第五十四話
「ーー魔力を溶かすのに最適なのは魔力だ」
「うわぁ!!」
「きゃあ!!」
突然背後からかけられた声に、わたしたちは二人して飛び跳ねた。心臓が止まるくらい驚いたけれど、今のが誰の声なのかはわかっている。わかっているだけに怖い。
ああ、振り向きたくない。本当に振り向きたくない。
そんな感情が心の大半を占めるけれど、そういうわけにはいかない現実が迫っている。恐る恐る首を捻れば、わたしたちのお師匠様が壁にもたれるように立っていた。
「せ、先生……っ」
真っ青になったクリス先輩がわたしにしがみついてくる。その体をわたしもひしと抱きしめた。
……あ、美少年の体細い。
途端に無表情だったブライル様の美顔が歪められる。
な、なんで!?
コツコツとゆっくり近づいてくるブライル様を、弟子二人は互いに震えながら待つ。
ちょっと待ってください。いつもより眼光が鋭いような気がしないでもないような……。その眼光から庇うようにクリス先輩を背中に隠せば、益々鋭さが増した。
だからなんで!?
「最近お前たちがコソコソしているのは、これが理由か」
ブライル様はガクブルなクリス先輩から資料を奪い、それにざっと目を通す。そして冷ややかに光る菫色の瞳を、目の前の一番弟子に移した。
「クリス、説明しろ」
「は、はいっ」
もう隠すなどというレベルではなくなったと腹を括った先輩は、これまで経緯を詳らかに話した。
お兄様から薬師を辞めるよう命じられたこと。手柄を立てれば許してもらえること。ちょうど原因不明の病人がいたこと。その病人ロギア・オロルの病状と、三十年前に病死した貴族との類似点。
「ーー申し訳ありません、先生の許可なく勝手なことを……」
「そうだな。お前には然るべき罰が必要なようだ」
「ば、罰だなんて……っ。クリス先輩はご実家の問題に、ブライル様を巻き込みたくなかっただけなのです!」
縋るように訴えるが、「そんなことはどうでもいい」と一蹴された。そして小さく身を縮めた先輩に、ブライル様は静かに口を開いた。
「クリス、お前が今やろうとしていることは何だ」
「え?」
「先程言ったように、魔力は魔力で溶かすのが一番だ。それを踏まえて組み合わせれば、効果のある魔法薬ができる可能性はある」
叱責を覚悟していた先輩は、思ってもみなかった展開に戸惑っている。何せ彼が薬を調合することを肯定するかのように、ヒントを出してくださっているのだから。
「せ、先生、よろしいのですか……?」
「その者と約束したのだろう? ならば薬を作れ。お前を信頼して待っている患者がいるのだからな」
「は、はい!」
師匠の言葉を受け、クリス先輩は研究室に向かって力強く駆け出した。
結果的にだけれど、見つかって良かったのかもしれない。たった一言だけでもブライル様からアドバイスをもらえたことが効いたのか、自信ありげにしていてもどこか纏っていた迷いが、瞬く間に消えたように見えたからだ。
もう心配しなくても大丈夫という気持ちで先輩を見送りながら、はたと気づく。ブライル様と二人きりの空間に残されたことに。
心臓がざわざわするのは、先輩が去った今も彼の瞳が冷ややかだったからだ。
「そ、そういえばブライル様、今日の魔法薬の勉強はどういたします?」
「明日で良かろう。今更研究室に入っていって、クリスの邪魔をするわけにもいくまい」
「そうですか。ではわたしは残りの仕事を……」
「ちょうどいい。茶を用意して、私の部屋に持って来るように」
ぎょっとするわたしをよそに、ブライル様は部屋を出ていってしまった。
せっかく仕事を盾に逃げようとしたのに、あっさりと退路を断たれてしまった。
厨房に戻り、いつもと同じようにお茶の準備を始めるが、何故かゆっくりめになってしまう。理由はわかっている。部屋に行きたくないからだ。
最近ブライル様と一緒になるのが辛い。ブライル様自体が嫌なのではなく、二人きりになるのが嫌なのだ。
お世話係だし弟子なのだから、わがままは言っていられない。
