第七十一話
人数分より余分に用意していたマフィンが食べ尽くされたところで、姫様が満足とばかりにカップを置いた。本日も不手際がなかったことに安堵する。
「ねえジルヴェスター、少し散歩に付き合ってくれないかしら」
「帰りにも歩くのだから無理はしない方がいい」
「貴方のところの料理人が悪いのよ。美味しいからついつい食べ過ぎちゃって。フェリクスも、いいでしょう?」
「かまわないけど、本当に少しだけよ。その代わり、帰りはここまで馬車を呼ぶこと」
「約束するわ」
三人は連れ立って庭に出た。お供の方たちも、それに続く。
姫様はフェリ様が差し出した腕にしがみつき、反対の手をブライル様の腕に絡めた。杖を持たなくてもすむように、二人で支えるようだ。
ブライル様が真ん中なら両手に花状態になるのだけど、なんて不謹慎なことを考えながら見送った。どうでもいいことを考えないとすぐにモヤモヤしてしまう。
姫様は脚が動かなくなってからずっと、部屋の中で篭りきりだったのだ。そして病にかかる前だって、わたしが知る限り、姫様がブライル様の許へいらっしゃったことはなかった。ブライル様の方からお伺いしているのかもしれないけれど、あの通り仕事人間だから、きっと回数は多くない筈。
いくら王女といえど、女性だ。婚約者に会いに行きたい気持ちもあるだろう。だけど王族である限り、それは難しいのではないかと推測する。特に女性なら。
わたしが思っているよりずっと、王女という立場は不自由なのだと思う。だからこうしてリハビリと称して、ブライル様に会う機会を作ろうとするのは当然のこと。
自分に言い聞かせるように勝手な想像を張り巡らせ、黙々と食器を片付ける。すると一人食堂に残っていたクリス先輩が、大きな溜め息を吐いたことが背中越しに感じ取れた。
「おい、リリアナ・フローエ。いいのか?」
「……何がでしょうか」
「あれを見て何とも思わないのか」
「姫様がご機嫌で何よりではありませんか」
窓から見える姫様は、本当に楽しそうにフェリ様と談笑している。美しい彼女たちは、まるで仲の良い姉妹のようだった。
フェリ様自身から妹認定されているわたしから見ても、姫様の方が断然しっくりきていると思う。やはり高貴な身分なだけあって、二人と平民のわたしとでは醸し出す雰囲気がまったく違うのだ。
その彼女たちが何かブライル様に言ったのだろう。彼が美しい顔を不機嫌そうに顰め、その反応も見慣れたように二人が笑う。
とても遠い世界に思えて、胸に小さな硝子の欠片が刺さったような痛みが走った。
「姫様はな。だが先生はそうは見えない」
「ブライル様が楽しそうにしているところなんて見たことがありませんよ」
「お前といる時は機嫌がいい」
「そんなことは……」
ない。そう言おうと思ったのに、頭に浮かんできたのはいつか見たブライル様の笑った顔だった。
あれは本当に綺麗だった。見ているだけでドキドキして、思い出すと幸せな気持ちになれる。わたしだけの宝物だ。
「先輩は、ブライル様が笑ったところって見たことあります?」
「先生の? 普通にあるけど」
あるの!?
一人虚しく優越感に浸ろうと思っていたのに、まさかの回答が返ってきた。
「そうですか……」
わたしの知らないところでそんな安売りされていたなんて。軽くショックだ。
そんなわたしを見て、何を落ち込んでいるんだ、と先輩が眉を顰める。
「食事のメニューを聞いた後に、時々こっそりと顔を綻ばせていることがある。きっとその日は好物だったんだろうな」
「まさかのごはん関連!」
子供じゃあるまいし! と突っ込みたくなる。だけど好きなものにはとことんブレないところが、さすがブライル様だ。
「あと、お前と話していた時なんかは、わりと笑顔になるぞ」
「え? そんなことありましたか? わたし見たことないですけど」
「先生って偶にお前を揶揄うだろ? その反応を見て、お前がいなくなった後、こう片方の口角がニヤリと上がってだな」
「それ笑顔って言います?」
先輩がその時のブライル様の様子を真似てくれたが、どうしても邪悪な笑みにしか見えなかった。このままじゃ天使の先輩が堕天使になってしまう。お師匠様の真似をしたがる弟子の教育にはよろしくない趣味なので、ブライル様には早急に対応を求めたいと思う。
しかもこれは求めている笑顔ではない。わたしが求めているのは、ごくごく一般的なものなのだ。
「違いますよ。こう、ハハハと声をあげてですね」
「そうなこと、先生がなさるわけないだろう」
「ないのですか」
「当たり前だ、先生だぞ」
確かにブライル様は無表情がデフォルトだけれど、数年前からストーキングしている先輩が見たことないのだから、あれは相当レアだったのだろう。やっぱり宝物確定だ。
「ではフェリ様ならどうでしょう。ご友人ですし」
「フェリクス様? まあ子供の頃からの付き合いだとおっしゃっていたから、さすがにあるんじゃないか?」
「そうですよね。いくらブライル様だって、子供の頃だったら無邪気な笑顔の一つくらい……」
そう言って想像してみたのだけれど、無邪気という言葉がどうしてもブライル様と結びつかない。子供の姿といえど、さっき見た堕天使クリス先輩と同等の邪悪な笑みの方がしっくりときてしまう。
「なんだお前、やけに先生の笑ったところにこだわるな」
「え!?」
言われて気づいた。そうだ、ブライル様が笑おうが笑わまいが、わたしには関係ない。
「せ、先輩が楽しくなさそうなどとおっしゃるから……」
慌てて誤魔化す。わたしといる時が楽しそうだなんて、あるわけないのに。
「そういえば先輩も、あまり笑ったりしませんよね」
成人したとはいえ、まだ少年と言っていい年齢だ。そのくらいならフォークが転んでもおかしい年頃のはずなのに。あ、それは女の子か。でも男の子だって似たようなところはある。
なのに先輩ときたら、怒っているかツンデレているか、どちらかの場合が多い。無表情とまではいかないけれど、これも師匠からの悪影響かしら。
「面白くもないのに笑えるか」
「え、わたしたちといて楽しくありませんか?」
つい、と覗き込むと、先輩は大きな音をたてて仰け反った。
「ち、近い!」
「あ、申し訳ございません」
まさかの思春期だった。いや、まさかでも何でもない。ちょうどそういう年頃だ。
お母さんとかお姉さんとか、そういう人たちからの干渉を嫌がる時期なのだと、星屑亭や市場でしていた雑談で聞いたことがある。
少し頬が赤くなっているクリス先輩を、ちょっとだけ揶揄いたい気持ちが芽生えたけれど、触ってはいけない。せっかく仲良くなれたのだから。
「わたしは先輩と喋っていて、楽しいですよ?」
お菓子はもうないけれど、お茶のおかわりを差し出すと、先輩はもごもご言いながらカップで口元を隠した。
「べつに、僕だって嫌いじゃない……」
あまりの可愛さに、ちょっと鼻血が出そうになった。
やっぱり先輩は天使だと思う。




