第88話 泥
ネットカフェから徒歩数分のマンスリーマンションに拠点を移した吉井は、ありあまる時間の中で今後の生活について様々な可能性を吟味した結果、とりあえず競馬で金の工面をすることにした。
ただ、競馬についての吉井の全知識は、幼少期に近所に住んでいた同級生の兄がダービースタリオンをプレイしていたのを横から見ていた時に得たものしかなかった。それを踏まえて実際に下調べをしておいたほうが成功する可能性が高くなるとの考えから、午前中にのそのそとマンスリーマンションのベッドから這い出て横浜駅から京急本線に乗り川崎競馬場に向かった。
平日の午後ということもあって、想像していたより遥かにまばらな観客席から1レース見た後、次のレースで吉井は能力を使ってスタートからゴールまでの様子を間近で観察した。
なるほどなあ、こういう感じねえ。馬って思ったよりでかいな。観客席に戻り、果汁が多めのジュースを飲みながら3レース目をどうしようかと思っていたところで、吉井はみきから連絡が入っていたことに気付いた。
また図書館行ってんのかよ。そんなに頻繁に出入りして知り合いに会わないのか?
吉井はみきに返信した後、端末をポケットにしまいパドックに注目した。
普通にやるとしたら3連単とか配当が高そうなのを買って、馬を勝たすっていうやり方なのか? だけどレース中に自然な感じに介入するって結構しんどいよ、見た感じ。でもなあ、馬と騎手を怪我さすっていうのはなあ。現金が欲しくてそれやるくらいならレジから取るっていうか。そのほうが世の中全体のダメージは少ないよ。しかし、がしかし、競馬なら一応は出どころがわかる金だから気分的には落ち着く利点も。うーん、馬と騎手両方を怪我させないっていうと、スタートの時点で対象の馬以外の騎手を、はい、ごめんよー、よっこらせ。みたいに下ろすっていう感じになるか。強めでつええを使えばなんとかなりそう。さっ、ほい、さっ、ほい、さって。あ、でも。
それレース成立すんのか? 吉井は端末を取り出して検索した。
へえ、フライングってカンパイっていうんだ。まあ、それには該当しないだろ。うーん、と。ああ、これか。『妨害行為その他の事由により、むにゃむにゃ、上が認めた場合は、むにゃむにゃ。だめよ』これだよなあ、ここに該当するかどうかだ。まあやろうとしているのは思いっきり妨害行為だけどさ。でもいっか、払い戻ししてくれるから。
次のレースで吉井はスタートの瞬間にパドックの後ろに移動し、騎手を馬から降ろし、そして戻すということを何人かに行ったが特別問題なくスタートした。
よしよし、できるぞ。後は帰りに高額当選したときのことを調べておこう。税金が掛かるのかも気になる。場合によっては偽おれがえらい目に合うからな。
吉井は一度観客席に戻りレースを見届けた後、競馬場を出て最寄駅に向かった。
横浜駅に着いた吉井は、みきの指定したポイントが微妙な距離だったのでバスを使うことも一瞬考えたが、市内のバスのルールに戸惑うことが想定されたため、コンビニで強炭酸水を買って飲みながら歩いて向かった。
また怒られるかなあ。なんでつええですぐ来ないんですかって。でもなんかもったいなくて、この横浜の街の景色とかさ。せっかくだし堪能しておきたいんだよ。あっちから急に戻ったってことは、同じようにいきなりまた飛ばされるかもしれないし。
そしたら横浜以前にこっちに2度と戻れないかもしれないからな。
吉井は途中のコンビニで空になったペットボトルを捨て、端末を見ながら目的地に向かった。
ええと、この辺か? あ、いた。指定された住宅街にある公園にいるみきを見つけ、吉井は公園内に入った。
「遅いです、これ2本目ですよ!」
公園のベンチに座っていたみきは棒状のアイスを振った。
みきは初日こそゆったりとした服を着ていたが、それ以降購入する服は動きやすさのみを追求したものとなっており、大抵はシンプルなタンクトップ上に何かを着ているか、Tシャツの上に何かを着ていた。
下は伸縮素材と思われる体にフィットしたものしか吉井は見たことが無く、色は全体的に黒、紺、茶などを基調としており、一度配色について吉井が尋ねると、森で一晩過ごしても汚れが目立たないということを念頭に置いてるんですけど? という答えが、侮蔑を含んだ視線と共に返って来た。
「ん、2本目ってどういう」
「コンビニでアイス買ってここで食べてて、吉井さん来ないからもう1回行って買って来たんですよ」
「すごいね、いろいろと」
吉井は2人掛けのベンチに腰掛けた。
「暑くなってきましたからね。アイスの新鮮味が薄れないうちは何本でも食べられますよ」
「まだアイスは新鮮なんだな。こっちきて2週間ぐらい? あ、もう7月になるのか」
吉井としては高級といえる3万9千円で買った腕時計で確認すると、6月28日(水)18時39分と表示されていた。
「あの、いいですか?その買ったばかりの時計を無理やり使う感じ。見てるほうとしては結構きついんですけど」
「一つ言っておこう。その感じがなくなったらそれはもう人じゃない」
「またそんな言い訳を」
みきはそう言った後、公園敷地内に目を移す。
「ねえ吉井さん。なんかこの夏の感じ、ちょっと触ったら暑いベンチの金具とか、アイス割とすぐ溶けるとか、夕方から夜にかけてのうれしい感じとかってどれぐらい残るんでしょうかねえ」
