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前編


ふと気がついて時計を見ると、もう17時だった。


「……やだ、もうこんな時間なの?」


そろそろ買い物に行かなくては。

財布と家の鍵を手に取り、立ち上がる。

その時、ことんっと何かが落ちた。

床に転がったものを確認して驚く。


黒い髪の女の子。

娘のお気に入りの人形だ。

名前はエマ。


まん丸の目が、ぼんやりと天井を見つめている。

どうやら、忘れて帰ったらしい。


エリコは半年前に離婚した。

しかし、幼い娘を育てるられるほどの経済力がなかった。


すでに両親を亡くし、実家に頼ることもできない。

ひとりっ子で、兄弟姉妹もいない。

正確には双子の片割れがいたが、生まれてくることができなかったのだ。

だから、エリコには頼れる人がいない。


対して、元夫の家は義両親も健在。

娘の親権を争ったが、押し切られてしまった。


いや、本当はエリコ自身にも迷いがあった。

経済力も実家の支援もないことへの不安。


エリコと一緒にいて、娘は幸せになれるのだろうか?

そんな思いを元夫に見抜かれていたんだろう。


まんまと親権を取られ、娘との面会は月2回。

今日は、待ちに待った娘との面会日だった。


この人形は、娘がどこへ行くにも持ち歩いているものだ。

娘の1番のお友達。

これがないと泣くだろう。

次の面会日まで待っていられないに違いない。


腰を屈めて、そっと人形に手を伸ばす。

指先に人形の髪が触れた瞬間。

ビリっとした痛みが走った。


今の、何?


気がついた時には反射的に手を引いていた。

人形を見つめる。

作り物のはずの人形。

その空虚な目から、一雫、涙がこぼれていく。


ありえない。


思考が停止する。

体が固まったまま、動けない。


どれくらい時間が経っただろう?

永遠とも思えるような時間だったが、実際には数秒のことだったのかもしれない。


遠くで、何かが砕ける音がした。

くらりと目眩がする。


ーー さようなら。


耳元で、誰かがエリコにそう囁いた。



♢♢



ドーンという音が、地を揺るがす。

ふわふわとした微睡(まどろ)みから、一瞬で覚醒した。

慌てて飛び起きる。


「ここ、どこ?」


手に触れる、リノリウムの床。

見上げると、ジジッと明滅する明かり。

並べられた、いくつもの長椅子。

その先には受付と書かれたカウンター。


「……病院?」


手をついて立ち上がる。

薄暗いが、診療科の誘導案内が見えた。

見覚えのない場所だが、病院であることは間違いないだろう。

総合病院の待合いスペース。

そんなところか。


しかし、おかしい。

通常、病院にはスタッフや患者がいるものだ。

それなのに、ここはガランとしている。


誰もいない。

ただ私の息遣いだけが、院内に木霊(こだま)する。


ここはどこ?

なぜ、誰もいない?

なぜ、私はここにいる?


そこまで考えて、ハタと気がついた。


「私、って……私は、だれ?」


思い出せない。

自分の名前も、何もかも。


足の先まで震えが走る。

自分が何者かもわからない不安。

心許なさに、一歩も進めない。

足が床に縫い付けられたようだった。

忙しなく眼球だけを動かして、周囲の様子を窺う。


どうしよう。

どうすればいい?


考えを巡らしていると、パタパタと足音がした。

後ろから、誰かが近づいて来る。


鉛のように重かった身体が、パッと動く。

弾かれたように振り返った。


……誰もいない。


「誰かいるの?」


振り返った先には、閉ざされた自動ドアがあるだけ。

近寄ってみるも、反応はない。

透けて見えるガラスの向こうまで、どんよりと暗い。

ドアの外には、ぽつんと黒い車が1台止まっている。


「開かない。」


どうにか自動ドアを開けようとしたが、びくともしなかった。


パタパタ。


誰かの足音。

やはり、誰かいる。


それなのに、振り返っても姿は見当たらない。

ひたひたと胸に忍び寄る嫌な予感。


しかし、この場にずっと留まっているわけにもいかない。

ゆっくりと顔をあげて、覚悟を決めた。

受付カウンターの方へ、足を踏み出す。


コチコチ、という音が聞こえてきた。

壁にかけられた時計が目に入る。


16時。


いけない。

早くしなければ(・・・・・・・)

17時になる前に(・・・・・・・)


