第60話 馬術の事件
翌日、僕はいつもより早く目が覚めた。着替えて外に出ると朝の涼しい風が吹いた。
いよいよ。当日。
念のためリュウセイ号を見に行くとマミがすでにエサをやっていた。
「おはよう。マミ。早いね。」
「おはよう。日課みたいなものだから。」
マミはテキパキと作業を進め、僕のやることは無さそうだった。僕はリュウセイ号を見上げた。
「今日もお願いね。」
そう声をかけるとリュウセイ号はうなずくような仕草を見せた。
「キンちゃん、その気持ちだけは忘れないでね。」
マミが立っていた。何を言いたいかはわかる。だから先に答えてみた。
「馬に乗らせてもらう気持ち、自分が馬を走らせず馬に走ってもらう気持ち。でしょ?」
マミは穏やかな笑顔でうなずく。リュウセイ号もうなずいていた。
「ヒトシさん。お待ちしていました。」
セイカさんが会場で待っていてくれた。会場といってもユキさんの建物の裏手にあるいつもの練習場。僕からしたら裏庭の感覚だった。
「とりあえず乗れるようにはなれたみたいです。でも、この馬以外は無理だと思います。」
となりにいるリュウセイ号をなでた。セイカさんは馬を見上げて言った。
「この子…、よく乗れましたね。人を選ぶ子なんですよ。」
「そうなんですか?僕は乗せてくれましたよ。マミとユキさんが調教してくれたのかな?」
そう答えるとセイカさんは何かを考えているようだった。
「では、乗馬の会を始めます。」
会場にはかなりの人数がいた。その全ての人がセイカさんに挨拶をしにくる。セイカさんはその全てに対して正しく挨拶を返していく。その姿を僕はとなりで見つめていた。
「では、レースを開始します。」
アナウンスでレースが始まった。エントリー順に名前を呼ばれ、馬に乗ってコースをまわる。ルールはユキさんから事前に説明を受けたからわかる。障害物をミスなく越えていかに速くゴールできるかだ。
「ヒトシさん、何番目ですか?」
リュウセイ号のそばに立っていると声をかけられた。振り向くとセイカさんが立っていた。
「僕はあと7つ先です。今までの人たちと同じくらいにはできそうです。」
「そうなんですか?」
驚くセイカさん。少し照れながら答えた。
「毎日ここで練習していましたし、今と同じコースで同じ障害物でした。だからいつもと同じようにするだけです。リュウセイ号次第ではありますけど。」
「では、不安ではなく期待して見ています。」
セイカさんはぐっと拳を握ってみせた。それは体育祭で僕がしたポーズ。僕もぐっと握った。
「続いては平田均さん。セイカさんのご友人です。」
拍手の中、僕はスタート位置についた。驚くほど落ち着いている。スタートの音とともにリュウセイ号に合図。リュウセイ号は走り出した。
昨日と同じ。一昨日とも同じ。毎日こなしたコース。いけるはず!