「残る? ああ、覚えておけるかってこと? そうだな、経験上だけど小さい頃の記憶とかって生々しく残るよ。30代、いや29歳になってもめちゃくちゃ覚えてるもん。それが結構しんどい時もある」
「へえ、そういうもんなんですねえ」
みきは俯いて食べ終えたアイスの棒をレジ袋の中に入れる。
「ねえ、吉井さん。わたしたちって何なんですかねえ。状況だけ見ればですよ? そこだけで見たら、言ってしまえば泥人形じゃないですか。で、泥人形だとしたらもう泥じゃないですか」
「そうだな。泥人形だとしたら泥だな」
「なんか今日すごく不安になって」
みきは袋をベンチの横に置き両手で顔を覆ったまま、「もうちょっと、話いいですか?」と絞り出すように言った。
「うん、いいよ。どっか行くか?」
「いいです。このまま、ここでいいです。あのわたし今日、図書館の後そろばん教室に行ったんですよ。そこは4回目、全部で7回目です。それなのに、それなのに」
みきは言葉を切ってより深く手で顔を覆った。
「今日入ったばかりの小学2年生に1時間で抜かれたんです……」
ああ、それで落ち込んでたのか。この前、一昨日か。はりきって自分用のそろばんも買ってたのになあ。吉井は言うべき言葉が見つからず黙ってみきの話の続きを待った。
「先生に聞いてみたんです。わたしってもしかして理解力に欠けている部分ありますか? って」
「で、なんて返って来たの?」
「大丈夫です。これから頑張りましょう! って笑顔で言われました」
「深く考えないでいいよ。言われた通りこれから頑張れば」
「でも、でも!」
みきは顔を覆っていた手を取って吉井を見た。
「正直それからの1時間ぐらいわたしずっとそろばんの悪口を頭の中で繰り返してたんです。ここでは言えないような酷いことを、ずっとずっと」
「まあそんな日もあるさ。大体ほら脳の造りがね、こう小さい子のほうが柔らかいというか」
「脳なんて乳児から高齢者までみんな柔らかいじゃないですか!」
「あー、うん。そうなんだけどさ。例えで、あくまで例えだよ。あ、そうだ。居酒屋行かないか? 一度行って見たいって言ってたじゃないか」
「そんなわかりやすい慰めでも受け入れます。これを拒否するとわたしは本当の意味でそろばんに負けたことになるんで。一応場所は事前に調べてます」
みきはレジ袋を持って立ち上がった。
「わかった。そこに行こう。そこ以外には考えられない」
吉井は笑顔と共に完全に同意した。
公園を出た吉井とみきは、車が1台は通れるがすれ違うことは相当難しいと思われる幅の住宅街の道を並んで歩いていた。
ねえ、吉井さん、アニメの冒頭でたまにあるんですけど。うん、なに? こうなんていんでしょうか、女性の声優の独壇場的にですね。景色とか感触を言っていくっていうのあるじゃないですか、カットに合わせて。ん? 景色とか感触、って具体的には?そうですね、例えば『コンクリートに降りそそぐ夏の雨の匂い、薄暗い下駄箱、買ったばかりのペットボトルのしずく』あー、これ一番やばいやつです『どこからか聴こえる楽器の音』ね? やばいでしょ。絶対吹奏楽の練習のやつですよ。それとかええと、もっとあるんですよ。今出てこないだけで。いや、わかるけどさ。それがどうしたの? もうあれっていらなくないですか? 昨日観たのでもやってたんですよ。うーん、でも一応みんなとその世界を共有したいってことだからさあ。わかりやすくしないと意味ないよ。伝えるってことがメインで、そこでびっくりさせようとしたいわけじゃないんだから。それにきみは何回か観たことあるかもしれないけど、そういう定番って世の中全部の人のためのものじゃないから。初めての人だっている、というかきみさっき軽く言ってたし。はあ?わたしが言うわけないじゃないですか。でも吉井さんが言うこともわかるんですよ、けどね。作ってる人は知ってるわけじゃないですか。それをどや顔かつ声優に頼りっきりで使うのはどうかなって思うんですよ。それは違うなあ、伝えるということに関して完全オリジナルっていうのはあまり意味がないっていうか。できるよ、多分。オリジナルでみんなできるんだよ。でも伝わらなかったら意味がないだろ? きみとは意識しているポイントが違うんじゃないかなあ。そしてやはり思い返してみてもきみは軽く言ってた。
「言った言わないの話って好きじゃないんですけど」
みきは道路の真ん中で立ち止まって吉井をじっと見た。
「それを含め、この話は居酒屋で決着をつけましょう。そしてわたしは今日、人生で初めてアルコールを大量に摂取することを宣言します」
「えー、それはちょっとなあ。未成年だしさあ」
「わたしは未成年以前に泥なんですよ! 泥に人間の作った法律が適用されますか!?」
「きみにとってきみは泥でも店員にとってきみは人間なんだよ……」
「わたしのことはわたしが決めます!」
みきは勢いよく振り返り歩き出した。
うーん、そろばんができないことでみきの自我が崩壊でもしたのか?それで自分を泥などど言い始め、アニメあるあるがやたら気になるという状況に。
吉井はこれから行く店に若干の不安を覚えつつ、みきと共に駅前に向かって歩いた。