なぜか込み上げてくる焦り。

理由はわからない。


しかし、17時になってしまったら、手遅れ(・・・)だ。

心の底から、そう思った。


プルルルル。

プルルルル。


突如、鳴り響いた音に飛び上がる。

受付のカウンターの中からだ。


「電話?」


おそるおそる、受付カウンターへ近寄る。

机の上に置かれた固定電話が、ピカピカと点滅を繰り返していた。

まだ鳴りやむ気配がない。

そっとカウンターの中へ手を伸ばしてみる。


プルルルル。

プッ……。


受話器をとろうとした瞬間、電話が切れた。

伸ばした手が、空を切る。

なんだったんだ、今のは。


どこからか、ふわっと風が吹いた。

頰に感じる生温かい空気に顔をあげると、カウンター横のドアからガチャリという音が響く。


キィ。


内側から、ゆっくりとドアが開いた。


「え、開いた……?」


まるで、こちらへ来いと言わんばかり。

冷や汗が、たらりと背中を伝っていく。

そこへ行くことが躊躇(ためら)われた。


こわい。


コチコチ、という時計の音が耳につく。

時間が、進んでいる。


胃が締め付けられるようだった。

でも、行くしかない。

時間がないのだから。


じりじりと足を進めた。

微かに開いたドア。

その奥には暗闇が広がっている。


目を凝らして、ドアの中を覗いた。

うっすらと机が並んでいるのが見える。

事務室のようだ。

奥の机のそばに、何かある。


あれは、なに?


背の低い細い影。

微かに揺れている。


……子供?


