後編
開いたドアの向こうは、やはり病院の待合いスペースに繋がっていた。
並べられた長椅子。
診療科の誘導案内板。
受付カウンター。
何度も見た光景だ。
パタン、と背後でドアが閉まる音。
ドアが閉じたことで、あの男は追ってこられなくなったようだ。
息遣いも、気配も感じない。
今のところ、こちら側は安全だと思って良さそうだった。
振り返ると、そこにはもうドアはない。
これも、今までと同じ。
あるのは閉じたままの自動ドアだけだ。
ぼんやりと黒い車が浮かび上がる。
自動ドアの向こうを見つめていると、何かが胸に引っかかった。
あの車に、見覚えがある気がする。
ざわざわと、嫌な予感がした。
きっと、私は大事なことを忘れている。
コチコチ、という時計の音。
きゅ、と繋がれた小さな手。
マリは黙ったまま、こちらを見上げている。
私は、先ほどの疑問をぶつけてみることにした。
「さっきの……マリのお父さんなの?」
こくり、とマリが頷く。
間違いないらしい。
「パパ、マリのことが大好きなの。
でもね、エマのことは嫌いなの。」
そう言って、両手両足が捥がれた黒髪の人形を示した。
マリは拙いながらも、話を続ける。
「エマ、よいこなの。 パパ、勘違いさん。
マリに悪いことすると思ってるの。」
「……そう。」
相槌をうちながらも、内心は首を傾げていた。
それにしても、恐ろしすぎる。
私には、彼に捕まると死ぬとしか思えなかったのだ。
現状、彼は危険だ。
たとえマリの父親でも、私は自分の直感を信じる。
マリを守らねばならない。
そのために私がいる。
♢♢
「君のそばに、霊がいる。」
エリコとシュウスケの出会いは、友人の紹介だった。
自己紹介もそこそこに、シュウスケのことを聞こうとしたら、彼はこう言ったのだ。
「……ちょ、ちょっとシュウスケ。
おまえ、何言ってんの?
ごめんね、エリコちゃん。
こいつ緊張してるみたいで。」
友人がオロオロとフォローしたが、シュウスケはどこ吹く風。
「僕はそんなに霊感はない。
だから、見えないんだ。
でも、気配は感じる。 何かいるよ。」
ぽかん、と口を開けたままのエリコに彼は至極真面目に告げた。
「良いものか悪いものかわからない。
見える人に相談に行ったらどうかな。
責任もって、僕も一緒に行くから。」
何言ってんの、こいつ。
ドン引きだった。
第一印象は最悪だったと言っていい。
それなのに。
「不気味だな……。
誰かと一緒にいると、霊の気配が弱くなる。
君、1人にならない方が良いよ。」
人生とは不思議なものだ。
いつの間にか、真面目な顔で頓珍漢なことを言う男と一緒にいることが増えた。
「悪いものではないのかも。
でも、僕は嫌だな。
取り憑いているみたいで、良い気がしない……。」
変な口説き方。
この人、絶対にモテないわ。
そうは思いつつ、内心満更でもない。
エリコは、このおかしな男に徐々に惹かれていた。
我ながら、男の趣味がおかしい。
「霊が、ずっとエリコに憑いているみたいだ。
でも、僕がそばにいると離れていく。
エリコ、なるべく僕の隣にいた方がいい。」
そう言われて、笑ってしまった。
取り憑いているのに、害がない霊って何?
守護霊ってことだろうか。
素直に一緒にいたいと言えばいいのに。
回りくどい言い方しかできないのか。
……できないんだろうな。
エリコは、不器用な彼の手に指を絡めた。
きゅ、と握りかえされる手が温かい。
この人の隣で歩く人生も悪くはない。
彼の肩に頭を預けて、エリコは目を閉じた。
♢♢
何かが違う。
待合いスペースを見回して、気がついた。
受付カウンターのあたりが、ぼんやりと明るくなっている。
「マリ、こっち。」
マリの手を引いて、明かりのほうへと歩く。
誘われるように、カウンターの前に立った。
何かある。
またしても紙切れだ。
『霊安室』
書かれていたのは、それだけ。
そこへ行けということだろうか?
考えを巡らせていると、くいっと手を引かれた。
マリだ。
「パパ、迎えに行く?」
パパとは、あの右半身が潰れた男のこと。
彼を迎えに行くだって?
なぜ?
もしかして……霊安室にいるのか?
確かに、身体の状態から生きているとは思えない。
マリの父親は、すでに死んでいると考えて良さそうだった。
しかし、なぜ迎えに行かなければならないのか。
私にとっては襲ってきた相手だ。
わざわざ会いに行くなんて危険だろう。
「危ないわ。 さっきも追いかけてきたでしょ?」
なんとか説得しようと試みたが、無理だった。
マリは、ふるふると首を横に振る。
「パパ、勘違いさん。
マリが大丈夫だってわかったら、怒らないよ。」
どういうことだ。
私がマリを傷つけるとでも?
