第六十九話
驚きのあまり声も出ない。だけどどうにか後ろに下がり、素早くブライル様の陰に隠れた。
わたしのような平民が王族と同じ空間にいて良いわけがないけれど、あからさまに避けて辞するのも失礼だ。だから気配だけでも消していようと心に誓う。
それにしても、どうして姫様が研究所に?明確な答えは姫様本人とエアハルト様以外持たないようだった。
姫様は穏やかな瞳で、この場にいる全員の顔を見渡した。そして小さく杖の根を響かせながら、ゆっくりと歩みを進める。僅かに足を引きずっていたので、完治までにはもう少しかかるのだろう。
「ーーもしかして、貴方がクリスティアン・ハイネンかしら?」
「は、はい!」
姫様が止まったのはクリス先輩の前だった。まさか自分に話しかけられるとは思ってもいなかったのだろう。変に上擦った声で反応した先輩に、姫様は可憐に微笑んだ。
「この度は貴方のおかげで助かりました。礼を言います」
「…………は?」
突然姫様から述べられた礼に、先輩はあんぐりと口を開けてしまった。驚いたのは先輩だけではない。わたしも、そしてヘンリック様も驚きを隠せないでいた。
しかしやはりそこは貴族。ヘンリック様は毅然な態度をどうにか取り繕い、発言の許可を得た。
「失礼ながら申し上げます。姫様、我が愚弟の、というのは一体どういうことでしょうか」
「まあ、貴方はクリスティアンのお兄様?」
「はい、ハイネン伯爵家が嫡男、ヘンリック・ハイネンと申します」
そのヘンリック様の質問に答えたのは、エアハルト様だった。
「騎士団には話がいってないからきみは知らないだろうけど、姫様は最近難病に侵されてね。それをクリスティアンが作った薬で治療したというわけだ」
「そうなの。クリスティアンのおかげだとジルヴェスターが教えてくれたのよ。だからわたくし、貴方の弟君にお礼を言いに来たの」
そんな馬鹿な。
薬はブライル様が作った筈。フェリ様ならまだしも、クリス先輩が手伝ったなんて話は聞いていない。その証拠に、先輩だって驚いている。
「せ、先生……どういうことですか?」
「エアハルト卿の言ったことは正確ではない」
「そうですよね! よ、良かった……」
姫様からの謝意を受け止めきれない先輩は、ブライル様の言葉に心から安堵した。しかしブライル様は続ける。
「だが、間違いでもない。今回使用した薬は、お前の開発した薬を元に作ったのだからな。例のロギア・オロルの病気を治したものだ」
「まさか……あれが、姫様の病気を……?」
「今回の原因は、かなりの魔力が脚の部分で固まっていたことによる。それを溶かしてやらなければいけなかった。しかし一から薬を開発するとなると、その分時間がかかる。開発している間に、魔力の塊は脚以外の部分に発生するかもしれない。なのでお前の薬を元に、効果を強める改良を施して姫に投薬したのだ」
ちゃんと説明されても、まだ信じられなかった。
だってあの病気は発症例が殆どない。参考にした資料だって三十年以上も前のものだ。
姫様の場合は魔核云々ということではないみたいだけれど、魔力を溶かすだなんて、そんな偶然が重なるだろうか。
当たり前だけど、わたしと先輩以外、そんな疑問を持つ人はいなかった。
ブライル様に至っては、何か別の思惑があるかのようにヘンリック様に詰め寄った。ただ事ではない気配に、全員が固唾を呑む。
「確かお前自身が言ったのだったな、ヘンリック。国、王族、貴族の為にならなければ意味がないと。どうだ、お前の弟は見事に王族の役に立ったぞ?」
「そ、それは……」
「薬師は薬を量産するだけではない。こうして不明な病や治療困難な怪我が起きた場合、新しく薬を作り出さなければならない。きっかけは平民だったとしても、それがいつ王族や貴族の役に立つかわからない。だから我々は日々研究を行っているのだ。こういう国の守り方もあることを、そしてお前の弟が誇りを持ってそれに従事していることを、どうか認めてやってはくれないか」
突然聞かされたブライル様の魔法薬師としての思い、弟子への思いがわたしたちの胸に響く。その静かで熱い思いが、ヘンリック様の心をもじわじわと浸食しているように見える。
しかしブライル様に返事を返すことなく、ヘンリック様は目を潤ませて師を見つめている弟に向き直った。
「クリスティアン」
「は、はい」
「お前がジルヴェスター卿に心酔していることは私も知っている。だからもう一度問おう。いつかジルヴェスター卿が薬師とは別の道を選んだとして、それでも尚、お前は今の仕事を続ける覚悟はあるのか?」
前に一度同じ質問をされた。あの時の先輩は何も答えれなかったけれど、以前よりもヘンリック様の声色は穏やかだ。真剣に弟の将来を問うているように思える。
伯爵家を背負う者ではなく、一人の兄としての言葉に、先輩は今度こそ「はい」と答えた。
「正直とても怖いです。直接患者と接して、苦しみを目の当たりにしました。だけど同じくらい魔法薬の威力に感動しました。僕の薬が、誰かの命を守ったのです。剣を持たなくとも、智略を巡らせなくとも、ちゃんと人を守れると知ったのです。だから僕は、本物の魔法薬師になりたい」
喜びも恐怖も経験して、その上で薬師を続けたいと思った先輩は、ヘンリック様に深く頭を下げた。
「まだまったくの駆け出しですが、もしいつか先生がいなくなっても大丈夫なくらい勉強に励みます。だから兄上、薬師の道に進むことを許してください。お願いします」
弟の覚悟をしっかりと受け止めたヘンリック様は、照れ臭そうにふいと顔を背けた。
だけど出てきた言葉はーー
「お前は魔法薬師として姫様から謝辞を賜ったのだ。ならば認めぬわけにはいくまい」
「あ、兄上!」
「父上はお前自身で説得しろよ。まあ、少しくらいなら口添えをしてやらないこともないが……」
ツンデレの兄はツンデレだったのだ!
こうしてハイネン家の兄弟喧嘩は幕を下ろした。
場を設けてもらったことに感謝し、ヘンリック様は仕事に戻っていった。
残った面々の中でも、やっと認めてもらえたクリス先輩は満面の笑顔だし、偶然にも感動の場面に立ち会った姫様とエアハルト様もニコニコと笑っている。わたしとフェリ様も、声には出さないがとても幸せだった。
しかしブライル様だけは、通常営業だったようだ。そしてわたしの幸せも一瞬で崩れ去ることとなる。
「では用事も済んだでしょう。我々にも仕事がありますので、どうぞお帰りください」
王族に向かって帰れと言い放ったブライル様に、エアハルト様が苦笑した。
「随分と冷めたい言い方だな、ジルヴェスター。愛しの君が訪れているというのに、どうしたんだいその顔は」
ブライル様は舌打ちをし、フェリ様が慌てたようにエアハルト様の名を呼ぶ。その一連が、何故かスローモーションのように見えた。
ここでわたしは思いがけない事実を知らされることになる。無知で愚かなわたしに、エアハルト様はとても優しく教えてくれたのだ。
「ああリリアナ、きみは知らないよね?」
「何を、でしょうか」
「ジルヴェスターが姫と結婚の約束をしているだなんて」
「ーーえ?」
「だからね、ティアーナ姫はジルヴェスターの婚約者なんだよ」
美しいティアーナ姫が、誰かに対してはにかむように微笑んだのが視界の片隅に映る。
ーー世界が、壊れたかと思った。
第二章・完




