第四話 課題開始
『高嶺聖華』。僕たちの住むこの町で、この名前を知らない人はいなかった。高嶺家はこの町だけでなく全国でも名の通った資産家。高嶺さんのおじいさんにあたる人の指示で山が開拓されてこの町ができたといわれている。その高嶺家の一人娘が聖華さんだ。小学生の頃から成績優秀、スポーツ万能という話で、同学年の僕たち世代は『高嶺さんのお嬢さんみたいになりなさい』と親からも先生からも言われた。僕たち一般人からすればどこまでが本当かはわからないけど、実際にスポーツの大会で会った人は『とても同学年とは思えない』と話していた。
『雲の上の人』『みんなの憧れの存在』、そんな人に会うために、僕はドクゼツさんの試練に挑むことになった。
「さて、どこから始めてもらおうかしら。」
ドクゼツさんの部屋、『ドクゼツ相談所』は僕たちの部屋の真上にあった。その事実を僕が知らなかったのは、恐らく僕が一般人で『ドクゼツさんは避けるべき』を実行していたからだろう。一般棟は半分より南側が教室で北側が部室。四階建ての上から順の南側から順で評価が高い順に部室が割り当てられている。僕たちの部室『魔窟』は一階の一番北側。最下層の一番下だ。僕たちはそれ自体に驚くことはなかったけど、まさかドクゼツさんの部室が低い階だとは思わなかった。
「もっと上かと思った。」
部室に入った僕がそうつぶやくとドクゼツさんは笑った。
「さっきもそうだったけど、小心者っぽいわりには正直なのね。」
このとき初めてドクゼツさんの笑顔を見た。さすが『見た目は五本の指』、ドキッとさせられる。
「この部屋は私が頼んでここにしたの。本来は一番上に用意されたけど、相談所という性質上あまり敷居が高いと困るから。」
納得できる理由とそれ以上に部室交換を頼めば実行できた力に驚かされる。
「もうひとつの理由は…、まあ説明しなくてもそのうちわかるわ。」
ドクゼツさんはそう言いながら僕を部屋の一番奥へ連れていった。そこには机と椅子と本棚。ドクゼツさんは本棚からファイルを一つ取り出して机に置いた。次に本棚の別の場所からノートを十冊ほど取り出して、それも机に置いた。
「とりあえず、このファイルの内容を最初から順にノート二冊に写して。中身について考える必要はないけど、なるべく声に出してやること。わかった?」
「え?声に出して…?」
異論を唱えようとしたときドクゼツさんの目付きが変わった。その目から「つべこべ言わずやれ!」という意味を察し、僕はすぐに机に向かった。指示に従い声に出しながらノートに写す。ただひたすら写す。内容は国語から英語まで多岐にわたるし、少なくとも今はまだ習ってないものらしい。不思議なのは数学の公式でも英語の単語でも必要な箇所には必ずフリガナがあり、声に出すのに困ることはなかった。
「飲み物はそこにあるのを飲んでいいわ。あと、ノートの字は誰でも読めるくらいでいいからなるべく速くね。」
「はい。」
一言返事をしてすぐに作業を再開。言われたとおり延々と写していく。
作業開始一時間後。手が痛くなってきたのを感じ、目の前のコップにインスタントのコーヒーを入れてお湯を注ぐ。ドクゼツさんのいる方に目をやると部屋の中央の立派な机で何かの書類をまとめていた。その表情は真剣そのもので話しかけることは不可能に思えた。
「手が疲れたのかしら?」
こちらに目をやることもなくいつもの抑揚のない声が響く。
「うん。少し。」
「そう。ただ、今のペースだと一日のノルマをこなせないわ。速さを二割増しくらいにできると理想かしら。」
こっちへは全く来てないのに僕のペースを完璧に把握している。僕の声で判断しているとしても、その場合はファイルの中身を完全に把握していないといけない。どちらにしても恐ろしい。
「やってみます。」
僕は静かに作業を再開した。静かな部屋に僕の声と書く音だけが響く。ドクゼツさんはたまに体勢を変えるくらいでほとんど微動だにしなかった。この時間が永遠に続くかのような感覚に陥りながら、ただただ声に出しながらノートに写していった。
「平田さん。そろそろ下校の時刻。」
ドクゼツさんの声で僕は顔をあげた。時計を見ると6時。手も喉も痛い。でも、速度は二割増しでできたと思った。でも…。
「今日のノルマまであと2枚。惜しかったわね。」
ドクゼツさんは抑揚のない声で僕に『落第』を突きつけた。
「帰ってからやります!」
立ち上がってそう告げるとドクゼツさんは首を振った。
「ダメよ。帰ってからはこの課題をやってもらわないといけないの。こっちは声に出さなくていいわ。ノートも一冊で。」
ファイルを机に置くとドクゼツさんは帰り支度を始めた。『今日の課題もこなせなかった。』という現実が僕の体にのしかかる。課題のファイルを鞄にしまいながらドクゼツさんに聞いてみる。
「明日もこの流れ?もしそうなら明日の朝とか休み時間に今日の課題をやりたいけど。」
ドクゼツさんは少しだけ考えて、キーホルダーから鍵を一つ取って僕に渡した。
「なくさないでね。」
うなずいて自分のキーホルダーに鍵を加えた。
「では、また明日。」
部屋に鍵をかけたドクゼツさんは暗い廊下に足早に消えていった。
「今日の夜の課題、明日の昼までに今日の課題を…。頑張らなきゃ。」
そうつぶやきながら僕も学校をあとにした。バスの中で家でやるべきファイルを確認。かなりの量に驚いた。
「今日中に…。頑張らないと。」
バスの中でノートを広げ、少しだけ書いてみた。ただ、バスの揺れで気持ち悪くなってすぐにやめた。
「家に帰って頑張れば…。」
そうつぶやいてから家までのバスを寝た。あっという間だったけど、深く寝られた気がした。
家に帰って夕食を食べ、すぐに課題に取りかかった。最初は集中していたけど、10分もすると眠気や視界に入るマンガが気になり始めた。
「ダメだ。今日中に終わらせるんだ。」
定期的に来る欲望に対して何度も戦いを挑み続け、課題を終わらせたときには奇妙な達成感すら感じた。時計は日付が変わるギリギリ。風呂に入ってベッドに倒れ、次の記憶は翌朝だった。
「学校に行って昨日の課題を…。」
呪文のようにつぶやきながら朝食を済ませ急いで学校へ向かった。いつもより2つ早いバスに乗ったので景色が違って見えた。
「あら。おはよう。」
ドクゼツさんはすでに来ていた。夜の課題を提出、昨日の課題に急いで取りかかった。
「声を出すのを忘れないでね。」
ドクゼツさんが抑揚のない声が聞こえた。僕は静かに「はい。」と返事して課題を続けた。課題が終わったのは遅刻ギリギリの時間だった。