01
それは、あっという間だった。けれど、とても長い時間のように感じられた。
仲良く談笑している彼女たちを横目に、今日の主役の片割れである友人と、話をしていたときだった。彼女はグッと、親友であったはずの女性の首に、背後から抱きしめるようにフォークを突きつけたのだ。楽しそうに話をしていた先程とは一転して、その姿には苛烈さがあった。彼女の動きに合わせて揺れる赤髪は、その琥珀の瞳に宿る怒りを増幅させているように見え、けれどその様は変わらずに綺麗だった。
「カ、ル?」
フォークを突きつけられた女性、リリー・マクベインから疑問の声が上がる。その拍子に空色の髪に編み込まれた、白バラの花片が、舞い落ちた。
「ふふっ、少しの間だけ動かないでねリリー。下手に暴れたら、うっかり刺しちゃうから」
優しい声で彼女は言う。まるで、それが日常の一部であるかのように。すっと、彼女の手がリリーの輪郭をなぞる。
「なにっ……して、んだ」
己の口からこぼれ落ちたそれは、あまりにも小さくて情けなかった。ぎりり、と。小さな音が聞こえる。音の聞こえた方を小さく確認すると、友人が堪えるように握りこぶしを作っていた。白くなるほど強く、強く。
「あら、さすがね、アルト・クロフォード。何も言わないことを選ぶとは。私が思う最善の選択肢を選んでくれるんだもの。大声でも出したなら、リリーの首を刺しちゃうところだったわよ。まあ、リリーを放せなんて言われても、放す気なんてさらさらないわけだしねえ。そんな気があるのだったらこんなことするわけないもの。そういう点では、あなたも及第点ってとこかしら? ブレッド・ハックワース」
くすくすと、至極楽しげに彼女は笑う。
「くふふっ、大丈夫よ。私、優しいから、傷つけずにちゃんと開放するわよ? もちろん、あなた達がいらないことをしなければの話だけどね。私、約束を違えることなんてしないわよ。絶対に、ね」
リリーの耳元に顔を近づけ、ただの脅しではないことを証明するためか、フォークに力を込めた。先端が微かに埋まる。今更、彼女を抑えるべく動こうと、それよりも速くにフォークが首を刺すことになるのは明らかだった。後手に回ってしまった時点で、何事もないように終わることなど、出来やしない。
「リリーのことを思うなら、何も手出しなんて出来ないわよね。……それとも、見捨ててるだけなのかしら。いくら身内だけのパーティーと言っても、面倒事が起きたと気づかれたら困るものねえ」
「……わかっていながら、よくも言う!」
声を潜め、アルトが噛み付くようにカル・ノーリッシュをなじる。けれど、彼は一歩も動かない。
ブレッドは、何も言うことができなかった。言葉を吐けるわけがなかった。婚約者を人質に取られた彼が堪えているというのに、それよりも外側に位置する己が吐ける言葉など、ありはしない。
視界の奥では、招待客がこちらの様子に気づくことなく、和やかに談笑しているのが見える。
「あははっ、ざまあないわね! アルト・クロフォード、ブレッド・ハックワース。あなた達のせいなのよ? リリーがこんな目に合っているのは。私の姉様に濡れ衣なんか着せるから」
にこやかな笑みを浮かべて、言い聞かせるように彼女は言った。
「……濡れ衣、だと?」
思わずこぼれた言葉。彼女はまるで、それが聞こえなかったかのように、ただ己が言葉を連ねた。
「……とても、とても単純なことだったのに。真実だって、あなた達なら簡単にわかったくせに。知らないままで、姉様を悪役にするなんて許せないわ。……それを姉様が望んでいたのだとしても」
彼女は小さくつぶやいて、一息。そして、激情に任せるかのように言葉を吐き出す。
「あなた達なんか、大嫌いよ。姉様を貶めたあなた達なんか! 真実を知って、後悔すればいいのよ。そして今の状態が自分たちのせいで起こったのだと思い知るが良いわ! 自分たちの怠惰さが招いたのだと。……それにリリーも、リリーよ。姉様の立ち位置だったのに、さも当たり前みたいに転がり込んで。……私は、あなた達の歩む道に、たくさんの困難が降り注ぐことを心から祈っているわ。姉様に濡れ衣を着せておいて、そう簡単に幸せになるなんて許せないもの」