言われてみれば、誤解されている可能性はありそうだった。
彼は娘を返せ、と言っていたのだ。
しかし、だからといって。
悩んでいるうちに、マリが動いた。
「パパ、迎えに行こ?」
パッと繋いでいた手が放される。
そのまま、パタパタと事務室の奥へと駆け出して行ってしまった。
「マリ!?」
慌てて追いかけるも、マリは事務室の奥にあるドアへと消えていく。
なんてことだろう。
せっかく見つけたのに。
マリが開けたドア。
このドアが繋がる先は、いつも病院の待合いスペースだった。
ずっと、待合いスペースと事務室をグルグルとループさせられている。
また同じ場所をまわるのか、それとも。
考えている暇はない。
ここにマリが入ったのだから、私は行くしかない。
コチコチ。
遠くから、時計の針が進む音が聞こえた。
♢♢
娘の誕生日。
家族3人で買い物に行った。
エリコは、娘の目が女の子向けの人形に向いていることに気がついた。
黒髪の女の子の人形。
数ある人形から、これがいいんじゃないかと言ったのは夫だ。
あなたのおもちゃではないでしょ?
そう思ったものの、娘も黒髪がいいらしい。
本人が喜んでいるので、エリコは何も言わなかった。
だが、翌日から夫の不可解な言動が始まった。
「ダメだ。 その人形はダメだ!」
騒ぐ夫に、娘は萎縮してしまっている。
ぎゅっと人形を抱きしめて、俯いた。
「突然、どうしたの?」
「エリコ、君に憑いている霊がマリの人形に移った!」
「……は?」
ずいぶんと懐かしい話だ。
霊の話なんて、結婚して以来ではなかろうか。
「いや、出た。 出入りできるのか?
何がしたいんだ、こいつ。
とにかく、今までは人形やぬいぐるみに入ることはなかったのに、新しい人形には入れるらしい。
この人形は危ない。 捨てよう。」
じわ、と娘の瞳に涙が溜まる。
夫は必死に言い募ったが、エリコは首を横に振った。
「シュウスケ、マリを怖がらせるのはやめて。
せっかく気に入ったみたいなのに、取り上げるなんて。」
夫の言っていることがわからない。
百歩譲って霊がいるとしても、だ。
何か問題があるのだろうか?
エリコに憑いていたところで、今まで困ったことはなかった。
つまり、守護霊では?
悪戯に娘を怖がらせるようなことを言うのは、やめて欲しい。
エリコの言葉に、夫は唇を噛みしめて黙った。
この時からかもしれない。
夫婦仲に罅がはいったのは。
♢♢
ガチャリと開けた先は、ひんやりとした小部屋だった。
ぼんやりとした照明の中に横たわる人影。
霊安室だ。
そして、それを見た瞬間、私はあることを思い出した。
そうだ、彼の名前。
「……シュウスケ。」
マリの父親。
真面目で、融通が効かない男。
私は、マリのこともシュウスケのことも知っていた。
彼らと関係があったから、今ここにいる。
どんな関係だった?
あと少しで、思い出せそうな気がする。
そっと遺体に近づいた。
彼は、どうして死んだんだろう?
だんだんと悲しみが襲ってきた。
意外と、親しくしていたのだろうか?
「ぶつかっちゃったの。」
突然、ふわりと目の前にマリが現れた。
何もないはずの空間からスッと現れたマリは、ところどころ身体が透けている。
その姿に息を飲んだ。
生身の人間では、考えられないことだ。
マリ、あなたは?
シュウスケが死んでしまったということは、あなたも……。
思い当たる予想に、寒気がした。
違う、そんなはずはない。
まだ、そうと決まったわけではない。
それなのに、なぜ。
じわりと、私の目に涙が溜まっていく。
視界がぼやけて、頬が濡れた。
あなたを助けに来たのに。
まさか、もう死んでしまったとでも?
地の底に沈んだような気持ちだった。
「泣かないで、エマ。」
マリの言葉にハッと顔をあげる。
彼女の視線は、真っ直ぐにこちらを向いていた。
エマ。
黒髪の人形の名前だ。
マリが持っていたはずだが、今は見当たらない。
彼女の視線は、私に固定されている。
つまり、マリは私をエマと呼んだのだ。
ぐわん、と一瞬だけ視界が揺れた。
様々な出来事が、頭の中を駆け巡る。
ーー おやつを分けてくれるマリ。
ーー 誕生日プレゼントの人形を抱きしめるマリ。
ーー 人形の中に入ったとき、喜んでくれたマリ。
ーー エリコが病院に駆けつけた時の、マリ……。
どうして、忘れてしまっていたんだろう?
