第四十五話
「あと、お前は先生に謝れよ」
「……そのつもりですってば。ただきっかけが掴めないだけで」
「昨日あれから……今日の午前中とかも、機嫌が悪くて大変だったんだぞ。別に仕事に支障が出てるわけじゃないけど」
「支障がないなら良いじゃないですか」
「お前は研究室の様子を知らないから言えるんだ! 尋常じゃないくらい空気がピリピリしるんだからな。あれじゃ僕もフェリクス様も神経が持たない」
「そ、それはご愁傷さまでした……」
研究室内の最悪な雰囲気を想像してしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。遠い目をしたクリス先輩と気の毒なフェリ様に、心の中でうんと謝った。
そうして屋敷に戻ると、何故か厨房から出てきたブライル様とばったり会ってしまった。わたしたちが揃って帰ってきたことに、ブライル様も軽く驚いているようだった。
「ただいま戻りました。外出の許可をいただき、ありがとうございます」
「ああ」
「それで先生は厨房で何を?」
「茶を飲もうと思っただけだ」
「では今すぐ用意を……」
「もういい。済んだ」
そう言って何とも微妙な表情のまま、わたしたちの間で視線を彷徨わせている。何となく様子を伺っているようにも見える。
次に鼻がひくりと動いて、視線はわたしの持っていた紙袋に移動した。中にはエアハルト様からいただいたチョコレートが入っている。さすがブライル様、鼻まで利くのか。
「お前たち、二人で出掛けていたのか?」
「いえ、あの、偶然会ったので帰りが一緒になっただけです」
「……ふぅん、そうか」
嘘は吐いていない。だけど色々と秘密にすると決めたのだから、詳しいことは話せないのだ。
ハハ、と誤魔化すように乾いた笑いを浮かべながら、先輩が肘でわたしの腕を突いてくる。
(早く謝れよ)
(わかっていますからちょっと待って下さい)
そんなわたしたちの様子を、ブライル様は眉根を寄せながら見ている。
すると、
「あ、あのブライル様……っ」
「クリス、早く仕事に戻れ。フェリクスが待っている」
「は、はい」
わたしが声をかけた瞬間、明らかに目を逸らした。そしてそのまま背を向けて研究室に戻っていく。
ーーな、何で!?
紡ごうとした謝罪の言葉が、音にならずに消えていった。嗾しかけたクリス先輩も、気まずそうな顔をしながらブライル様を追いかけていった。
その場に一人残されたわたしは、呆然としながら去っていく二人の背中を見つめる。
えーっと、これはかなり尾を引いているのかもしれない。
確かに昨日のわたしは無礼だったし、ブライル様に刃向かったのだから、怒られて当然だと思う。
無視されるのは辛過ぎるし、ブライル様だって好きでやっているわけじゃないだろう。でもそうしてしまうくらい、彼はわたしに腹を立てているのだ。すっごくすっごく怒っているのだ。
心から力が落ちていくのがわかった。
もう、ずっとこのままなのかしら。こうしてずっと素っ気ない態度を取られ続けるのかしら。
重い重い息が体から抜けていく。
わたしの知っているブライル様は、仕事馬鹿で、ちょっと意地悪なところもあるけれど、それよりもずっと優しい御方だったのに。
それに時々恥ずかしいほど距離が近いこともあったけど、あれだって決して嫌ではなかった。だけどもう二度とあんな近くに来てくれることはないんだ。
そんなことを考えると、途端に寂しさとか切なさとか心細さとか色んな感情が込み上げてくる。
……嫌だなぁ。ちょっとくらい恥ずかしくてもいいから、またあの人に触れて…………って、いやいや。何を考えている。やめろ、やめるんだ、わたし。
多分赤いであろう頬っぺたをバチンと叩き、無理やり思考を切り替える。
ダメだ。ちゃんとしよう。そして張り切ってごはんを作ろう。これがわたしの仕事なのだから。
こうして考えることをやめた結果、ブライル様の言っていたお茶を飲んだ形跡が厨房のどこにも残ってないことに微塵も気づかなかったのだ。
その日の夕食は、気を使ってくれたフェリ様とクリス先輩が、いつも以上に話しかけてくれた。しかしあまり雰囲気は良くならなかった。それもそのはず。ブライル様が、昨日よりも更に不機嫌そうだったからだ。
いつもの貴族の上品さは何処へやら。いつもより明らかに速く食事を平らげている。まるでこの部屋からさっさと出て行きたいような感じが伝わってくる。それでもマナーをきっちり守っているところがすごい。
しまいには、フェリ様たちから「どうにかして」とばかりに涙目で懇願の表情を向けられた。付き合いの長いフェリ様が無理なのに、わたしにどうしろと。いや、努力はしますけどね。
そして夕食後、わたしはいつものように筆記具とノートを抱え、研究室の前に来ていた。一応、魔法薬の勉強の為である。勉強を休むという通達は来ていないのだから、教えてもらう身である自分から休むわけにはいかない。
意を決してドアをノックする。少し間があって、「入れ」と促された。中に入ると、いつも通り書類仕事をしているブライル様の背中が見えた。もうこの背中ばかり見ている気がする。
「失礼します。あの、今日の勉強はどうされます?」
「……勉強?」