くすくすくすくす。笑う、嗤う、嘲笑う。ただ悪意にまみれた言葉を吐きながら。慈しみに溢れた表情で言葉で、リリーを大切にしていた面影は感じられない。けれど、その表情を引き出したのは。彼女の言葉が真ならば、それは。……紛れもなく自分たちだ。
つーっと。いつの日だったか、
『あの子の目、天藍石みたいで綺麗でしょ』
そう彼女が言った、リリーの青い目から涙が流れた。
「あらあら、そんなに涙を零して。化粧が崩れてしまうわよ。……泣いたところで、さっきの言葉は取り消さないからね」
そっと、フォークを持っていない左手でリリーの涙を拭う。彼女は優しく言葉を吐き、笑みを消した。そして、彼女は右手の力を抜き、ため息をついて浮かべた表情は、いつもの見慣れた、自分たちがよく知るカル・ノーリッシュの顔だった。
「ふう。それじゃあ、これで帰らせていただくわ。言いたいことは言わせてもらったし、少し用事があるもの。……それに、リリーが泣いてしまったから。主役がこれじゃあ、パーティーはお開きだもの。ああ、そうそう。裏口、使わさせていただくわね。今日の招待客にもよく思われていないだろうから。……私はあの人の妹ですもの」
「そう安々帰すと、思っているのか」
「あったりまえじゃない。ここで何かしら行動に出たら、間違いなく関係のない誰かが知ることになるわ。そうなれば、あること無いこと色々と噂になるのは、避けようがないもの。中心でない人間の口は、驚くほどに軽いことをあなた達も知っているでしょう。それでも構わないと言うのなら、やっぱり、リリーを見捨ててただけってことだから、私としては構わないのだけれど」
「……勝手に使え」
溢れる激情を抑えているのか、小さい声でアルトが言った。
「あら、とっても素敵な顔をしてくれるのね。残念だわ。迎えを待たせてなければ、もう少し眺めていましたのに」
彼女はトンッと、リリーを突き放して口端を釣り上げた。とても残念そうには見えない表情を浮かべている。
突き放されたリリーは腰が抜けたのか、数歩よろけると、そのまま地面に膝をついた。薄く明るい青と深く暗い青が地に広がり、胸元の白には溢れた涙が染みを作り出していく。
「リリーっ!」
小さく掠れた声で名前を呼んで、アルトがリリーに駆け寄った。それを見つめながら彼女は、
「では御三方、御機嫌よう」
優雅に裏門がある方へと歩を進める。ブレットはそのさまを、ただ放心したように見ていた。
周囲の音はとても遠くに聞こえ、
(この辺りだけ、置き去りにされてしまったようだな)
と、まとまらない思考の中ぼんやりと思う。チリチリと、どこかが痛む気がした。吐き出せなかった言葉がぐるぐると渦巻いている。
「立てるか? 皆、パーティーに夢中とは言え、このままでは人目につく」
「……ええ。……手を貸してくれるかしら?」
姿が見えなくなる最後に、彼女が振り返った気がした。それがきっかけだったのか、
「……もう、いいか」
ポツリ、と。己の口から言葉が落ちた。
「ブレッド?」
リリーを立ち上がらせたアルトが、こちらを振り向いた。その隣で婚約者の腕を支えにしているリリーは俯いており、どんな表情をしているかわからない。
「もう、いいだろう? 追いかけても」
誰に問いかけるでもなく、落ちていく言葉。それはきっと、自身に向かって吐き出していた。一歩を踏み出せない己に向かって。その言葉へ、涙に濡れた声が、
「……手荒な真似はしない?」
か細く、震えた声だった。
「……一方的な約束だったが、彼女は守った。だから違えたりしないさ」
「なら、いいよ。行っていいよ。きっと、あの子は怒らないから。約束を破らなければ、邪魔さえしなければ、何にもないままで、終われるよ。だから、だから、私が許可してあげる。ブレッドさん、あなたはカルを追いかけていいの」
親友に裏切られたリリーがなぜそう言うのか、ブレッドにはわからなかった。自分が彼女を追いかけようとしている理由も。ただ、その言葉に背を押されるように駆け出していた。