私は、全てを理解した。
私はエマだ。
マリが、そう名付けた。
マリには、ずっと私が見えていた。
だから、名前を貰う前に亡くなった私に、エマという名前をくれたのだ。
大事な片割れ、エリコの娘。
エリコのそばで、彼女のことも見守ってきた。
マリが気に入った人形は、ひどく私と相性が良かった。
だから、時には人形の中に入って見守った。
エリコの夫、シュウスケには気味悪がられてしまったけれど。
そうだった。
エリコの大事なものは、私が守る。
はじめから、そう決めていた。
だから、マリを追ってきたんだった。
シュウスケは、車にマリを乗せて帰った。
マリのお気に入りの人形を、エリコの家に忘れたまま。
だから、エリコは電話をかけた。
かけさせては、いけなかったのだ。
あの日、あの時。
人形は、シュウスケの車になければならなかった。
コチコチ、コチコチ。
どこからか、時計の針が進む音がする。
行かなければ。
17時になる前に。
事故が起きたのは、17時すぎのこと。
それまでに、マリを救出する。
私は、そのために来た。
そのために、時間をねじ曲げたのだ。
自分の魂をかけて。
マリの魂を、この世に繋ぐ。
霊安室を飛び出し、出口に向かう。
掴んだマリの手は、ゾッとするほど冷たい。
マリの身体が、どんどん透けていく。
本当に、時間がない。
グニャグニャと床が波打つ。
天井が、みしみしと音を立てた。
この不思議な空間も、崩壊の時を迎えたのだ。
それも当然。
もともと17時までのつもりで、マリを繋ぎとめるために用意した空間なのだから。
フー、フー!
突然、ガッと足を掴まれた。
バランスを崩して、思いっきり転ぶ。
足に視線を向けると、シュウスケと目が合った。
追いかけて来たようだ。
左だけ残った、血走った瞳。
ポタポタと頭から血を滴らせながら、ギッと睨んでくる。
「シュウスケ、やめて!
私はマリに危害を加えたりしない!」
時間は進んでいる。
私は必死で藻掻いた。
フー、フー!
ーー シュウスケ。
あなたが、私を嫌っていたのは知っている。
だって、あなたの大事なエリコに憑いていたのだから。
ーー あなたには私が何か、わからなかった。
気配は感じるけど、あなたには霊を視認できるほどの霊感はなかったから。
姿を見ることができれば、まだ安心してくれたかもしれないのに。
ずっと、警戒していたのよね。
「シュウスケ、お願い!
このままじゃ、マリが死んでしまう!!」
私がいたから、エリコと離婚した。
そのことに、さすがの私も気がついていた。
あの時ほど、私のことを信じて欲しいと思ったことはない。
まさか、私の存在がエリコから愛する人を奪うことになるとは。
ーー 私はマリを守るつもりだったけど、あなたには人形の中に入った私が脅威だったのでしょう?
マリに何かするのでは、と。
ーー だから、エリコとマリを引き離したのね。
霊感が全くないエリコには、説明しても理解してくれなかったから。
ーー さすがのあなたも、私がエリコに悪さをしないことは察していた。
だって長年、取り憑いていても無事だったのだから。
けれど、マリには何かするかもしれない。
シュウスケは、娘が安全だという確証がもてなかったのだ。
何かあってからでは遅いから、行動を起こしたのだろう。
離婚して、親権をとれば。
エリコもマリも、2人とも守れると思った。
だって、私はエリコに憑いているから。
ーー シュウスケ、私はマリにも危害を加えたりはしないわ。
大事な姪に、そんなことはしない。
「お願い、マリを死なせたくはないの!
このまま、マリが死んでもいいの!?」
シュウスケが目を見開いた。
彼だって、目的は同じ。
娘を、マリを守りたいはずだ。
彼の目が、こわごわと私たちを見つめていたマリに向けられた。
マリの身体は、もうほとんどが透けている。
すでに足はない。
つう、と彼の左目から涙がこぼれ落ちた。
「私なら、マリを助けられる。
エリコに電話をかけさせなければいい。
私なら、できるの。
お願い、私を信じて!!」
私の魂からの叫びが届いたのだろうか。
ふっと足から手が離れた。
力が緩んだ隙に足を引き、立ち上がる。
そのまま、マリの手を掴んで走り出した。
後ろは、もう振り返らない。
「……パパ。」
ぽつりとしたマリの呟きだけが、耳に残った。
病院は、ガラガラと崩れだしていた。
よろめきながらも、決して足は止めない。
早く。
一刻も早く。
目指すは、出口。
閉ざされた自動ドアの向こう側。
地下のスロープを上がり、ようやく待合いスペースまで辿り着いた。
壁にかけられた時計の針が、16時59分を指す。
残り、1分。
自動ドアが開かないことは、最初に確認した。
もうガラスを砕くしかない。
何かないか。
目についた消化器を掴み、自動ドアに投げつけた。
ガン、という音をたててゴロゴロと消化器が転がる。
しかし、自動ドアには傷ひとつ付いていない。
コチコチ。
容赦なく、時計の針は進む。
じっとりと額に汗が浮いた。
どうする、どうする、どうする!?