思い当たった、その瞬間。

その影が動いた。


パタパタと駆け出す。

部屋のさらに奥へ。

ふわっと髪の毛が舞った気がした。


女の子だ。

小さな、女の子。


「ま、待って!」


恐怖も忘れて、私はその子を追いかけた。

暗闇も気にせず、奥へと進む。


あの子を行かせてはいけない。

だって、あの子は。


「待って。お願い。ーーマリ!!」


夢中だった。

置かれた机や椅子を避けながら走る。


途端、ガッと何かに足をとられた。


「ぁ……!」


ばたん、と盛大に転んだ。

じんじんと膝が痛む。

床についた手のひらがヒリヒリした。


ころ、と足元に転がっているもの。

黒髪の女の子の人形。

これに(つまず)いたらしい。


慌てて起き上がり、きょろきょろと辺りを見回す。

しかし、もう女の子の姿はなかった。


私は、自分のことを何ひとつ思い出せない。

でも、あの子のことは知っている気がした。

どんな子で、私とどういう関係だったのかはわからない。


だが、咄嗟(とっさ)に名前を呼んでいた。

あの女の子の名前は、マリ。


そして、第六感のようなものが、私に警告を発している。

あのまま、行かせてはいけない。


転がったままの人形は、微動だにしない。

そっと拾いあげると、ぽろっと右腕が取れた。

躓いたときの衝撃で、壊れてしまったらしい。

くるりと裏返すと、人形のスカートの裾が(ひるがえ)る。

中にタグが見えた。


「……エマ。」


タグには名前が記されていた。

おそらく人形の名前だろう。

筆圧の強い、子供のような字。


見つめていると、ガンガンと頭痛がする。

何かを思い出せそうな。

思い出してはいけないような。

次第にくらくらと目眩までして、思わず人形から手を放す。


ダメ。

今は、まだ。


痛む頭をおさえつつ、立ち上がる。

とにかく、マリを探さなくては。


目の前には新たなドアがある。

ノブを回すと、ガチッという音。

開かない。

施錠されている。


他を探そう。

諦めて踵を返した。


その直後。

ガチャン、と施錠されていたはずのドアの鍵が開く音がした。



♢♢



ぴこん、と通知音が鳴る。

画面には、新着のメッセージが表示された。


『接待。遅くなる。』


夫のシュウスケからだ。

ここのところ、帰宅が遅くなることが増えた。


ふぅ、とため息をつく。

きっと、帰りたくないのだろう。

エリコと会いたくないに違いない。


「ママー。」


娘が、エリコを呼ぶ。

お気に入りの人形を片手に、ぴょんぴょんと飛び跳ねていた。


「どうしたの?」


「あのね。 エマがママと遊びたいって!」


ずいっと目の前に差し出される人形。

それに、思わず笑ってしまった。


「ありがと。 えいっ。」


受け取ったものの、人形は脇に置く。

そのまま娘を、こちょこちょとくすぐった。

娘は、きゃはははと笑い転げている。

バタバタと手足が暴れだす。


子供は敏感だ。

親が落ち込んでいると、なんとなく察するものがあるらしい。

娘なりに、エリコを励まそうとしてくれたのだろう。


気を遣わせてしまった。

情けない。


娘と戯れながら、己を叱咤する。

この子に寂しい思いはさせたくない。

父親と触れ合う時間も必要だ。


ギクシャクとした夫との関係を改善しなければ。

エリコは娘の顔を見つめて、かたく決意した。



♢♢



愕然とした。

頭痛に耐えつつ、目の前のドアを開いたというのに。

思わず、後ずさる。


振り返ると、そこにあるのは暗い事務室。

更に向こうには、微かな明かりに照らされた病院の待合いスペースがある。

間違いなく、私が先ほどまでいた場所だ。


ゆっくりと視線を正面に戻す。

並べられた長椅子。

壁にかけられた時計。

診療科の誘導案内板。

受付カウンター。


目の前に広がる光景もまた、病院の待合いスペースなのだ。

事務室の奥のドアを開けたのに、待合いスペースに戻って来てしまった。


どういうこと?

両足が、わなわなと震えた。


ドアを挟んで、後ろにも前にも同じものがある。

意味がわからない。


「夢でも見ているの……?」


そうかもしれない。

だっておかしい。

空間がねじ曲がっているとでも言うのか。


足がすくんで動けずにいると、とんっと誰かに背中を押された。

足がもつれ、勢いよく倒れそうになる。

なんとか足を踏んばって耐えた。


バッと振り返ると、そこにはもう事務室に通じるドアはない。

背中を押した人物もいなかった。

煙のように消え失せている。


目の前にあるのは、閉ざされた自動ドア。

どんよりと暗いガラスの向こうの道。

ぽつんと残された黒い車。


全身の血が凍るような思いだった。

言いようのない不安で、身体が小刻みに震えている。


ループしている。

私は、出口の見当たらない恐ろしい空間に投げ出されてしまったらしい。




コチコチ、と時計の針が進む。


喉がカラカラだった。

ごくりと生唾を飲む。


コチコチ。

コチコチ。


動け、足。

マリを探さないと。


恐怖を押し込めて、こわごわと目を見開く。

薄暗い待合いスペースが、ぼんやりと浮かび上がった。


一歩踏み出すと、かさりと爪先にクシャクシャの紙が触れる。

黄ばんだ紙の切れ端。

拾ってみると、メモのようだ。

鉛筆で、何か書き殴られている。


『けいさつ、病院、ようだい不明』


ミミズののたくったような字。

それが持ち主の動揺を表している。


プルルルル。


突然の電子音。

身体が震えた。

また電話がかかってきたらしい。


プルルルル。


じっとりと額に汗が浮かぶ。

ここは、まともな世界ではない。

こんな所にかかってくる電話が、普通のものであるわけがなかった。


プルルルル。


鳴り続ける呼び出し音。

じりじりとした焦燥感に駆られる。

早く出なければならないという思いが沸き起こった。


受付カウンターに近寄る。

着信のランプがピカピカと主張した。


おそるおそる、手を伸ばす。

受話器をあげ、耳に押しあてた。

ザザザ、という酷いノイズが入っている。


『……警察……。

……事故……。

………病院に…………。

…………。』


断片的にしか聞き取れない。

しばらくすると、ノイズが大きくなりプツッと電話が切れた。


受話器をおろし、かさりとメモをひらく。

もしかして、この電話の内容を書き留めたのか?


考え込んでいると、フーフーという誰かの息遣いが聞こえた。


誰か、いる?


ぞくりとした。

ねっとりと絡みつく視線。

誰かに見られている。

鳥肌がとまらない。

あの女の子、マリではない。


かたん。


微かな物音。

すぐ、近くから。

カウンターの横にある、事務室のドアの向こうから。


息が苦しい。

動悸が激しくなる。

そちらに目を向けられない。


どうする、どうする、どうする!?


背中に凶器を押し当てられたような気持ちだった。

逃げたい。

この場から、一刻も早く。


パタパタ。


それなのに、今度は後ろから小さな足音が聞こえてきた。

おそらく長椅子のあたりを走っている音。


ーー マリ!


