第102話 堕ちる人の妄言
地図の不確かな情報により、計6人に道を尋ねたサエランがススリゴの事務所に辿り着いた時には日が傾き始めていた。
そして焦ってはいるがどうすることもできない状態のサエランは、そのまましばらく事務所の前で棒立ちであったが、ふとドアが開いて男が出てきた瞬間、この人はススリゴという人物だ。という妄信をサエランは強引に確信に変え、「黒髪2人の知り合いの、体格がいい店長がやっている食堂の常連の、金貸しの、黒髪の2人の知り合いというか、あの2人を雇っている人ですか?」と自分が持っている情報すべてをつぎ込んで話し掛けた。
ススリゴが訝しげな表情を浮かべつつ、「知っているが?」と返答すると、「知っているなら話がしたいんです。そうするだけの理由がわたしにはあるんです!」サエランは力強く言った。
さすがにやり過ぎたかもしれないと思い、「ある、ような気がします……」と言い直して恐る恐る上目遣いでススリゴを見上げた。
なんだこいつは? 2人がいなくなったことと関係があるのか。ススリゴは少し考えた後、「わかった、入れ」そう言ってサエランに家に入るよう促した。
サエランは自分の状況を確認するため、わたしはこれから金貸しの家に入る、わたしはこれから金貸しの家に入る。そう2度呟き一呼吸置いてススリゴに続いた。
「なるほど、そういうことか。しかし最初にも言ったが2人はいないし、お前の話を聞いても思い当たる節は無いな」
サエランからこれまでの経緯を聞いた後、ススリゴはテーブルの上にあった果実酒をボトルのまま飲んだ。
「そうですか……。」
サエランはがっくりと肩を落とす。
「だがあいつらのことはこっちも知りたかったところだ。今の話で少し状況は掴めた。もし帰ってきたらイイマに言っておく。それがこの話の礼でいいか?」
「あ、はい! お願いします」
とりあえずはいい、それでいい。わたしあの店の常連にならないといけないからけっこう行くつもりだし。サエランは先程のイイマとその妻のやり取りを反芻し一瞬顔をしかめる。
あの店長の奥さんに今は会いたくない……。せめて常連になってからならまだしも。でも、それまでに2人が帰ってくれば。あ、そうだ、あの2人が住んでたんならここの2階は空いてる。サエランはガタガタと椅子を揺らしながら立ち上がった。
「すいません、今2階って空いてますよね? 2人が戻ってくるまで部屋を貸してもらえませんか!」
「ああ、そうか。住むところがないんだったな」
ススリゴは顎に手をやり2階に続く階段を見上げる。
「はい、明日からもう住む場所が無いんです。だからお願いします!」
サエランは勢いよく頭を下げる。
「わかった。ただし、あの2人が帰ってきたら出ていってもらうぞ」
「大丈夫です。最初からそのつもりですから」
「月2万トロン。とりあえず今月は日割りでいい」
ススリゴはそう告げてテーブルにあった紙の束から1枚取り出してサエランの前に置いた。
「借用書だ。これに名前と住所、それと金額を書いてくれ。住所は前のところで構わない」
「え、わたしが? 借りるんですか? でも、いくらかは持って」
サエランが慌てて今の手持ちと家賃の日割りを計算している間にススリゴは鞄から硬貨を2枚取り出し紙の横に並べた。
「どうせないんだろ。貸してやる、来月末に4万トロンにしてくれ」
「で、でもこれ2万トロンですよね? 来月末で、あの、倍になるんですか……?」
サエランは震えながら硬貨を手に取った。
「おれはどちらでもいい。家賃を払えるならな」
ススリゴが硬貨に手を伸ばすと、「あ、あの。借ります! なんとかしますから!」サエランはそう言ってススリゴより早く2枚の硬貨を握りしめた。
ススリゴは硬貨を握りしめているサエランを一瞥した後、今日から部屋は使っていい、明日の朝までに紙に書いておけ、と伝え家から出た。
