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31 誰でもいいわけじゃないのに

イングリッシュ・セターのウエーブがかった絹のように美しいロングコートの下には、広大な狩場でスピードを落とさずに走り続けるための無駄のない筋肉質な体があります。

「とりあえず、これで涙拭いて?」


 公園の冷えたベンチに私を座らせた征嗣くんにハンカチを差し出されて、私は自分の目から涙が流れていることに気がついた。


 鼻水が出るのは冷たい夜風にあたったせいだと思っていたし、征嗣くんに引っ張られてもうまく早足で歩けなかったのは酔いのせいだと思っていた。


「ごめん……」


 何に謝ってるのか自分でもわからないまま、差し出されたハンカチを目元にあてた。


 隣に座る征嗣くんは、膝に肘を置いて両手を組み、うつむいたまま黙っている。


 涙を拭き取ると、視界と意識が少しクリアになった。


 周囲をそっと見渡すと、まだ赤くなっていないカエデが根元のライトでくっきりと照らされていた。

 細かなギザギザの影を隣り合う葉っぱに映し合い、その重なりが美しい影の濃淡をつくって揺れている。

 紅葉狩りには気が早い月曜日の夜のせいか、ライトアップは私たち二人だけのために行われているようなものだった。


「ハンカチ、洗って返すね」


 泣いていたということは、きっと私はショックだったのだろう。


 でも、まだ酔いが回っているせいか、さっきの光景を思い出そうとしても思考がふわふわと浮いていて、アーモンドアイを見開いて絶句していた池崎さんの顔しか思い浮かべられない。


「瑚湖ちゃん」


 いつになく硬質な征嗣くんの声に、ふと彼を見た。

 いつもの笑顔ではなく、海に挑むときのような真剣な眼差しに、私の鼓動が急に存在を主張し始める。




「一緒にオーストラリアに行かない?」




「……え?」





 征嗣くんも酔っているのだろうか。

 突然彼の口から出た遠い国の名前。

 頭に浮かんできたのは、なぜかコアラがユーカリを食べる映像だった。


「なに、それ……」


「実はさ、会社から、オーストラリアの現地法人に二年間出向で行かないかって打診があったんだ。

 出向っていうのは建前で、要はライフセービングの本場で修行するチャンスを与えてくれるってこと。

 日本ではうちの会社みたいにライフセービングのスポンサーになってる企業はほとんどなくてさ。

 こうやって話が来るのもすごくありがたいことなんだ」


「そうなんだ……。征嗣くんすごいね……」


 征嗣くんの言葉をちゃんと消化しようと思うのに、頭の中をカンガルーが跳ね回って邪魔をする。


「でもさ、俺、こないだ会社に今シーズンは半年だけの研修にしてほしいって申し出たんだ。

 我儘だとは思ったけど、せっかく知り合った瑚湖ちゃんと、いきなり二年も離れたくなかったから。

 まずはオーストラリア(あっち)がシーズンになる半年間だけ行って、戻ってきたらちゃんと瑚湖ちゃんに付き合いたいって告白して、二年行くのはその次のシーズンからって思ってたんだ。その時はもちろん瑚湖ちゃんを連れて」


 ああ駄目だ。

 エアーズロックが頭の中にどかんとそびえ立ち、征嗣くんの言葉がきちんと入ってこない。


「瑚湖ちゃんは馨さんのことが好きなんだろうなってことには気づいてたけど、俺の勝負は半年後からのつもりだったんだ。

 でも、こんな瑚湖ちゃんを半年間も置いて海外になんて俺は行けない。

 俺と一緒に二年間オーストラリアに行こう?