ブライル様はこちらに顔を向けることもなく思案した後、
「休みでいいだろう。当分」
素っ気なく言い放った。
当分、ということは、当分この状況が続くということだ。そんなことになれば、わたしたちの神経が持たない。これは早急に手を打たねば。
「あの、ブライル様……」
冷たくなった指先を強く握った。
「何だ」
「昨日のことですが、わたしも言い過ぎたと申しましょうか……意地になり過ぎたと思います」
そう言うと、頻りに動いていたペンが止まる。
「楯突くようなことを言って申し訳ございませんでした。なのでそろそろ機嫌を直していただけないでしょうか」
目の前の背中に向かって頭を下げる。すると、その下げた頭の上から深いため息が聞こえ、漸くこちらを向いてくれたのだとわかった。そして「頭を上げろ」と、低い声を発した。
「……確かにな、私は気分が良くない。そこへお前は今、謝る代わりに機嫌を直せと要望を付けてきた」
「要望というか……要望ですね、はい」
「ならばお前は、私の言う通りルディウスのところの下女と縁を切るのか?」
「それは……切りたくありません」
「では何の為に謝ったのだ」
「だからそれは……」
何の為に謝ったのだろう。
フェリ様とクリス先輩の為? もちろんそれもある。だってこんな状態のブライル様とお仕事をしなければならないなんて辛すぎる。
でもそれだけじゃない。わたしがーー
「わたしが嫌なのです。こんな気まずい空気のままじゃあ」
「そんなことは私に関係ない。それに空気や機嫌など、大した問題ではないだろう」
「大問題ですよ!」
だって苦しいんだもの。ブライル様に無下にされると、苦しくて胸が張り裂けそうになるってわかったから。そして何より寂しい。こんな思いするのはもう嫌なのだ。
「で、では、いつまで続くのですか? ルディウス様が何か仕掛けてくるまで、このままでいるつもりなのですか」
「それはだな……」
「わたしには無理です。ブライル様に無視されるのも、喋れないのも、目を合わせてさえいただけないのも、全部全部嫌なのです」
その言葉に、ブライル様が一瞬だけ目を見張ったのが窺えた。
だけど、と続ける。
「アニエスは王都に来て、初めてできた友達です。これもブライル様が与えてくださった居場所や心の余裕があったからだといえば、その通りです。けれどまだ何も起こっていないのに、わたしから手を離したくはありません」
どちらも失いたくないなんて、とんでもなく我儘だと自分でも思う。ブライル様の命令通りにアニエスと手を切って、ここで今までと同じようやな生活していけば良いのだろう。だけどこの屋敷に来て、ブライル様やフェリ様に、魔憑きでも普通に生きて良いことを教えられたのだ。
フェリ様は自由に友達を作って良いとおっしゃってくれたし、ブライル様はアニエスとのお茶会を許可してくれた。なのに……。
こうしてわたしは思いつくままに喋ったけれど、これがブライル様に届いているかまったくわからない。
ふと、さっきの夕食の様子を思い出した。目の前で、料理が作業のように消費されていく様を。
「……ブライル様、今日の夕食は如何でしたか? そもそも何を召し上がったか覚えてらっしゃいますか?」
「夕食だと……?」
話を変えるなとばかりに目つきを鋭くさせたブライル様だったが、次第に首を傾げてしまった。どうやら本気で覚えてないらしい。作った側としては、非常に残念で仕方ない。
デザートは出す前にブライル様は席を立ってしまわれたので、食べてはもらえなかったが、大好きなデザートを放棄してまで、いつもの団欒の時間を嫌ったのだろうか。
「いつもと同じように作ったつもりですし、手を抜いた覚えもありません。だけどブライル様は内容を少しも覚えてらっしゃらないのですね?」
「むぅ……」
「そんな食事で本当に宜しいのですか? わたしは悲しいです」
「むぅぅ……」
「ちなみに今日のデザートは、ほのかに洋酒が香る無花果のパウンドケーキでした」
「むぅううう……っ」
ブライル様は悔しそうに、ペンを握り締める。そしてしまいには項垂れてしまった。忌々しそうにわたしを睨みつける。
「お前は以前、私のことを卑怯だと言ったが、お前の方がはるかに卑怯ではないか」
「では、お互い様ということで」
そう真面目な顔だけで答えれば、「どこがお互い様だ」と、ぶちぶち文句を垂れている。すみません。自分でも卑怯な手を使ったなと反省しているので、勘弁してください。
さすがに申し訳なかったので、お茶のお供にブライル様の分のパウンドケーキをお出しした。まだ納得していないのか不満気な顔をしてらっしゃるけれど、ケーキを食べる手は止まらない。これはおかわりが必要かもしれない。
「今回の件は、わたしの我儘だと理解しています。だからといって、それ以外のところ雰囲気を悪くさせる必要はないと思うのです」
お茶のお代わりを注ぎながら、そう提案してみる。
「どうかいつものように接してください。それで本当にルディウス様が何かを仕掛けてきたら、その時改めて謝罪いたします」
「お前に謝られたところで、私に面倒が降りかかるのは変わらないではないか」
又してもため息を吐かれたが、今度は柔らかなものだった。




