第六十六話
存在を際立たせる漆黒の髪。無表情の奥にある美しい菫色の瞳。白衣は着ていないけれど、いつもと変わらないブライル様がそこにいた。
どうして? どうしてブライル様いらっしゃるの?
だって今頃薬草を採取している筈で、帰って来るのもずっと後で……ああもう理解が追いつかない。
「随分と好き勝手してくれたな、ルディウス」
「な!? 貴様どうしてここにいる!」
ブライル様の登場に驚愕するルディウス様を本人は鼻で笑う。
後ろでは、警備の人が「困ります!」と叫んでいるがブライル様は御構い無しだ。
「採取に一週間はかかるはずじゃなかったのか!」
「ああその予定だったが、偶然にも道中で目的の魔草が見つかってな。それよりも王宮側に申請した内容をどうしてお前が知っているのか私には不思議なのだが」
「だ、黙れ!」
ブライル様の言葉に、慌てたように声を荒げるルディウス様。副局長の様子を窺うかのように、一瞬だけ視線逸らせた。何かまずいことなのだろうか。
だけどそれよりも、わたしの足はブライル様に向いていた。
彼の存在一つで、ついさっきまでの感情が打ち消される。たった数日会えなかっただけなのに、こんなにも、こんなにも……。
「フン、いくらお前が現れようと結果は同じだ!」
呆気にとられて解いていたわたしの腕を、ルディウス様が再び掴む。どうにか逃れようと身を捩る。
「いやっ!」
「クソ! おとなしくしろっ」
掴む手に力が入り、痛みが走る。
邪魔をしないで。わたしはブライル様のところに行きたいだけなのに!
「二号、抵抗するな。ルディウスの言うことをきけ」
「そんな……!」
「ハハ、お前も見捨てられたか。いい気味だ。いくら可愛らしい顔をいていても、結局彼奴にとってお前のような平民など玩具に過ぎないんだからね」
そんなことない。ブライル様は貴方とは違う。
わかっているのに、涙が込み上げてくる。
せっかくブライル様に会えたのに、これが最期になってしまうの? そんなの嫌!
そしてとうとう指先が魔石に触れた。恐怖にギュッと目をつむる。
魔石はひどく冷たい。冷たいけれど……
「…………あれ?」
いくら待ってもそれ以外何も起こらない。冷たいのは当たり前だ。この魔石は冷却装置用なのだから。
どうしたものかとルディウス様を見やれば、目の前に青ざめた表情の彼がいた。
「何故……何故反応しない……」
「どうなっているのかな、ルディウス君」
「こ、これは……何かの間違いです。も、もしかすると術式が上手く書き換えられなかったのかもしれません。そうだ、そうに決まっている!」
「魔憑きかどうか判定する大事な証拠なのに、失敗したということかね」
「い、いくら優秀な僕でもミスの一つくらいあります」
必死に弁解するルディウス様。
失敗ということは、今ここで糾弾される事態は免れたのよね。だけどちゃんと書き換えさえできてしまえば、今度こそ魔憑きだとバレてしまう。ここを切り抜けたとしても意味がない。
不安が拭いきれないままにブライル様に視線を移すが、彼の表情には少しの焦りも見られなかった。それどころかいつもの余裕さえ感じる。
「いいや、ルディウス。お前は愚かだが、自分で認めるほど優秀な人間だ。ミスなんてするわけないだろう」
「……何が言いたい、ジルヴェスター」
「お前の組み込んだ術式に間違いなんてないということだ」
そう断言してブライル様が近づいてくる。そして徐ろにルディウス様が持っている魔石へと手を伸ばした。するとーー
「なっ!?」
ブライル様が触れた瞬間、大きく魔石が光った。
「なるほど、この程度の仕掛けか」
「どういうことだ! 何故お前が触って発動する!」
「言ったではないか。術式に間違いはないと」
淡々と答えながら、興奮するルディウス様からわたしを引き剝がす。
「来い、二号」
軽く引かれ、わたしの体はブライル様の胸の中へといとも簡単に移動する。そして温かい体温を感じた瞬間、優しく抱きしめられた。
「ブライル様、どうして……」
信じられない思いで尋ねると、耳元に心地よい低音が響く。
「守ると言っただろう?」
その言葉に、どうにか抑えていた涙腺が決壊する。気づいたブライル様が、珍しく狼狽えるのがわかった。
「……おい、泣くな。来るのが遅かったのなら謝る」
「そうではありません。ありませんけど……!」
ブライル様はちゃんと覚えていてくれたのだ。あの小さな夜の出来事を。
なのにわたしは、心のどこかでそれを戯れだろうと思っていた。いや、思い込もうとしていた。
愚かな自分に言ってやりたい。ブライル様はこんなにもわたしを大事にしてくれているのだと。
「二人の空気を作っているところ申し訳ないが、どういうことか説明してくれるかな、ジルヴェスター卿」
「簡単なことですよ、副局長」
周りに人がいたこと思い出すと、涙はするすると引っ込んでいった。しかしブライル様に恥ずかしいという感情はないのか、わたしを抱きしめる腕を解かないままに答える。
「ルディウスが何を勘違いしたかは知りませんが、この魔石は私の物です」
「何だと!?」
ルディウス様が叫ぶ。わたしの口からも驚きが漏れそうになるが、どうにか堪える。
魔石がブライル様の物? 一体どういうこと? だってそれが本当なら、魔石は入れ替わっていたことになる。魔石が盗まれたのは、まだロギアさんの薬を作っていた頃だ。ならばそれよりも前からブライル様の魔石は用意されていた?
