第61話 そろばんの休止
翌朝、吉井が1階に降りるとみきは既に作業を始めており、吉井は一通りの挨拶を済ませた後、トイレに行ってくると言って家を出た。
天気いいなあ、これは気持ちいい。時折重なる朝日とその陰の比率を比べながら吉井は路地裏を歩く。
しかし昨日の解答編のくだり。朝一で言ってくると思ったけどな。まあ、あえてこっちから言う事でもないよ。忘れてるんならそれはそれでいいし。
路地裏から少し広めの道に出ると、吉井の感覚では少し早めの早朝だったが、多くの人や荷台が行き来しており、生活音の雰囲気から住宅用だと思われる2階建ての建物に挟まれた道を、吉井は人と荷台の間を抜けながらトイレに向かう。
正直ここ通ってる人達が何してるのか、周りの建物がなんなのかまったくわからないけど。吉井は目線を上下左右に振り、辺りを見回しながら歩く。
ちょっとこの環境に慣れてきてるなあ、おれ。
吉井はこの世界に馴染んできた現状を喜ぶべきことなのか迷ったが、慣れといて損はない、今向こうに戻ってもすぐに電子マネーに切り替えられるし。他にも、ええと。他にもいろいろある。まだ大丈夫だ、おれは覚えている。と自らの経験に裏打ちされた自信によってこの環境に適応することを自分に許し、トイレに向かうため力強く足を踏み出した。
「おお、それは朝ごはんですか!」
「うん。ちょっと寄ってきた」
家に戻ってきた吉井は帰る途中で買ったリンゴと、パンとナンの中間のようなものをテーブルの上に置いた。
「すいません。ありがたくそして今すぐにいただきます」
みきは右手にリンゴ、左手にパンとナンの中間のようなものを持って交互に食べる。
「いいよ。おれも食べたかったから」
「あ、そうえば」
みきはパンとナンの中間のようなものを持った左手を振る。
「前から思ってたんですけど。これってパンなんですか? それともナン?」
「それなあ」
吉井はリンゴをデザートとして捉えていたので、先にパンとナンの中間のようなものを集中的に食べていた。
「もうさ、パンでよくないか? パンっちゃパンだし。まあナンっちゃナンだけどさ」
「そうですね。じゃあ今後これはパンで」
「こっちの人はなんて言ってるんだろうな、このパンは」
「うーん、村にはこれなかったですからねえ。あ、そうだ。今度ススリゴさんいる時に吉井さん買ってきてくださいよ。それで会話の中でこれを言うように誘導しましょう」
「下らないが効果的ではあるな。そうするか」
朝食を食べ終えた2人は、時折スポーツ漫画の表現方法について話ながら作業をこなし、昼前には予定していたすべての作業を終わらせた。
「吉井さん。今日の午後は回収ですか?」
みきは鍋敷きをテーブルに置き、暖炉のヤカンを移動させた。
「そうだな。昨日休んだからさすがに今日はやらないと。でもその前にギルド行ってさ。クエストだけ受けとこうぜ」
「そうですね。正直わたしの午後の分、2人でやったからもう終わってるんですよね」
「だったらさ。おれはこれからも午前ちゃんとやるから、きみは午後ギルドの依頼やってもいいんじゃない。ランク上げないと話にならないっぽいし」
「ええー、わたし午後はそろばんの開発に使うつもりなんですけど」
そろばんかあ。あったな、そんなのも。すでに遠い過去のようだ。吉井は台所横にある焼き鳥の串が入った袋を見ながらお茶を飲む。
「あ、そういえば。ちなみになんだけど。そろばんの試作品が出来たとしてだよ。きみそろばんって使えるの?」
「ちょっといくらなんでも舐めすぎです。そろばんっていうのは経験がものを言うんです。1日体験でドロップアウトしたわたしは、これから経験を積めばいいだけですよ」
「うーん……。じゃあさ、ちょっとエアそろばんで出来るか試してみない?」
「ほう、空手の型みたいなもんですか?」
「そうだね、違うけど」
「まあ一応そろばん作成にかすってるからいいとしましょう」
みきは紙にそろばんの絵を描き始める。
そうだな。絵があった方がイメージしやすいかも。吉井がそろばんの形状を思い出しながら、みきの描いていく様子を見ていると、「あの、この下の玉って5個ですよね。で、上が1個で5個分に」みきは手を止めて吉井に訊いた。
「いや、確か下が4個だったような。上は5個分だと思うけど」
「え? それじゃあおかしくないですか? 10進法の世界に住んでいた身としてはちょっと」
「多分、単純に数字を繰り上げるから10は必要ないんじゃないかな」
一桁だけを、使うから、9は、0はオープンに、だから。みきはぶつぶつと右手を絵の上で動かす。
「うん、そんな気もします。なんとなく理解できました。じゃあやってみましょう。吉井さんが問題を出す方でお願いします。あ、空気読んでくださいよ。掛け算とか四桁の足し算なんてありえないですから」
まあ一桁の足し算か引き算をやれ。ということだな。吉井は空気を読んだ後、息を吸って、確かこういう感じで。とおぼろげな記憶を掘り起こしながら口を開く。
「えー、願いまし」
「ちょっと! 止めて止めて!」
みきは両手を振って立ち上がる。
「え? なに?」
吉井はみきの迫力に半歩程度身を引く。
「それわたしがやるんじゃないですか? 『願いましてはー』のくだり」
「いや、それは読み手だよ。その後、~円と~円を足してくれよ。みたいに続けるんじゃないの」
「でも、願ってるのって誰ですか? 吉井さんが願ってこっちに頼んでるんですか?」
