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第一話 気づいた気持ち

「どうぞ。」


 たった一言だった。廊下で僕が落としたプリントを拾ってくれた。まさかその人があの『高嶺聖華タカミネセイカ』だとは思わなかった。


 さらさらの黒い髪にきれいな顔立ち。こんな僕にかけるべきではないと思えるほどのきれいな声。


 僕が言葉を発する前に彼女は颯爽と歩いていってしまった。僕は何もできずにただただその場に立ち尽くしていた。


 からだが震える。寒い季節なのに汗が吹き出す。まるでマラソン後のように息苦しい。心臓も以上に早い。



 ひとめぼれ。



 こんな感覚があることを、僕はこのときはじめて知った。





 薄暗い廊下の先にある薄暗い部屋、その中にいる薄暗いメンバー。僕、平田均ヒラタヒトシがそう感じるようになったのはあの日から。高嶺さんに会ったあの日から。あの人に会った時から僕の世界は色づいた。きれいなものはよりきれいに、汚いものはより汚く。だからこそ思うようになった。『この部屋は薄暗い。』と。


「どうした?キン。何か変だぞ?」


 古部帯土フルベオビトが新しい菓子を開けながら僕を見た。机の上には空いた菓子の袋が少なくとも3つ。この部屋に入ったときには一応ゴミはなかったから、10分であれだけ食べたことになる…。その食欲の方がよっぽど変だと思う。


「キン君はいつもと同じだと思われます。彼は新しい漫画が発売されない限り、ずっとあの感じですから。」


 細賀利樹サイガトシキはちらっと視線を僕に向けてそう言ったあと、数秒も待たずにパソコン画面に視線を戻した。彼は毎日常にパソコンをさわっていて、彼の眼鏡には常にパソコンの画面が映らないことはない。最初の頃はその眼鏡の光がロボットのようで怖かった。でも、もう慣れた。


「でも、確かに少し元気ないよ?」


 声のする方に顔を向けると、お茶の入ったコップがあった。それを差し出すのは緋色真実ヒイロマミ、この部で唯一の女子だ。おさげと分厚いレンズの眼鏡、典型的な昔の真面目女子だ。心配そうに僕を見上げていた。


 この三人を僕は、タイ君、トシ君、マミと呼んでいる。たぶん僕の長い人生の中であだ名で呼べるのはこの三人だけだと思う。


「うん…。かも…。」


 マミの問いに対して答えになってない返事をしながら僕はお茶を受け取った。そしてもう一度辺りを見回した。


 やっぱり、暗い…。部屋は北向きの窓にさらにカーテンを閉めた状態だし、メンバーは特殊すぎるくらい特殊だし…。


 お茶を少し飲んでため息のように息を吐いた。ただ、僕がそれを言う資格もない。なぜならこのメンバーはみんな僕の友達で、この部を作ったのは他ならぬ僕たちだから。


 僕たちは小学校からの同級生。同じ中学を出てこの覇桜高校に入学した。文武両道の名門校で運動部も文化部もレベルが高かった。入る部活に悩んだ僕たちは、この部活『レア漫画小説発掘研究会』を作った。許可されたこと自体が奇跡だった上に、部室までもらえたことにあの頃の僕は満足していた。しかし特殊なメンバーによる異質な部活に一般人が寄り付くはずもなく、暗い廊下の先にあるせいもあり、いつしか僕たちの部活は『魔窟』と呼ばれるようになっていた。




「魔窟か。」


 しみじみとその言葉を口にして、もう一度深くため息をつく。


 どう考えても高嶺さんに来てもらえる場所ではない。紹介できるような友人でもない。それを僕が言う資格もない。


「何があったの?」


 心配そうなマミの声で僕は現実に戻った。マミは幼馴染みで今まで何でも相談してきた。勉強のことも、悩みごとも。だからだったのか、僕の口からは自然と言葉が出た。


「実は…。高嶺さんと話してしまった…。」


「えーーー!?」


 いつも活気がなく無音に近い部屋に、驚くような音が響いた。


「あ、あ、あの、た、た、高嶺聖華様か?」


 タイ君が口からお菓子を飛ばしながら叫んだ。


「セイカ様といったいどこで会えたのですか?そもそも居住地が違うのに。」


 トシ君も興奮して立ち上がった。思えばこの部屋でトシ君の眼鏡にパソコン画面が映らないことが初めてかもしれない。


「聖華さん…。すごいね。もう二度とないかもしれないくらいの幸運だよね。」


 いつもは冷静なアドバイスを返すマミからもさすがに驚きしかないらしい。高嶺さんと話したこと自体がそれほど異常なことだったから。


「うん。たまたま廊下でプリントを拾ってもらった。ただそれだけだった。それだけだったのに…。心臓を捕まれたような衝撃だった。寒さじゃないのに体が震えたんだ。こんな感覚初めてだった。」


 普段ほとんど無気力に近い僕が、人にその体験を説明するだけでここまで興奮している。怖いくらいの異常事態だ。そんな僕に引いたのか、それとも興奮が伝わったのか。部屋が静まり返った。


「キンちゃん…。ひとめぼれ…、しちゃったの?聖華さんに…。」


 静かな部屋にマミの声が響いた。みんなの視線が自然と僕に集まった。


「わからない…。ひとめぼれをしたこともなかったから…。ただ、今は思う。せめて『ありがとう』とだけでも言いたかった。あのときは口を開くことさえできなかった。ただ、あの人を見送ることしかできなかったから。世界が違うし、出会えたことが奇跡なのもわかってる。でも叶うなら、せめてお礼を言いたかった。」


 静かな部屋で僕の声だけが響いた。


「無理…だろ。あの人に会うのは。」


 タイ君の声だった。


「そうですね。会えたことが文字通り奇跡ですから。」


 トシ君の声が追いかけるように響いた。その後、また静まり返った。


 わかってはいる。不可能に近いことは。文字通り住む世界が違う人だから。でも…。


「聖華さんに会うためなら何でもする?」


 静寂を打ち破るようにマミが尋ねた。みんなが驚いたようにマミを見た。


「キンちゃん。命をかけてでも、すべてを捨ててでも聖華さんに会いたい?」


 マミの目は真剣だった。ただ、僕はすぐにうなずいた。うなずけた。


「何でもする。高嶺さんにお礼を言えるなら。命だってかける。それくらいの出会いだったから。見える景色が変わるくらい、大切なものの価値が変わるくらいの出会いだったから。もう一度、もう一度、会いたい。」


 マミの目を見てそう伝えた。マミはじーっと僕を見て、小さくうなずいた。


「キンちゃんがそこまで言うなら。それを叶えられる人、紹介してあげる。」


「ほんとか?」


 マミの言葉に僕は興奮した。そんなことが、不可能を可能にできる人がいるのか。


「じゃあ、ちょっと待ってて。」


 マミはそう言って部室を出ていった。マミを見送った僕たちはほとんど動かず、ほとんど話さずにマミが戻るのを待った。時間が長く感じた。 

 そして5分後、部室の扉が開いた。


「連れてきたよ。」


 マミが入ってきた。その後ろに人影が見えた。


「汚い部屋…。魔窟とはよく言ったもんだわ。」


 吐き捨てるように言葉を発したその人はゆっくりと部室に足を踏み入れた。その姿を見て、僕たち全員が後ずさりした。


「ど、ドクゼツじゃねえか!」


 タイ君が叫んだ。トシ君は固まったまま動けない。僕も動けなかった。その人は高嶺さんとは違う意味で伝説と呼ばれた人。



『ドクゼツ』こと『毒島雪巳ブスジマユキミ』だった。

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