第98話 エレベーターのあれこれ
「こ、これが38階からの景色……? こんな、こんなことになってるなんて。これ望遠鏡あったらポートアイランド見えるんじゃ」
「あー、神戸のやつね。それはさすがにきついんじゃ。あ、ほら」
7月の良く晴れた日の午後、41階建てマンション38階2LDK角部屋のバルコニーで震えているみきに、吉井は冷えたビンのコーラを渡した。
ネットカフェとマンスリーマンションからの引っ越しのため、吉井とみきの2人で何件か不動産屋を巡った後の帰り道、銀行口座に多額の現金を入れて痕跡を残すのは不安なのでもうしばらく現金で保管したい。それを考えると戸建てはセキュリティ面に問題がある。という吉井の身振り手振りを交えた説得がみきに認められ、マンションに住むことが決定すると、方向性が決まったらならすぐに動くべき。まだ店は開いている。わたしたちには時間がない、ような気がする。というみきの提案により、2人は帰り道にあった不動産屋に寄った。
店内に入り、受付に案内された席にいた40代男不動産屋店員に状況を伝えた2人は、近日中に入居できる分譲マンションをいくつか紹介されたが、主にみきが主張する条件に合うものがなかったので分譲を一時保留し、予算度外視で即日入居を基本に賃貸物件の提案を40代男不動産屋店員お願いした結果、若干場繋ぎ感がある口調で紹介された41階建てのタワーマンションの38階と3階にみきが異常な興味を持ち、他は見る必要がない。とりあえずここに住むか、住まないかだ。そう言ってみきは他の住居の案内を断り、そのマンションの資料だけを持って店を出た。
「あのさ、これちゃんと見た?」
「さっきの人に貰った資料ですか」
ケンタッキーに寄った2人は、オリジナルチキン5つとそれぞれドリンクを注文し席に着いていた。
「敷金礼金諸々入れた初期費用が2部屋で500万ぐらい掛かるぞ。こんなの庶民が出す金額じゃないと」
「吉井さん、考え方が間違ってます。庶民っていうのは」
みきは自分が好きなピースを箱から選び2つ取り出した。
「基本タワマンに憧れるんですよ。ゆえに庶民がお金を持ったら自動的に住みます。だから今回の行動は庶民派という視点からズレてないですから」
「そういう意味での庶民なんだな。きみは」
あーあ、また胸肉残ってるよ……。箱を覗き込んだ吉井はしぶしぶ余った肉を取り出す。
「お金が入ったら庶民だって牙をむく。当然じゃないですか」
「まあいいんだけどさ。でもきみ3階でいいの?」
わかってませんねえ。みきはレモネードソーダを飲みながらテーブルをトントンと叩く。
「ラカラリムドルの人達が攻めてきたことを考えないと。だから最悪窓から飛び降りれるとこに住みたいんですよ。大体そういうときって、部屋とマンションの玄関は見張ってるはずです。わたしは裏から回って吉井さんの部屋に逃げ込むんですよ」
「ああ、駐車場側ね。あっちからも入れるか」
「ねえ、いいじゃないですか。もう決めちゃいましょうよ」
「めちゃくちゃ気に入ってんなー、この物件」
「駅も近いし、コンビニも秒ですよ。コンシュルジュだっているとかいないとか。もう大げさに言うならここに住むのは横浜市民全員の悲願です。それに一度帰りかけてからの出会い。この物件に辿り着いたのは大げさにいうと運命と言えるんじゃないでしょうか」
でたよ、家選ぶときの最後の一押し、いわゆる運命。つーか大げさって2回言ってるしなー。でもまあいっか。どこでもいいよ、正直。どうせ何やっても向こうでリセットからのスタートだし。
ケンタッキー胸肉を食べ終えた吉井は丁寧に手を拭いてから、ほんとに進めるからな。と念を押した後、先程貰った名刺の番号に電話を掛けた。
現金での支払いに関して少し揉めた後はスムーズに進み、翌週に契約を終えた2日後からみき、5日後に吉井が入居した。
「吉井さんの方、家賃いくらでしたっけ?」
「んー、50万ぐらいだったな」
コーラを受け取ったみきは、吉井が念入りに選んだバルコニーに置いているカフェテーブルに腰を掛け、吉井も合わせて座る。
「わたしのとこは35万です。間取りもちょっと違いますけど」
「でもきみが言ったんだからな。最悪飛び降りて助かる高さの場所に自分だけでも住みたいって」
「うん、それはそうなんですけど……」
みきは瓶コーラの蓋をカフェテーブルの端にある穴に入れて開けた。
「な? そのビン開けのとこ良いだろ! 道具必要ないんだぜ!」
「さんざん聞いてましたからね。コーラもわざわざビンにしたって」
「ビールも変えたんだよ。やっぱ飲み物は全部ビンだよ」
吉井はみきの逆側の穴を使い手に持っていたビールの小瓶の蓋を開ける。
「バルコニーも広いですねえ、わたしのとこより」
「あ? そうなんだ。おれそっち見てないからなあ。今度降りた時にでも一回見せてよ」
「あのう、こんなこと言うと」
「ちょっと待ってくれよ。今回の決定は未来永劫において不可逆だって言ってたよな?」
「言いましたよ、いいました。ただそう、感想です。感想を言わせてください。昨日のことなんですけど」
みきは神妙な顔で話し始める。