気持ちが入り過ぎていたサエランはいつの間にか立ち上がってススリゴを見送っていたが、一度冷静になるため椅子に座り直した。
これは必要なことなんだ、このお金を借りることは絶対に必要なことだ。だってここにいたほうが2人に会える可能性高いし。こうしたほうが解決への道が。まずい、落ち着いて。違うよ、解決なんてしない。わかってる、わたしは解決しないことはわかってる。自分で自分を誤魔化してもだめ。今の手持ちは7千トロンしかない。家賃が1月2万トロン、金利が同じく2万トロン。こんなやり方絶対に破綻する、というかもう破綻している。
でも、あの時に言っていたこと。あれを上手く使えば。サエランは依頼の道中に吉井とみきが話していたことを思い返す。
あの2人が話していた物語は本当にすごかった。見たことも聞いたこともないまったく新しい話。次から次へとありえない展開が続いていくんだから絶対飽きる人なんていない。わたしがあれを書けば絶対評判になる。大丈夫、女の人から了承は貰ってる。自分で書くの面倒だから儲けの3割、いや4割でいいって。いいよね? やり始めちゃっても。だっていないんだもん。もし見つかったらその時に払えばいい。それに2人の言う本屋の形。その2つを上手く使えば、そうすればわたしにだって。
サエランは自分を騙す時間を作るため2階の部屋を確認するという目的を作った。そして階段を上がりながら自分を騙し、2部屋あったどちらを使うかを考えながら、その騙しに体重を乗せて追い打ちをかける。そして使わない部屋に吉井とみきの荷物をまとめた後、外に出て市場の果物屋があった場所に戻った頃には、サエランは自分を騙しきることに成功していた。
外は完全な暗闇。広場の敷地には人1人おらず、あら、昼間の賑やかな喧騒が嘘のよう。サエランはどこかで読んだ文章に自分の感情を重ね、骨組みだけを残した果物屋の横で本が入った布袋を抱える。
とりあえず今出来ることをしよう。お金を借りたのは事実。でもそれが問題じゃない、そういうことじゃない。今わたしがすべきことは考えることじゃないんだ。
考えるのは明日以降に。サエランは布袋に入った本の感触を確かめながらイイマ食堂に向かって歩きだした。
「おお、昼間の。大丈夫だったか?」
カウンターのに座ったサエランにイイマは笑顔で声を掛けた。
「ええと、はい。なんとか辿り着けました」
結局通りすがりの人から得た情報を元に辿り着いたことをサエランは黙っていることにした。
「で、いたのか? あの2人は」
「いませんでした。でもススリゴさんにいたら教えて貰うっていう話になったので」
「よかったな。そうだ、なんか食ってくか? 定食ならすぐできるぞ」
「あ、じゃあお願いします」
「おお、わかった」
イイマは洗い物を中断して料理を作り始めた。
常連になるには明日も来ないといけないのかなあ。サエランが常連の定義について考えていると、「おい、出来たぞ」というイイマの声と共にカウンターの中から皿が置かれた。
サエランは礼を言い料理を口に運ぶ。
あ、おいしい。これなら常連になれるかもしれない。サエランは黙々と料理を食べながらイイマの様子を伺い、半分ほど食べたところで手を止めた。
「すいません。店の外にある荷物を運ぶ車なんですけど。この店の物なんですか?」
「ああ、あれか。近くに住んでる男と共有して使ってる。いるんだよ、燻製の店をやっているやつが」
「そうなんですか。それでもし、あの、今日、これから朝まで。あの、貸してもらうことは」
「おお、いいぞ。ただ朝一番で使うからな。それまでには戻しておいてくれよ」
「ありがとうございます!」
サエランは立ち上がって頭を下げた後、残っていた料理を急いで食べ始めた。
やった、やった! あれがあれば明日までの引っ越しもなんとかなるかもしれない!
サエランは口に詰め込んだ料理を飲み込みつつもう一度礼を言い、金をカウンターに置いて店の外に飛び出した。