 あっちならワーキングホリデーって制度もあるし、会社からちゃんと給料は出るから、瑚湖ちゃん一人くらい……」




 プルルルルルッ




 バッグの中の携帯が、くぐもった音で小さく鳴いた。


 池崎さんだ。


 根拠もなくそう思った。


 バッグのファスナーを開けようと、慌てて伸ばした手を征嗣くんに掴まれた。





「出なくていい」


 そう言った彼の声は、いつになく低くて固くて強くて鋭くて。


 思わず見上げると、すぐ目の前に近づいていた彼の眼差しは、熱くて怖くて切なくてまっすぐで。


“瑚湖はもっと打算的になってもいいんだよ”


“瑚湖には他にも選択肢があるんだよってこと”


 親友の言葉が、真っ白になった頭の中になぜかくっきりと浮かんできて。






 目を閉じた。





 征嗣くんと、キスをした。






 唇を重ねたまま、私の手を掴んでいるのとは反対側の手が背中に回ってくる。





 鳴り続けていた電話の音が止む。





 安心したように、そっと征嗣くんの唇が離れていく。





「瑚湖ちゃん……。好きだ……」


 背中に回った手に力が込められる。

 愛の言葉の余韻を残し、少し開いた唇が再び近づけられる。





「ごめん……」





 触れられる直前で押し上がってきた言葉。


 それが零れると同時に、私は両手で征嗣くんの厚い胸板を押していた。

 立ち上がった私は、バッグを掴むと足元がやけに明るい遊歩道を走り出した。




 わたしはなにをやっているんだろう


 わたしはなにをやっているんだろう





 実感のこもらないその言葉だけが、頭の中でもつれ合うように旋回していた。



 **********


 お風呂に入っている間も、何を思い出して何を考えればいいのかわからなかった。


 パジャマに着替えて部屋に戻ると、ベッドからトンっと下りて尻尾をピコピコと振って寄ってくるチョコ太郎を抱き上げた。


「わたしはなにをやっているんだろう……」


 頭の中を占領していた言葉を口に出してみると、なぜかまた涙がこぼれた。



 ピロリン♬



 LINEの通知音。


 どちらからのものだろう。


 携帯を見る勇気がなくて、チョコ太郎を抱きしめたままベッドに上がって座り込む。

 私が留守の間はお母さんにさんざん甘えていたであろうくせに、チョコ太郎は数時間ぶりに私に甘えられるとばかりに尻尾を振って顔を舐めようとする。


「んもう! チョコ太は結局誰でもいいんでしょーが」





 苦笑いで放った自分の言葉にはっとした。





 半透明のレイヤーをかぶせたような意識がどんどんとクリアになり、心の底に押し込めていた後悔がとめどなく湧き上がってきた。



 私も結局、誰でもいいの?



 寄りかかることができるなら、誰でもよかったの?



 違う。



 誰でもいいわけじゃない。



 誰でもいいわけじゃないのに。



 やっぱり私は──!







 チョコ太郎をベッドに置いて、慌ててバッグに入れっぱなしの携帯を取り出した。


 不在着信の履歴は、やっぱり池崎さんだった。


 LINEを確認する。


 さっきの着信は征嗣くんからのメッセージだ。


 迷った末に、LINEから先に開く。


〔無事に家に着いたかな。追いかけることができなかったから、心配だった〕


 短いけれど誠実さが伝わるメッセージに、後悔が改めてこみ上げてくる。


〔連絡しなくてごめんね。無事家に着きました〕


 それだけ送ると、すぐに既読がついた。

 しばらくするとピロリン♬と返信が届く。


〔オーストラリアの話は急で驚かせたよね。

 やっぱりいきなり二年間一緒に行こうというのは尚早だったと思います。

 今シーズンは来月から半年間行ってくるつもり。

 その間に、瑚湖ちゃんには俺とのことを真剣に考えてもらえたらって思います〕


 なんて返信したらいいのだろう。

 迷っていると、再び画面にメッセージが滑り込んできた。


〔俺は中途半端な気持ちでキスしたわけじゃない。

 謝るつもりはありません。

 だから瑚湖ちゃんにも謝ってほしくない。

 出発前にルークをシャンプーに連れて行くつもりだから、そのときはよろしくね!〕


 読み終わらないうちに、犬が “ぺこり” とおじぎするスタンプがポンッとついた。


 心の中は後悔と申し訳なさでいっぱいだけれど、そんなエゴを無機質な文字にして送りつけるのは征嗣くんに失礼だと思った。

 涙でにじむ画面から “了解です” のスタンプを探して送信した。



 LINEを閉じて、手元のティッシュで涙を拭き、鼻をかむ。


 深呼吸を三回してから、不在着信の履歴を開き、一番上をタップした。

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