第五十八話
ブライル様たちが戻ってきたのは、日付けもとうに変わって夜が明ける頃だった。
早朝の静まり返る中、厨房でうつらうつらとしていたら、玄関の扉が開く音で目が覚めた。小走りで出迎える。
「おかえりなさいませ」
「ああ」
「ただいま、リリアナちゃん。急に出ていってごめんなさいね」
「いいえ。それよりお疲れでしょう。お休みになられます? それとも食事になさいますか?」
「クリスは?」
「先輩なら二階で休んでいらっしゃいます」
「では彼奴が起きてきたら一緒に食事にしよう」
「かしこまりました」
朝食の席に全員が揃うのは珍しい。フェリ様とクリス先輩は自宅で済ませてくることが多いからだ。
それを加えても空気が違う。きっと昨夜ティアーナ姫のことを聞いたからだろう。ブライル様とフェリ様は疲れが顔に出ていたし、クリス先輩は……うん、朝食に釘付けだ。成長期の少年は、いつも空腹なのだろう。
皆の前に料理を並べ終え、ごく自然に部屋を出ていこうとした。
ーーが、
「何処へ行く」
ブライル様の冷ややかな声に遮られた。どうやらわたしがいつも座っている場所にだけ、何も用意されていないことに気づいたらしい。目敏いにも程がある。疲れているのだから、ごはんを食べて休んでくれれば良いのに。
「少し用を済ませてきますので、先に召し上がってください」
「フム、ならば待っていよう。その用とやらを済ませてくるといい。本当に用があるならばな」
適当な理由をつけてその場を離れようとしたが、ブライル様には通用しないことがわかった。
「どうせお前のことだから、ルディウスに言われたことを気にしているのだろう」
「うっ」
バレバレである。わたしって、そんなにわかり易い性格なのだろうか。
「そ、そうですよ。昨日のように急にお客様がいらっしゃると、またわたしが一緒に食事をしているところを見られてしまうかもしれませんから」
「見られて何がまずい。私が構わないと言っているのだ」
ブライル様は揺るぎなくそうでしょうとも。
「構わなくないですよ。わたしがそうしてしまうと、皆様が非常識だと思われるのですから」
「それがどうした。言いたい奴には言わせておけばいい」
「そうよ。他人の言葉なんかより、リリアナちゃんと食事を取ることの方が私たちには大事なの。ルディウスの言ったことなんて気にしないで」
「もうさっさと自分の分を持ってこい。僕は腹が減ってるんだ」
本音を言えば、わたしだって厨房で一人食べるのは寂しいし、皆と一緒に食事ができる方が余程楽しいだろう。その上皆から求められることもすごく嬉しく思う。
だけどわたしの言い分は正しい筈だ。正しい筈なのに、三方から見つめられる視線に耐えられず、親に怒られた子のようにしゅんとなってしまう。
そして結局また絆されてしまうのだ。こういうところが甘いのだろう。わたしは弱いから、向こうから断ち切ってくれないと、命令という名の優しさに縋り付いてしまうのに。
「それで姫の容体はどうだったんですか?」
いつもと違う、どこかまったりとした時間の中で食後のお茶を飲んでいると、お腹が満たされたクリス先輩が切り出した。
ブライル様はさして変わらないが、フェリ様の顔が曇る。
「病気と言えるのかはわからないが、姫の脚が動かなくなったようだ」
「あ、脚が……本当ですか!?」
「本当よ。歩けないの」
ティアーナ姫が脚に異変を感じたのが二週間ほど前。どこか血が通っていないような感覚から始まった。そして脚の先から徐々に動かなくなり、今は寝たきりなのだとか。
「そんな……」
「治す手立てはあるのですか?」
「問題ない。少し時間はかかるかもしれないが、まあ治せるだろう」
さらりと返された回答に、こわばっていた肩の力が抜けた。
さすがブライル様だ。お医者様が匙を投げる程のことなのに、しれっと解決できるなんて。
もちろん魔法薬は大事だけど、研究所に籠ってばかりいるのがもったいない気がしてきた。
「しかし薬を作るにも材料が足りない。なので早々に採取へ向かうことになる」
また魔物がいる場所へ行くのか。
だけど旅先だろうと不味いものは食べたくない。そうブライル様はおっしゃっていた。ならば今回も同行することになるのだろう。
「出発はいつですか?」
「今夜か明日の朝には立つ予定だ。一週間程度はかかるだろう」
これはまた急な話だけれども、相手が王族だけに仕方ないことだ。何よりも優先されることだろう。
「では早く準備を済まさないといけませんね。移動はまた幌馬車ですよね?」
「いや、今回は量が必要ではないからな。普通の馬車を使うつもりだ」
「そうですか。でもそれですと鍋や食器は入ります?」
「二号」
「食材も入れなきゃいけませんし、やはり幌馬車の方が……」
「二号、話を聞け」