あまりの用意周到さに驚きを隠せない。
「まだわからないのか? お前は私の魔力で動いている冷却装置から魔石を盗んだのだ」
「う、嘘だ……」
「嘘なものか。現にその魔石が反応したのは私ではないか」
魔石が反応したことを目の当たりにしたのだ。ぐうの音も出ない。
「ま、まだ話は終わってないぞ! 水汲みの件が残っている。この女はお前たちがいない日でも水汲みをしていない。いくら貧しい平民でも一日中水を使わないなんて有り得ない!」
「なんだ、そのことか」
ブライル様は懐から新しく魔石を取り出し、ルディウス様に放り投げる。突然のことに慌てながらルディウス様はそれを受け取った。
「な、何だ、これは」
「どこにでもいい。三回軽くぶつけてみろ」
意外に素直なルディウス様は、訝しみながらもコツコツコツとテーブルに打ち付ける。すると魔石の周りから水が溢れ、テーブルと床、そしてルディウス様の足元を濡らした。その量およそバケツ一杯分。
「うわあ!」
「今のように刺激を与えると、水が出る仕組みになっている。少しでも仕事が楽になるようにと渡していたからな、普段から使っていたのだろう」
「ならば何故その女はそれを証言しなかったんだ!」
「貴族の私から魔石を貰っていることを気にしたに過ぎない。彼女なりに私を気遣った結果だ」
「そんな馬鹿な話があるものか。そもそもお前がそんな真似をするなんて有り得ない。たかが平民の為に!」
「いくら平民だろうが、特別な者の為ならそれくらいするぞ、私は」
ブライル様はきっぱりと言い切り、わたしは自分の顔が赤くなったのがわかった。
特別な者って、もしかしなくてもわたしのことよね。こんな魔石の存在は知らないけれど。
「副局長、この者が魔憑きだと誤解を受けたのは、すべて私の魔力によるものだったということで審議を終了してもよろしいでしょうか」
「そうだね、こうして証拠もあることだし」
「し、しかし魔力がジルヴェスターのものだとしても、この女が魔憑きではないと決まったわけでは……!」
「ルディウス君」
「は、はい」
「きみの言い分を受け入れてしまえば、すべての人間を疑うことになる。そんなことはあってはならない」
「…………!」
深く項垂れたルディウス様に、ブライル様は更に追い打ちをかける。
「私のものを確証なく断罪しようとしたことを後悔するがいい。そこの腰巾着二人もな」
今まで蚊帳の外だった二人は、突然ブライル様の冷淡な目に睨まれ震え上がる。
「ひぃっ、私たちはルディウス卿に頼まれたのです!」
「そうです、魔憑きとする決議に賛同するように言われただけで……」
「貴様ら!」
仲間からのまさかの裏切りに、ルディウス様が吠える。証言ともなりかねない二人の発言を副局長は聞き逃さなかった。
その後、無効だと判断された審議は副局長によって強制終了となり、ルディウス様一行は直ちに退室することをを命じられた。
「副局長、まさか貴方が出てくるとは思っていませんでした」
「ちょっと興味が湧いたからね」
残ったわたしたちは、副局長に迷惑をおかけした今回のことを詫びた。副局長自ら飛び込んできたとも言えるが、それはそれ、これはこれ。この御方がいれくれたから助かった部分も多い。
「興味、ですか」
ブライル様が怪訝な目を向ける。
「それより君たちを見ていると、ただの主人と使用人には思えないのだけれど、そこのところはどうなのかな?」
「ただの主人と使用人ですよ。今のところは、ですがね」
うん? いま目の前でとんでもない会話が交わされたような気がしたのだけれど。気のせいよね。
「リリアナ、君は了承しているのかい?」
「え!?」
「いずれさせますので、ご心配なく」
「えええ!?」
ほ、本当に気のせいなの、これ!?
「ジルヴェスター卿、君が本気なら、これから色々と手を打たないといけないよ。彼女が……リリアナが悲しい思いをしなように」
「承知しています」
「ああ、後悔だけはしないように」
私のようにね。
どこか遠くを見つめながら小さく呟いた副局長は、一度だけ目を伏せた。




