金木犀は記憶をつれて
普段は気にも留めない、視界にも入らないような木が、突然自己主張をする季節がある。桜が咲くと、あぁこの木は桜だったのかと気づくように。
蒸し暑かったはずの空気が、だんだんと冷たくなってきて、いつの間にかすっかり秋になっていることに気づく頃。それはふいに空気に溶け込み、花が咲いたよと誇らしげに知らせてくれる。金木犀は華やかで優しい匂いだ。
田舎出身の私は込み合った電車も、混雑した地下街も未だに苦手だ。人の吐いた息しか吸い込んでいない気がして、どうしても浅く呼吸をするので、酸素が足りないと思ってしまう。
最寄りの駅を出て、少し歩くと住宅街になる。小さな公園があちこちにあったり、庭先に木々が植えられてたりして、緑が増えるとホッとする。
結婚してこの街に引っ越してから十五年が経つが、ほとんど同じ道を通っている。本当は二つ前の角を曲がった方が早いのだが、小さな公園とその横にある古びた家が好きで、その家の角が曲がりたくて忙しくても少し遠回りをしている。
その家はなんとなく田舎の実家に雰囲気が似ていた。八十代くらいの夫婦が暮らしているのだが、丁寧な暮らしぶりが伺えるような家だった。
春から夏はプランターや植木鉢に沢山の花が咲き誇っていたし、小さな庭には野菜も植えられいた。夫婦は仲が良く、二人で庭の手入れをしたり、散歩をしたりしていた。
引っ越ししてきた頃は、お孫さんの面倒をずっとみていて、隣の公園で遊んでいたり、玄関の前でままごと遊びをよくしていた。プラスチックのカップに花びらや葉が入っていたり、どんぐりが入れられて、玄関先にならべられてたりするのを見るのが好きだった。
二人いた女の子のお孫さんもすっかり大きくなって、最近は見かけることも少なくなったが、たまにふらりと立ち寄っているみたいだった。
奥さんに会うと、お孫さんのはなしを嬉しそうに話してくれる。おばあさんに似て緑茶と和菓子が好きなこと、本を読むのが好きなこと、好きな歌手のこと。そして何回も聞かされるのに、その歌手について覚えられないし、若い子ってなんかみんな同じに見えると、明るく笑って締めくくる話を聞くのが好きだった。
すっかり顔なじみになった福永さんの話は、五年前に亡くなったおばあちゃんのことを思い出させる。
いつものようにその家の前を通る。センリョウが沢山の赤い実を付けていて綺麗だった。すっかり冷たくなった風がゆっくりと吹いて、懐かしい匂いを運んできた。香水のような、でも人工のものではない優しい香り。
「いい匂い。金木犀だ」
思わず声に出して、匂いの主を探す。オレンジ色の小さな花が、葉に埋もれるように木を覆っている。今年もこの時期が来たのだと思う。
ふと見た門柱の上に、キャップがされた小さな容器に金木犀の小さな花が沢山入っていた。
私もよくおばあちゃんと一緒に、金木犀の花を集めていたことを思い出した。
両親は共働きで、姉は歳が離れていて遊び相手にはならず。私は自他共に認めるおばあちゃん子だった。
学校から帰るといつも緑茶を淹れてくれて、いつも同じおやつのお皿に、色々なお菓子を決まった量入れてくれる。私は食が細くてご飯があまり食べれなかったので、おやつは少なめとおばあちゃんに決められていた。
家での係もおばあちゃんが決めたものだった。毎朝金魚に餌をあげることと、土日の昼食の後片付けで、姉は掃除機がけだった。
厳しいところもあったけど、優しくて優しかった。
おばあちゃんは庭の手入れをするのが生きがいで、庭には季節ごとに色々な花が咲き誇っていた。私はよく一緒に草抜いたり、水やりをしながら、花や葉でままごと遊びをした。
中でも好きだったのが、庭の隅にあった金木犀の花だった。小さなオレンジ色の花を拾い集めて、枯れるまで匂っていた。
金木犀の咲く頃は、庭の柿の実が色付き、軒に渋柿が吊るれ、センリョウが赤い実をつける。近所の神社の秋祭りがあって、もらったお小遣いで友達と屋台でクレープやゲソ天を買って食べるのが好きだった。
「こんにちは。寒くなってきたわね」
後ろから声を掛けられて、振り返った。福永さんがにっこりと笑って立っていた。
「こんにちは」
「センリョウの赤い実がきれいでしょう」
「いつのまにか、すっかり秋ですね。金木犀がいい匂いで、立ち止まってしまいました」
「あら、あの子結局忘れて行ったのね」
福永さんは門柱の上に置かれたプラスチックの小瓶を手に取った。
「そこの奥さんのお孫さんが、お母さんのお土産にするって一生懸命に金木犀の花を拾ったのよ。うちにはもう小さい子がいないから、可愛くて」
福永さんは目を細めながら、子供はあっと言う間に大きくなってしまうからと、独り言のように呟いた。
「子育て中は早く大きくならないかなぁって思いますけどね」
「そう思ってるくらいが、楽しい時期なのかもよ。年寄り夫婦の生活なんて寂しいもの。まぁ子育ての最中は忙しくて余裕もなかったけど」
加藤さんは金木犀の入ったプラスチックの小瓶を手に取って、わたしに差し出した。
「すぐに枯れちゃうから、子供さんいらないかしら」
「いいんですか」
「あの子が思い出して取りに来たら、また一緒に拾うから」
「ありがとうございます」
福永さんから小瓶を受け取って振ってみる。オレンジ色の小さな花が、さらさらと舞った。
「うちの下の子が喜びそうです」
上の子供は男の子でもう六年生になるからか、親よりも友達が優先になった。反抗的な口もきくようになって生意気な感じだが、下の一年生の女の子はまだまだ甘えん坊だ。上がガサツな分、下の子は女の子って感じがする。やたらと小さい物とかキラキラする物が好きだ。
「よかったらまた子供を連れて遊びにいらっしゃい。金木犀は一週間くらいしか咲かないから」
「えっ。そうなんですか」
金木犀の印象は強いのに、たった一週間だったことに驚いた。
「また下の子を連れて散歩にきます」
「大歓迎よ」
福永さんは楽しそうに笑った。
もうすぐ下の子が学校から帰ってくる時間だ。急ぎ足で歩きながら、今度の週末に実家から送ってきた柿を持って、少しだけ寄らせてもらおうと考えた。
吹いた風の冷たさに体がぎゅっと一回り小さくなった気がした。夕方になるに連れ、気温が下がってるみたいだった。
手に持ったプラスチックの小瓶の中で、金木犀の花はキラキラと光って見えた。