リュウセイ号はいつもより速く、いつもより正確に跳んだ。僕の気持ちを察してくれたのか、そうしたい理由があったのか。僕はマミが教えてくれたことだけをした。『馬に気持ちよく走ってもらう。』、ただそれだけを…。
「ゴール!平田さん、現在トップです!さすがセイカさんの友人です!」
アナウンスと歓声が響く。僕はゆっくりとリュウセイ号をもとの場所に戻した。
「ヒトシさん!お見事でした!」
セイカさんが目を輝かせて立っていた。興奮しているように見える。
「練習通りにできました。それに、僕の力ではなくリュウセイ号の力ですから。」
そう答えたとき、セイカさんはどこか寂しそうな目でつぶやいた。
「他の人もみんな、あなたみたいな人だったらいいのに…。」
何かあったのか…、今までのことなのか…。ただ、セイカさんにはセイカさんの悩みがあることだけはわかった。
「僕はそんなに特別な人間ではないです。」
「そんなことないです。あなたは素晴らしい人ですよ。」
セイカさんは僕にそう告げるとリュウセイ号の首に何かをぶら下げてから自分の場所へ戻っていった。僕はただそこに立ち尽くすことしかできなかった。
「それでは上位五名による決勝戦を行います。」
決勝戦は障害物を跳び越えてから草原を駆け抜けて丘を上ってから森を抜けて戻ってくるコース。昨日マミとやったコースとほぼ同じ。だけど、まさかの事態が起きた。上位五名に僕が入ってしまった。五位ではあるけど、さすがに慌てた。戸惑っていると上位四名が僕のそばに来た。
「いやー、すごいよ。始めたばかりなんだって?」
「実に素晴らしい。」
なぜか笑顔で握手。ただ、この感じはどこかで味わった気がする。
「ではスタート位置についてください。」
五人は馬に乗って並ぶ。障害物のコースは全員分用意されているからぶつかる心配はない。
「スタート!」
僕の合図でリュウセイ号は走り出した。他の人よりも速い。僕の指示も合図もほとんど関係なく障害物を跳び越えて草原へ出た。
さすがリュウセイ号。速い。すごい。
感心している僕を乗せてあっという間に丘の上へ。僕の合図で向きを変えて坂を駆け下りていく。他の人たちとは今すれ違ったくらい。
ぶっちぎり…。すごい…。
リュウセイ号は森に入った。そのとき、事件が起きた。勢いよく走った先で突然変な角度にジャンプ、着地をした直後しゃがみこんでしまった。
「どうした?リュウセイ号!」
かろうじて落馬を免れた僕はリュウセイ号のそばにしゃがむ。右足が痛そうだ。
「惜しかったな!」
僕の横を他の人たちは通りすぎた。一人だけ、はっきり顔を見た。明らかに笑っていた。その顔を見て思い出した。
ああ…。真中君だ…。あのときの真中君の顔だ…。
意図的な何かがあったのか…。むしろ何かがないとリュウセイ号がこんな転び方を…。
「リュウセイ号!」
我に返った。自分はケガはしていない。リュウセイ号は立ち上がろうとしない。足を痛めたのか。
「リュウセイ号!」
リュウセイ号は立ち上がらない。それどころか横たわってしまった。
「リュウセイ号…。何で…。僕のせいで…。」
涙がこぼれた。頭の中で後悔が溢れてくる。
『僕が乗らなければケガをしなかったのに。』『僕が乗ったばっかりに変なことをされたのかもしれない…。』『僕じゃない人なら、マミやユキさんなら危機を回避できたかもしれない…。』
「ごめん…。僕のせいで…。」
涙が止まらない。リュウセイ号を見ると驚いたような顔をしていた。僕はそっと体をなでた。
「あなたは…、本当にやさしい人ですね…。」
突然、声がした。顔をあげるとセイカさんがいた。泣いている僕を見ているセイカさんは母親のようなやさしい顔をしていた。
「セイカさん…、リュウセイ号が…。助けてください…。僕のためなんかでケガをしたリュウセイ号を…。」
相手がセイカさんだということ、相手が自分の好きな人だということも忘れていた。ただ、助けてほしかった。リュウセイ号を。セイカさんは「大丈夫ですよ。」とつぶやいた。
「助けは呼びました。たぶん大きなケガはしていません。」
「ほ、本当ですか?」
驚く僕にセイカさんは笑顔でうなずく。
「はい。本当です。大丈夫です。」
「よかった…。」
体の力が抜けてリュウセイ号に寄りかかる形になった。するとセイカさんも僕のとなりに座った。
「馬のために涙を流せる。あなたは本当にやさしい人。今も勝負だったから、馬のせいにできたはずです。それなのにあなたはしなかった。あなたは素晴らしい人。」
そこまで言ったとき、セイカさんの目から涙がこぼれた。僕は驚いた。
「セイカさん…、何であなたが…?」
セイカさんはハンカチを二枚出して一枚を僕に差し出した。僕は受け取って、なるべく汚さないように自分の涙をふいた。
「あなたの優しさに胸を打たれました。みんながあなたのような人ならいいのに。心からそう思います。」
涙をふいたセイカさんはきれいな笑顔を見せてくれた。その顔が、その目が、あまりにきれいで、僕は目をそらせなかった。吸い込まれるように、魅了されたように、セイカさんを見つめていた。