頭の中で一週間分の荷物を数えていると、ブライル様からストップがかかる。
「何でしょうか」
「今回、食事は必要ない。近くに町があるからそこの宿屋を利用する」
「え?」
「よってお前はついてこなくていい」
「あ……」
でも連れて行くのはわたしじゃないとダメって……。そう前に言われたことを思い出したが、確かに宿を利用するなら、わたしはまったく必要がない。
瞬間、顔が赤くなるのがわかった。ブライル様が必要だとおっしゃっているのは、わたしではなくて、食事なのだ。勝手に自惚れていた自分が恥ずかしい。
あははーと笑って誤魔化せば、ざまぁ顔のクリス先輩と目が合った。うう、ちくしょう。
「手元の仕事を片付け次第出発する」
そう宣言したブライル様は、凄まじい勢いで仕事をこなしていった。
今回はブライル家から人手を出すようで、その人たちが一切の準備をしてくれた為、わたしの出番はなかった。そして本当に休むことなく夜遅くに出発してしまった。一応お弁当と数日は保つお菓子を手渡してみたが、ついて行く気満々だったからか、心のもやもやがどうにも取れなかった。
「リリアナちゃん、大丈夫?」
「え? 何がです?」
そして翌日。
ぼんやりとした気持ちのまま応接室の掃除をしていると、後ろには心配そうなフェリ様の目があった。
「なんだか元気がないみたい」
「そんなことないですよ。元気です」
雑巾片手にへらっと笑ってみる。だけどフェリ様は怪訝な顔をしたままだった。
いけない。いくらブライル様が居なくても、わたしの仕事場はここなのだ。ちゃんとやるべき仕事をしないと。
改めて気合いを入れ直していると、
「……ナ、リリアナ!」
どこからか、わたしを呼んでいるような声がした。フェリ様と顔を見合わせる
「リリアナ、どこ!?」
気のせいじゃない。切羽詰まった声がはっきりと聞こえる。それにこの声はアニエスだ。
「ここに居るわ、どうしたの?」
廊下に出ると、厨房の方からアニエスが飛び出してきたのが見えた。その顔は恐ろしく真剣そのもので、彼女のそんな様子を見るのは初めてだったのでびっくりする。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「リリアナ、早く逃げて!」
「に、逃げる? 待って、どういうこと?」
「もうすぐそこまで来てるのっ」
来てるって何が!?
焦っているのはわかるが、理解が追いつかず、首を傾げてしまう。
わたしの後を追ってきたフェリ様が、落ち着いてと言わんばかりにアニエスへ微笑みかける。
「貴女がアニエスちゃんね。何故リリアナちゃんが逃げなきゃならないのか話してくれる?」
その優しい声色に、彼女の目にぶわりと涙が浮かんだ。え、泣くほどのことなの?
「わ、わたし……リリアナごめんなさい、本当にごめんなさい!」
そう言われても、何か謝られるようなことがあったかしら? 思い返してみても、出会いはともかく、アニエスには良くしてもらった記憶ばかりだ。
でもこんなにも震えているということは、彼女は本気でわたしに謝っている。だけど一体何に?
もう少し詳しい話を聞こうとしたところで、
「おや、こんな所で何をしているんだい?
アニエス」
最近聞いたばかりの声が響いた。
「ひ……っ」
「ルディウス?」
アニエスが小さく悲鳴をあげ、フェリ様の眉間にブライル様並みよしわが寄る。
またしてもルディウス様がおいでになった。
それにしても、ものすごく機嫌が良さそうだ。ご機嫌な笑顔なのに、逃げる子を追い詰めた鬼のような雰囲気を纏っている。
「先回りして告げ口かい? そうやって僕に逆らって、何か良いことでもあるの? せいぜいお前の家が潰れるくらいだろう。まあそれを望むのなら何でも喋るといい」
有無を言わせぬ圧倒的な支配力をもって、ルディウス様はアニエスの口を封じた。隣にいる小さな体が、ガタガタと震えている。
これが二人の主従関係だというの?
自分とはまったく違う関係性に驚きを隠せない。しかしこれが本来、わたしが想像していた貴族の姿なのだと思い出した。
「ルディウス、ジルなら不在よ。どうせ貴方も知っているのでしょう?」
「そうだったかな? だけど彼奴に用があるわけじゃないから、心配は無用だよ」
「じゃあ一体何をしに来たの?」
訊かれたルディウス様の指が、楽しそうに踊る。そしてゆっくりとこちらへ向いた。
「今日はそこの使用人に用があってね」
え、わたし?
「な……!? どうして貴方がリリアナちゃんに?」
「まあ、今から教えてあげるから少し静かにしていたまえ」
ルディウス様は、先日と同じく懐から紙を取り出し、わたしに差し出した。
「リリアナ・フローエ。お前に魔法局より出頭命令が出ている」
な、なんですってー!?