マリだ。

後ろにいる。

あの子を守らなくては。


恐怖を胸から追い払い、踵を返す。

パッと駆け出したところで、後頭部にゴンッという衝撃を感じた。

ぐらりと身体が傾ぐ。

どさりと倒れこんだ床から、誰かの足が見えた。

のろのろと視線を上にあげていく。


そこには、ぎょろりとした左目があった。

血走った目が、私を見下ろしている。


ぽたりと滴り落ちる血。

ぐしゃっと右目が潰れている。

身体の右半身が酷く損傷した男。


戦慄が身体を突き抜けた。

あまりの恐ろしさに声もでない。


そのまま、私の意識は真っ暗になってしまった。



♢♢



娘に空想の友達ができたのは、いつだっただろう?


「まんまー、はい。」


誰もいない空間に、おやつを差し出す娘。

話しかけたり、笑ったり。

幼稚園に通いだしたころからだ。


「エマは、ママそっくりー。」


どうやら、姿が見えない友達はエマという名前らしい。

娘の設定では、エリコに似ているようだ。


それには多少、複雑な気持ちを抱いた。

しかし、空想の友達ができること自体は異常なことではない。

でも、ここにわからず屋がいた。


「マリ、やめなさい。」


エリコの夫だ。

宙に話しかける娘の姿が、彼には不気味に映るようだった。


父親に咎められ、娘はしゅんとした。

見ていられない。


何度も普通のことだ、と説明したのに。

成長過程において、空想の友達をもつ子供は少なくない。

せっかく楽しそうに遊んでいたのに。


エリコは、ため息をついた。

ここのところ、子育てにおける価値観の相違が夫婦仲に影響を及ぼしている気がする。


育った家庭が違う。

でも、それはどこの夫婦も同じはず。

話し合いながら、少しずつ意見をすり合わせていくものなのではないのか。


それなのに、夫はエリコの意見を聞き流すことが多い。

子育てに関しては、確固たる信念があるらしかった。


ちらりと娘の様子を窺う。

うるうると瞳に涙の膜。


「おいで、ママと遊ぼう。」


呼びかけると、ぶわわっと涙が溢れた。

小さな身体が、エリコの胸に飛び込んでくる。

しっかりと抱きしめた。


何が正しいのか、エリコにもわからない。

夫の教育方針なら、しっかりとした子に育つのかもしれない。


でも、今。

幼い娘の心を傷つけてまで厳しく注意をする必要があるのだろうか?

空想することは悪いことではないと思う。


賛否両論あるだろう。

でも、エリコは娘の心を守ってあげたかった。


これでまた、夫と揉めることになるのかもしれない。

しかし、後悔はない。


夫との関係は、日々、冷え込んでいる。



♢♢



ふっと意識が浮上した。

ズキズキと頭が痛む。

波が寄せるようにやってくる嘔吐感。

ふらつきながら、なんとか上体を起こす。


コチコチ。


時計の音を耳にして、ハッとした。

今、何時?


見上げた掛け時計は、16時半を指している。

ザーッと血の気が引いた。


あと30分しかない。

なんてこと。


「……マリ。 どこなの、マリ!!」


平静さを失い、大声で叫ぶ。

相変わらずガランとした待合いスペースに、私の声が反響した。


よろめきながら、足を進める。

長椅子の付近にはいない。

受付カウンターのところまで戻り、手をついて身体を支える。


ことん。


途端に、降ってきたもの。

黒髪の人形。


私は目を見開いた。

ころっと投げ出された人形には、両腕がない。

近くに捥がれた左腕。

とうとう両腕を失ってしまったようだ。


こと、こと、こと。


その人形から、音が鳴る。

ゆっくりゆっくりと、人形の首が傾きだした。

天井を見上げていたはずの首が、少しずつ私の方へ。

膝から崩れ落ちそうだった。


こと、ことん。


首が完全に横へ傾き、空虚な瞳が私を見つめた。

やがて、両目から水が流れてくる。


ぽたり、ぽたりと。


手足が震えて、腰から力が抜けた。

はっ、はっ、と呼吸が乱れていく。


恐ろしさも限界に達するころ、足音が聞こえた。

パタパタと駆け回る音。

子供らしい軽い足音は、マリのはず。

おかげで、恐怖よりもマリへの心配が上回った。


「……どこ? マリ、どこにいるの!?」


きょろきょろと周囲に目を向けるが、姿は見当たらない。

待合いスペースにいないなら、事務室か?