焦りが、私の判断を鈍らせる。
手当たり次第に自動ドアに物をぶつけてみたが、びくともしない。
もはや策もないのか。
そこへ、ことんっと背後から何かが落ちる音がした。
振り返ると、リノリウムの床に人形が落ちている。
黒髪の女の子。
両手両足を失った、胴体だけの人形。
その首が、こちらを向いていた。
あれは、私だ。
私が依代にした人形。
マリのお気に入り。
そうだ。
私たちが、ここを出る必要はない。
人形が、シュウスケの車にあれば良いのだ。
自動ドアの向こうには、黒い車がある。
あれは、シュウスケの車だ。
「……パパ!」
もはや腰から上しかないマリが、嬉しそうな声をあげた。
いつの間にか、自動ドアの前にシュウスケがいる。
彼はグギギと、自動ドアに手をかけた。
重いドアが、ゆっくりと開いていく。
コチコチ。
迷っている時間はない。
一か八か。
私は人形を拾いあげ、思いっきりドアの向こうへ投げつけた。
黒髪の人形は、自動ドアの隙間を抜けていく。
黒いシュウスケの車に、こんっと当たって落ちた。
その衝撃で、ぽろっと人形の首が外れる。
コロコロと転がる首から先。
その顔は、私と同じ。
直後、ピシッと魂に罅が入る音を聞いた。
そう、これでいい。
私はマリを助けるために来た。
自分の魂をかけて。
徐々に身体を取り戻しつつあるマリの姿に、ホッと息をつく。
彼女は、このまま現実の世界へ戻るだろう。
あなたが受けた傷は人形が……このエマが引き受けた。
ピシピシと自分の身体が崩壊していく。
シュウスケ、ごめん。
あなたのことも、助けてあげたかったけれど。
私の魂では、マリ1人の身代わりが限界なの。
ーー さようなら、エリコ。
あなたの幸せを願っている。
双子の片割れに思いを馳せた瞬間。
魂が砕ける音が、周囲に響いた。
♢♢
報せを受けて、エリコが病院に駆けつけた時には、シュウスケは天国へと旅立っていた。
泣き崩れる義母を前に、呆然と立ち尽くす。
夕方まで、エリコの家で元気にしていたのに。
事故だったという。
右側から信号無視で突っ込んできた車と接触した。
シュウスケは咄嗟にハンドルを左に切ったようだが、間に合わなかった。
義父が、そっとシュウスケにかけられた布を取る。
顔は、綺麗なままだった。
それがせめてもの救いか。
「エリコさん……。」
義父が、そっと声をかけてきた。
「マリは、どうなった……?」
娘のマリは、シュウスケの車の助手席に乗っていた。
シュウスケがハンドルを左に切ったのと、チャイルドシートのおかげで、怪我をしたが命に別状はない。
ただ、事故のショックで気を失っていた。
「まだ意識は戻っていません。
ですが、直に目を覚ますだろうと……。」
医者から聞いた話だ。
首や手足など、至るところに衝撃を受けたので、しばらく入院が必要とのことだった。
でも、命はある。
「そうか……。 シュウスケ、聞いたか。
マリは無事だそうだぞ。」
義父がシュウスケの頭を撫でる。
ぽろっと、エリコの目から涙がこぼれ落ちた。
シュウスケ。
結婚生活は、うまくいかなかったけれど。
あなたのこと、愛していたわ。
そっと、手を合わせた。
どうか、安らかに眠れますように。
ふと、何かを忘れている気がした。
なんだろう?
何か大切ものを失ってしまったような。
胸に、ポッカリと穴が空いたような。
記憶を辿るものの、思い出せない。
首を傾げるものの。
看護師に呼ばれて、エリコは胸に引っかかるものを追い払った。
しっかりしなければ。
あの子には、もう母親のエリコしかいないのだから。
その数時間後。
マリの瞼が震えた。
そっと開かれた瞳が、エリコを映す。
「……ママ?」
小さな口が、エリコを呼ぶ。
エリコは神に感謝した。
今なら、どんな神でも仏でも信じよう。
マリは、一生懸命に言葉を紡いだ。
「あのね。 パパとエマ、仲直りしたよ。」
数日後。
事故で壊れたシュウスケの車から、バラバラの人形が発見された。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。