「エレベーターに乗ったときのことなんです。前に1人いたんですけど、1階に着いたから前に並んでいる50代女性が先に乗りました。で、後から入ったわたしが3を押した瞬間ちょっと笑ったんですよ! ちなみに29階のボタンが押されていました」
「あー、それなあ」
「お前みたいなレベル3がエレベーター乗るの? みたいな視線を確実に感じたんです!」
「はいはい、わかるよ」
「でもよく考えてみたらわたしだって、気が付いたら30階以上押した人には一目置いてるんですよ。やるじゃん? みたいな」
うん、そう。そうなんだよ。吉井は頷いてビールのビンをテーブルに置いた。
「きみに共感することはあまりないが、これに関しては分かる。おれも思う時があるもん。17階、か。ダブルスコアだな、って。おっといかんいかんみたいな」
「もうほんときついんです。だからわたしちょっとしんどいけど人いる時は階段使って歩いて……」
「3階はエレベーター使っても許されると思うんだけどなあ。しかし住むまで気付かなかったけど、タワーマンションって住んでる階数が、もろその人の強さっていうね」
「失敗しました。5階建ての3階ならこんな気持ちにならずに済んだのに」
「いや、だってそっちが言ったんじゃん。タワーマンションに住みたい! って」
「ああ、もう!」
みきはコーラを飲み欲してテーブルに置いた。
「知らなかったんですよ! ずっと1階に住んでて使わなかったから、エレベーターでボタン押したときの人の目なんて想像もできなかったんです!」
「おれもこれまでは車庫上の2階、実質1階が最高の高さだったからな。住んでみて初めて気が付いたし」
「こんな気持ちで生活するのは辛すぎます。ここ2LDKですよね? 今日からわたしが1部屋使いますから。吉井さんの荷物あるんならわたしの家に置いていいですよ。あ、でもお風呂とか1人になりたい夜は下に戻ります」
「いや、それだと前提がぐっちゃぐちゃに。どうすんの?きみのいうラカラリムドルの人達がいきなり38階に攻めてきたら」
「ああ、それですか」
みきは手を伸ばして風の感触を確かめながらバルコニー内を見回す。
「あの人達、集合住宅の窓の外にスペースっていう発想ないですから。この辺に隠れてたら永遠に見つけられないですよ」
「んー、さすがにそれは悪口になってると思うけどなあ」
「違います、事実を告げることは悪口ではなくて指摘です。もっと言えば、なぜこれに気が付かなかったか自分を今猛烈に責めてるんですけど、あの人達にエレベーターっていう物体の発想ないです。だからあの人達がいきなり部屋に入ってきたらバルコニーで隠れつつ、いい感じの時にさーってエレベータまで行って下に降ります。追ってくる向こうは階段で下に行きますから。で、1階で軽く挑発した後、わたしはまたエレベーターで昇り、向こうは階段で追いかける。それを3ターンぐらい繰り返したら諦めて帰りますよ」
言ってることはわかるけどさ。まったく、全然、さっぱり上手く行く気がしない。吉井は何となく情景をイメージした後、「まあ、来る人によるよね。人によってはなんとかなるよね」そう自分に言い聞かせるように言った。
「わかればいいんですよ。後で荷物運び手伝ってください」
「ああ、うん。わかったよ」
その後、数分間吉井とみきは無言でそれぞれ景色を眺め、途中吉井は部屋に戻ってビールと堅あげポテトを持って戻った。
「ねえ、吉井さん。今後家賃35万の部屋を物置同然に使い、家賃50万の部屋に住むわたしたちの今日の夕食は、ちょっといい焼き肉の店ですよね?」
みきは椅子を吉井の対面ではなく外側に向けていた。
「そうだな。ちょっといいところだな」
吉井は3本目のビールをちびちびと飲みながら、堅あげポテトをつまむ。
「この景色と焼き肉で思ったんですけど。わたしたちもう別のステージにいません?」
「ああ。特に何もしてないが、おれは何か達した感があるよ。あと夜景やばいぞ、ここ」
「夜景かあ。余計達しちゃいますよねえ」
「もういいんじゃない? こっちのはこれで終わりでさ。戻る方法はきみの好きな努力と根性でなんとかすれば」
「あー、だめだめ!」
みきはパンパンと手を叩く。
「まだわたしたちは努力以前の場所にいます。なにからしらの競技でインターハイ優勝が目標だとしたら、その部活に入ってすらいないんです。漫画でいうなら-7巻ぐらいですから。ね、気を取り直してお金集めましょう! ほら、この前言ってた闇スロットとか闇カジノの一斉摘発で現金総取りっていうのやってみましょうよ!」
「うん、だからね。それ前も似たようなこといったけどさ。その辺おれらが歩いててすぐ見つけられたら、それは闇じゃないだろう」
言い訳は。みきは立ち上がって部屋の窓を開ける。
「聞きたくありません。今日のそろばんは先生の体調不良で休みなので、店の予約の時間まで探しますから」
そして闇を探しつつ、すご!、風すご!、とひとしきり高層階を楽しんだみきは、一旦部屋に戻って荷物整理する、と言い残し玄関に向かった。
おれ部屋の家具選びたいんだけどなあ。ビールを飲み干した吉井は、残った堅あげポテトを持って部屋に入った。