「まあそういう体じゃない。知らんけど」
「でも実際本当に願ってるのってわたしですよ。だって吉井さん側は願い叶えられなかったら、他の人雇えばいいでしょ? だからこっちは間違えられないし、そりゃ願いたくもなりますよ」
そう言われれば、とはまったくならんなあ。だってこれはおれ間違ってないもん、絶対『願いましては』は読む人だから。だけど、ここで揉めても意味ないしなあ。吉井は、そうだな、うんうん。と言いながら頷く。
「じゃあ、それでやろう。願いましては、をそっちで言って、その後おれが数字を言う。そしてこの流を公式として広めるってことで」
「公式ですか。いいですね」
じゃあ。みきは深く息を吸った後、「願いましてーは」とよく響く声で言った。
吉井はそれを受けて、「3円と2円なーりー」と続ける。
「よし!」
みきは右手親指で一番右にあった上の玉をはじく真似をする。
「吉井さん。思ったより行けますよ!」
「おれが言っといてなんだけどさ。ごめん、これ意味ないよ……」
「判断するのはまだ早いですよ。そして、願いまして―は」
だってきみは、さ。「8円と7円なーりー」適当に数字を言いつつ吉井はみきの動きを改めて注視する。
「はいっ!」
みきは手をぱっぱと動かした後、手を挙げ、「願いーまあしいぃてーはー」と続ける。
「69円と34円なーりー」
こいつ抑揚付け始めたな。吉井は多少言い方が気になったので、こらしめる意味も含め数字を増やした。
ふふ、来ましたか。三桁が。みきは含み笑いをしつつ指を動かす。
「はいっ! 103です!」
「うん、やっぱりさ。こうやって見ててもわかるんだけど」
読み手としての雰囲気を大事にしようという思いから、テーブルの横で立っていた吉井は椅子に座る。
「きみって、暗算したやつをそろばんの玉で表しているだけじゃ」
「ええー、違いますよ。ちゃんと舗装された道を通ってゴールにたどり着いてますから」
「じゃあさ。どういう風にそろばん使ってるの?」
はっはは。みきは大げさに笑って吉井を見る。
「それについては事前に自分でQ&A作ってますんで。もしかしてわたしが、そ、それは……。って俯くとでも思いましたか」
こいつ思いっきり自分でふってんなあ。大丈夫か?吉井は不安そうな目でみきを見た。
「言いましょうか。要は自転車の乗り方のようなものですよ、感覚としては持っていますがそれを人に伝えるのはできないってやつです。自転車もそろばんも」
「いや」
吉井は残念そうに首を振る。
「それは違う。例えば足し算は3パターンぐらいのやり方があって、それに沿って玉を動かすんだよ」
「え……? そうなんですか」
努力と根性で玉を動かしていたら、いつか真理にたどり着くんじゃないの……? みきはそう呟き、落ち着きなく手を動かして玉を上下させるフリを続ける。
「基本人に教えるものだからさ。さすがに体系化してるって」
「じゃ、じゃあ吉井さんはそのパターンを熟知してるんですか!」
みきは両手をテーブルについて吉井を見る。
「知らないな。1日で辞めたから。ちょっと後で気になって調べてみた時、へえ、そうなんだ。と思った記憶があってね」
「ということはですよ。わたしはそろばんのやり方を一から作り出すってことですか?」
「まあそうなるんじゃない。大変だとは思うけど。あ、ちなみに掛け算も別でやり方あるから」
吉井はみきが書いたそろばんの絵を見ながら、掛け算のことも思い出そうとしたが、元々記憶していないことなのでまったく思い出せなかった。
そ、そんな……。みきはそう言った後、静かに両手を膝の上に置き、小刻みに震え出した。
「そんな落ち込まなくてもさ。案外そろばんの試作品触ってたら思いつくかもしれないよ」
「でも吉井さん。どんぐりもないから大量生産も出来ないし、ましてや経営者のトップが現状そろばんが使える目途が立たないことが判明したんですよ」
「そうだなあ。教室を開くには若干きついか」
その後、数十秒無言で小刻みに震えていたみきは、決めました、わたし決断しました。と呟き、そろばんの絵を描いた紙を丁寧に折りたたんだ。
「わたしは、わたしのそろばん活動は本日をもって一時休止とします」
「そうだな、それがいい。早い方がいいよ」
「あ、でもこれはトランプとは違いますよ。あっちは中止ですけど、そろばんは休止です。いつかまた状況を整えて再開しますから」
みきは対面に座る吉井を見た後、そろばんの絵を描いた紙を握りしめ、慌ただしく2階に上がって行った。
午後のギルドもあるからなあ、そろそろ昨日のやっといたほうが。体感では1時間程度経ってもみきが降りてこないので、吉井は静かに2階に上がり、みきの部屋のドアをトントンと叩く。
なんですか? あ、ちょっといい? いいですけど。じゃあちょっと。ドア越しのやり取りの後、吉井がゆっくりドアを開けると、みきは目の前に立っていた。
「あの、昨日言ってた解答編の答え合わせなんだけどさ。今日するのかなって」
「……は? なんで今なんですか?というか」
みきは怒りを露わにし壁に貼っているそろばんを描いた絵を指差す。
「さっきまで話してたのになんでわからないんですか! 今わたしはそろばんの休止を受け入れるので精一杯なんですよ!」
みきはそう言って乱暴にドアを閉め、吉井はしばらくその場に立ち尽くした後、自分のしたことを後悔しながら1階に戻った。