這うように、受付カウンターの横にあるドアを目指す。


早く、早く。

ここから、出なければ。

17時に、なる前に。


「あの子を、助けなきゃ……。」


口からついて出た言葉に、ハッとした。


なぜ、私はここにいるのか?

その答えがわかった気がした。


ここがどこで、どういう場所かはわからない。

しかし、私はマリという女の子を助けに来たのだ。


ずりずりと事務室のドアまで辿り着き、ドアノブをまわした。

キィという音ともに、ドアが開く。


暗闇の中に、小さな黒い影。

私はホッとした。


「マリ。」


しかし、マリは背を向けたまま。

事務室の中に入り、マリへと近づいていく。


フー、フー。


荒い息遣いが、後ろから聞こえてきた。

これは、先ほどの右半身が潰れた男?


フー、フー。


探されている。

どっと冷や汗が吹き出した。


でも、まだ私たちに気がついていないと思う。

受付の長椅子あたりだろうか。

少し距離がある。


お願い。

こっちに来ないで。


心臓を押さえながら、音を立てないように少しずつ進む。

やっとの思いで、マリのそばまで辿り着いた。


マリは手にしたものを黙って見つめている。

あの黒髪の人形だ。

たしか名前はエマだったか。


なぜ、ここに?

受付カウンターのあたりに落ちてきて、そのままのはずなのに。

なぜ、マリが持っている?


異様なことは、それだけではない。

さっき見た時点で、すでに両腕がなかった。

だが、今はもう足もない。

両足を失っている。

胴体のみという痛々しい状態だ。


ごくり、と息を飲み込んだ。

マリの顔は、髪で隠されている。

表情がわからない。


フー、フー。


男の息遣いが近くなり、我に返った。

今は、人形のことを気にしている暇はない。

私はマリの肩を軽く叩き、こちらに注意を促す。

マリが顔を上げたところで、手を引き歩きだした。


途端、ぐんっと室内の気温が下がっていく。

ひやっとした空気が頰をなでた。


『かえせ……かえせ……。

ムスメを……どこに連れて行くつもりだ!』


怒りに満ちた叫びだった。

男は地の底から響くような咆哮をあげる。


恐怖に駆られて逃げながら、私は混乱していた。

今、あの男は何と言った?


ムスメ?

この子、マリの父親なのか?


事務室の奥のドア。

先ほど開けた時は、病院の待合いスペースに逆戻りした。

また同じようにループするのだろうか?

わからない。


だが、もう行くしかなかった。

後ろからは、右半身が潰れた男が迫ってきているのだ。


たとえ、マリの父親でも。

私は捕まったら終わりだと思った。


あの男に捕まったら、死ぬ。

これは直感だった。


ドアに駆け寄り、ガチャリとノブをまわした。



♢♢



エリコの身体は、ぶるぶると震えたまま。

駆け込んだ病院には、すでに物言わぬ元夫、シュウスケが横たわっていた。


事故の報せを受けて、駆けつけた義母が泣き崩れる。

義父が顔を確認しようとしたところを看護師が止めた。


「お顔は……見ない方がいいと思います。」


ぐっと涙を堪えていた義父が、義母の肩を抱くようにして(くずお)れた。

元夫の身体は、右半身が酷く損傷しているという。


交通事故だ。

元夫と娘は、エリコの家から車で自宅に戻る途中だった。

そこへ右から突っ込んできた車が、運転席にいた元夫を押しつぶしたのだ。

よくある交差点での接触。


しかし、それはエリコのせいかもしれない。

あの時、電話をかけなければ。

彼がエリコに気を取られなければ、最悪の事態にはならなかったかもしれないのに。




『……もしもし。 運転中だから、かけなおすよ。』


しかし、エリコは遮った。

用件は一言で済む。

かけなおしてもらうほど、長い話ではない。


「待って。 エマを忘れてるって伝えたかっただけ。」


『エマ?……あぁ、あの不気味な人形か。

それなら、っ!?』


直後に響いた、ドーンという大きな音。

続いて何かが砕ける音。

尋常ではない様子に、エリコは動転した。


「え、な、何?

……シュウスケ? シュウスケ!?」


どれほど呼びかけても、返事が返ってくることはなかった。


後編は22:00に投稿予約済

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