。多種多様な技を繰り出して戦う強さとか、一つの特技を極める強さとか。きっともっと沢山あるんでしょうけれど、合っていますか?」
「そうだな。そういう強さが、一般的な強さだな。でもな、トリス。お前は、『自分を認める心』が弱すぎる。寧ろ無さすぎる。だからこそ、お前は、自信を身に付ける事が大切だ。」
「自信、ですか・・・。」
「そうだ。自信だ。だからな。今、お前が抱えている、悩みが有るだろう。まずは、それから解消しなければならん。」
そう、もう一つの悩みを指摘されて、私はヒュッと息が詰まった。
ゴクリ、と喉を鳴らして、一気に襲ってきた不安を飲み込む。
そして、恐々と口を開いた。
「・・・先生・・・、何で、私が、まだ悩んでるって、分かるんですか?」
「何故分かるか、だと?トリス。私はお前の指導教官だぞ。お前の身体を鍛える事だけが、指導者の役目ではない。体調管理だけではなく、精神面での不調も整えるのも大切な役目だ。」
ふぅ、と肩から力を抜いたグリーンヒル先生が、ジッと私の瞳を見ながら語り掛けてくださる。
「トリス。ここ数日、お前が何かに悩んでるのは分かっていた。自力で何とかしようと踠いているのも、それが出来ずに苦悶しているのもな。だがな。トリス。精神が整っていない状態では、何事もうまくはいかないものだ。そんな時はな、何も考えるな。」
何も考えない。それが出来れば、どんなに良いだろう。そういう思いが頭をよぎる。だが、そんな思いを口にする前に、先生は続けて仰った。
「だが、お前は、そういった心の整理が苦手そうだな。だから、私がお前の悩みを聞いてやる。いや、口に出来なくても良い。避難場所くらいにはなってやれる。おそらくだが、今回のお前の悩みは、普段安心出来る場所で発生したモノなのだろう?」
目を見開いて、呆然となりながら、
「・・・はい、そうです。」
グリーンヒル先生の推測に驚愕する。何処までも、先生には、お見通しなのだと。弱い所も、欠点も、そう言う所も含めて、『私』を導いて下さる方なのだと。それが、『グリーンヒル先生』という、私のお師匠様なのだと。そう言う認識が、段々と私に染み込んでくる。
グリーンヒル先生は、ジッと、私の様子を観察しながら、言葉を重ねる。
「それで、動けずにいるのだろうな、おそらく。」
どうだ、合っているか、との、確認。
ああ、逃げられないな、と私は悟った。
ちっとも人付き合いが出来ない、『駄目な私』。自分が嫌になりながら、認めたくない事実を認める。
「・・・はい。」
迷いの無い、強かな精神の、先生の、存在感。
大きな、大樹を思わせる彼の方からの、指導のことば。
「逃げ場所の無い奴は、悩みすぎて壊れるからな。話せなくても大丈夫だ。お前が不調な時は、こうしてまた、私の翼の下に籠ってもよかろう。トリス。お前の様なヒヨッコは、私にとっては庇護対象だ。雛鳥と同じだ。どうもお前は人間社会が得意とは言い難いようだからな。狼鷲である私の羽ならば、少しは自然を感じられるのでは無いか?」
「はい。先生。ありがとう、ございます。」
ぼろぼろな私は、グリーンヒル先生という大樹が、避難場所として在る事を認る。
「で、だ。今度こそ、悩みの具体化をしようか。ここ数日のお前の悩みは、何だ?」
私は、グリーンヒル先生は、私のこの素晴らしい師匠は、絶対的な自分の味方だと、心底理解した。今度こそ、今、私が動けない事について言葉にしても大丈夫なのだと、警戒心の要らない相手なのだと悟った。
だから。深呼吸して、さっきより少しだけはっきりした声を出すことが出来そうに思えた。
「先生、私が、楊先生の研究室で、仲の良い友人達と過ごしているのは、ご存じですよね。」
「おう。当然だな。お前達は、よくつるんで色々活動しているし、その為の連名の計画書へのサインも私は書いているからな。」
「私、アリ君に、ちょっとしたイタズラを仕掛けたんです。失礼に当たらないか、安全かどうか等の問題点が無いかは、アルヴィン君やクレアさん達に相談しました。でも、そのイタズラは、失敗しました。」
「ふむ。慣れていなければ、失敗する計画もあるだろうな。」
「いえ、先生。計画が失敗した、というよりも・・・。」
「む?失敗以上の何かなのか?」
「・・・はい。寝てるアリ君の布団に入り込んでいたんですけど、私、アリ君に、全く問題視も認識も、されなかったんです。」
「なっ!?」
「それで、私、あの部屋の人達にとって、取るに足りない存在なんだなって、思ってしまって・・・。彼処に居たら、邪魔なんじゃないかって・・・。怖く、なったんです。」