だけど二人になった時のブライル様は、どこかいつもの彼とは違う雰囲気を醸し出すことがある。そしてその雰囲気を目の当たりにしたわたしも、いつもの自分ではいられなくなってしまいそうで怖い。
ハァ、と重い息を吐いてドアをノックする。そして返事を待って部屋に入り、なるべく平常心を保ちながらお茶の準備を始めた。その様子を、ブライル様はソファーでくつろぎながら眺めている。
「お待たせいたしました」
「ああ」
目の前にお茶と少しのお茶請けを置き、それでは、と退室しようとした。しかしそれは叶わず、腕を掴まれてしまう。
「何故逃げる」
「逃げるだなんて、そんなこと……」
ある。あるに決まっているけれど、そんなことは言えない。またしても退路を断たれたわたしは、ブライル様の許しがおりるまでおとなしく突っ立っていることにした。
「クリスがお前の護衛を買って出るなど、おかしいと思ったのだ。夜も二人で出かけていただろう」
「気づいていらしたのですか?」
「当たり前だ。私に知られたくないようだったから敢えて何も言わなかった。まさかこういう理由だとは思わなかったがな」
「ではどんな理由だと?」
言ってから、しまったと気づいた。ブライル様が邪悪に満ちた顔になったからだ。おおぅ、嫌な予感しかしない。
「……フフ、知りたいか? ならば教えてやろう」
「あ、やっぱりいいです」
「遠慮するな」
「そんなもの一切しておりません」
「まあ聞け。私はな、あろうことかお前たち二人が隠れて逢瀬を重ねているのではないかと思ったのだ」
「おうせ?」
ブライル様の言っている意味がやんわりと理解できた時には、すでに次の言葉が紡がれていた。
「違うとわかっていても面白くなかったぞ。二人で遠出すると聞いた時などは特にな」
「あれは本当に薬草を採取しに……」
「ああ、それもわかっている。だがお前が別の誰かの為に弁当を作っているのを見ただけで腹が立った。薬草採取がなければ、あんなものただの逢い引きではないか」
「あいびき……」
またしても意味がわからないまま呟いてみる。
わたしとクリス先輩が、逢い引き。試しに想像してみたけれど、どう転がっても可愛くて生意気な弟とのお出かけくらいにしか思えなかった。
というか逢瀬だの逢い引きだの、よもや彼の口から出て来るとは思えない単語に違和感しか感じない。一体今日のブライル様はどうしたというのだろう。もしかして何か悪い物でも食べたのかしら。彼が口にする物のほとんどを作っている立場からして、その可能性が皆無なのは明白なのだけれど、そう疑ってしまいたくなる気持ちをどうかわかってほしい。
「それに今もクリスに抱きつかせていただろう」
「あ、あれはブライル様が悪いのです」
「私が? 何故だ」
「あんな恐ろしいお顔をされていては、先輩も怯えてしまいます」
「怯えていれば誰構わず抱き着かせるのか、お前は」
「そんなわけありません。クリス先輩だからです」
そう答えれば、いつもより眉間に深くしわが刻まれた。
しかしいくら兄弟子だからといっても、先輩は年下。それに二人しかいない兄妹弟子で、助け合うのは当然のことだと思うのだけれど、お師匠様にはわかってもらえないらしい。
その上またもや理解不能なことを言い出した。
「二号、お前はいい加減男に隙を見せるのをやめろ」
「は? 男? 何のことです?」
わたしの反応に、ブライル様はやれやれと溜め息を吐いた。
「隙がある自覚がない上に、彼奴を男とさえ見ていないのか」
「だから何の話ですか」
「もういい。わざわざ日向で埃を立てる必要もあるまい。今のところお前の中のソレは私だけみたいだからな」
本当に意味がわからない。いっそ宇宙人と話している気分になる。
ああ、そうだ。こんな時は話を変えるに限る。
「ところでブライル様」
「何だ」
「結局クリス先輩に調合の許可を出されましたが、無断で薬を作っていたことは……」
「それについては今回彼奴を責める予定はない。私の許可は取ってほしいところだが、魔法薬への貢献にもなるしな」
「では何の為に罰を?」
「……少しは自分で考えろ」
それから二日後。
クリス先輩の手によって、薬が完成した。
 