「あ~・・・トリス?もしかして、それが、お前の、悩み、か?」
「はい。もう、受け入れて貰えないんじゃないかって、怖くて、近付けないんです・・・。近付こうとすると、身体が震えて、足がすくんで、動けないんです。」
「成る程な。」
ここまで聞いて、グリーンヒル先生は、また過呼吸気味になって、再び涙を溢し始めた私の背中をポンポンと撫でてくれた。そして、
「なあ、トリス。お前は、お前の周りに集ってくれた友人が、そんなに度量の狭い奴らだと思うか?」
私は、グリーンヒル先生の仰っている事の意味が、理解出来なかった。私は、心というモノの動きが、色々な事象への感じ方が、他の人達とはどうもズレているのではないかと思うから。自分が、ここに居てもいいのか、不安だから。
「・・・分かりません・・・・」
そんな自分の情けなさに心底嫌気が差しながら、初めて感じる『私にとって得たいの知れない感情』に、戸惑っている現状を伝える。
「・・・先生、そもそも、これからどうしたら良いのかも、分からないんです・・・。」
困り果てた私を見ながら、グリーンヒル先生は、
「フム。行動の指針すら決められずに、不安なのだな。で、あるのなら・・・。」
ポンポンと私の背中を撫でてあやしながら、グリーンヒル先生は、研究室に備え付けられている連絡用の回線(内線、というらしい)を操り、誰かと何かをお話していた。手早くそれらを済ませた先生は、ジッと私の目を見ながら、
「トリス。お前の不安が晴れるかは分からないが、お前の友達は、信用出来ない相手なのか?」
と、声を掛けてくださった。
「いいえ。いいえ、先生。信じられないのは、彼らではなく、『私自身』です。」
「そうか。ならば、大丈夫だな。」
私の答えを聞いて、先生は、優しい笑顔をした。
と、同時に、廊下をバタバタと走る音が、近付いてきた。
程無くして、
バターン!!!!
と、勢い良く叩き開けられた、グリーンヒル先生の研究室の扉。
「グリーンヒル!!トリスが居るって本当か!?」
真っ先に怒鳴り混んで来たのはアルヴィン君で。
「ほら、だから言ったじゃないか。アリ君、トリスは繊細なんだよ?雑に扱ったら、来なくなっちゃうじゃないか!」
「そうですわ!!トリスさんが居なくなったら、アリ君、どう責任をとってくださいますの?せっかく出来た親友ですのに!」
「ほら、皆。トリスちゃんがびっくりして、また出てこなくなっちゃうわよ?ちょっと落ち着いて。あと、アリ君、トリスちゃんに言うことがあるんじゃないかしら?」
「あー・・・トリス、すまんな。お前を無視したかった訳じゃないんだ。気を悪くさせたのなら、あやまる。だから、また、楊の所に来い。お前が居ないと、このメンツはまとまらん。」
「もう、本当にデリカシーの無い男ね!トリスちゃん、気にしちゃ駄目よ?」
と、一気に話しかけてきたものだから。
「ピッ」
と、小さな悲鳴を上げて、私はまた、グリーンヒル先生の翼の下に潜り込んだ。
「トリス。良かったな。お迎えだぞ。」
そう言って、自分の翼に隠れる弟子を、見守って勇気づけてくれる、グリーンヒル先生。
彼らに支えられて、やっと。
私は、また、皆との日常に戻れる様になった。
☆
この日から、私は、何かに悩み、自力で浮上出来なくなると、グリーンヒル先生に、悩みを相談させて貰う事になる。
とてもとても小さな事に、いちいち躓く私を、先生は、何度もその大きな翼(物理)で匿ってくれた。
ふかふかで、お日様の香りのする、動物の生命力。
勿論、的確な指導者としてのグリーンヒル先生の優秀さも在るのだけれど。
大きな温もりで包み込んでくれるグリーンヒル先生は私にとって大事な大事な恩師になった。
☆
そして、時が流れ。
今では、私が扉を叩くと、
「良く来たな、トリス。」
そう言って、アリ君が手ずから扉を開けてくれるようになったのだ。
アリ君の台詞も、その日によって変動するのだが、彼に扉を開けて貰うと、室内の皆に受け入れて貰える様な心地がして、私の心は安堵する。
初めて楊先生の講義でアリ君に怒鳴られてから、今では彼と、随分親しくなれたと嬉しくなる。
初めての人間関係で、彼等と知り合え、親しくしてもらえて、私は幸せである。
・・・だから。
私は、時間を作っては、せっせと楊先生の研究室へと入り浸る様になっていた。
☆
いつの間にか。とても、そう。とても。私にとって、【ココ】は、大切で掛け替えの無い場所になっていたのだ。
でも、長いなぁ。




