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第四十三話

 小さく固いそれを、おずおずと摘み上げた。口元へ近づけただけで、芳醇な香りが鼻孔をくすぐる。

 堪らず口の中に放り込んだ。

 まず表面を楽しむように舌の上で転がす。すると口内の温度でだろうか、チョコレートがとろりと溶けてきた。


「…………あ、」


 溶け出したなめらかな纏わりが、口の中いっぱいに広がる。そしてほんのり苦く、だけど甘美な味わいが、段々と濃くなってきた。鼻に抜ける息さえも堪らない。


「ん、ん〜〜〜っ!」


 チョコレートのすべてを堪能していると、いつの間にか溶けてなくなってしまった。ああ、もう一つ食べたい。素早く次を摘み、再び甘美な世界に飛び込む。

 これはヤバい。一度味わってしまうと、虜になってしまう魔法の食べ物だ。


「美味しいかい?」

「それはもう!」


 こんな美味しい物、次はいつ食べられるかわからない。最悪、これが最後の機会かも……というのは大袈裟だけれど、滅多に食べられる物ではないのは確かだ。だとしたら全感覚をフル稼動して堪能せずにはいられないではないか。


 それにしてもこれがサービスだなんて、どれだけこの店は太っ腹なのだ。だけど周りを見渡しても、どの席にもそんなものは出されていない。それだけでこの男性がいかに上客なのかが伺える。

 当の男性は、ニコニコと微笑みながらわたしを見ているのだけれど、その爽やかな笑顔の裏で、またゴミ虫などと思われているのだろうか。

 チョコレートとオレンジの風味が付いたお茶のマリアージュを堪能しながら、そんな酷いことを想像しているとーー


「ところで、君は魔法薬研究所に勤めているんだったね」


 突然わたしの話になった。

 無言でお茶を飲んで、じゃあサヨナラというわけにはいかないから仕方ないけれど、何故そんな話題に?


「……わたしのことをご存知なのですか?」

「あのジルヴェスターが女性を囲っているなんて噂が以前から出ていたのは君自身も知っているだろう? 興味が湧いても不思議ではないよ」


 ブライル様ってば人気者過ぎる。

 というか、ブライル様のことや、城内での噂を知っているのだ。やはり内部の人間なのだろう。


「その噂の人物だから助けてくださったということですか」

「フフ。それだけではないけどね」


 不敵な笑いに、なんだか気が置けない。嫌な感じはしないけれど、胸がざわざわする。濃厚なチョコレートを初めて食べて胸焼けしたというわけではない。


「それにしても、何だって君のような美しい女性が、あの堅物の所で働くことになったんだい」


 わたしの容姿については置いておこう。どうせお世辞なのだから。

 しかし美しさ云々で働く場所が決まるのなら、フェリ様はどうなる。彼女はわたしの中で美しさの象徴なのだからね。

 それにブライル様とフェリ様が並び立つ姿は、神に感謝と祈りを捧げたくなるレベルだ。それを毎日眺められる今の職場は、そういう意味で何物にも代え難い。


「専属の料理人を探していたブライル様に誘われたのです。わたしはあの方が贔屓にしていた料理屋で働いていたものですから」

「なるほど。しかし平民の君が、よく貴族のところで働こうと思ったね」

「そうですね、緊張はしましたけれど。でも貴族の皆様が召し上がる料理に興味があったのと、何より給金が驚くほど良かったので」


 意外にもすらすらと誤魔化しの台詞が出てきた。本当は魔憑きのことで脅されたんです、なんて素直に答える義理はない。今言ったことだって、嘘ではないのだから。なにせ給金が五倍。


「そんなことより、貴方様は……」


 いい加減話を逸らそうと話題を変えれば、男性は仰々しく胸に手を当てた。


「ああ、そういえばまだ名乗っていなかったね。失礼した。私はエアハルト。エアハルト・ロレーヌ。覚えていてくれるかい」

「はい、もちろんです。……あ、自分から訊いておきながら、わたしも名乗っていませんでしたね。こちらこそ失礼致しました。わたしは……」

「リリアナ・フローエ嬢だろう?」


 だから、何故知っている。


「エ、エアハルト様は、お貴族様、なのですよね?」

「まぁ、一応ね。聞いたことはないかい? ロレーヌという家名を」

「いいえ、初めて聞きました。無知で申し訳ございません」

「いいや、平民なら知らなくて当然だ。でも城内で働いているならこれからも会うかもしれない。その時は、仲良くしてもらえると嬉しい」

「は、はあ」


 どうしてわたしなんかと仲良くしたいのか。美しく教養もある貴族のご令嬢を相手にする方が、よっぽど楽しいし有意義だと思うのだけれど。

 ああ、そうか。エアハルト様のような方からすれば、平民が物珍しいのかもしれない。


「それにしても可愛い女性の手作り料理とは、何とも羨ましい。リリアナ、君はあのジルヴェスターの為に、どんな料理を作ってやっているんだい?」

「別にブライル様だけの為に作っているわけではないのですけれど……」


 その時だった。

 奥の方の席から、テーブルを叩く音と言い争う声が聞こえたのは。店内が僅かに騒めく。しかし当の本人たちは、周囲の空気に気付いてないらしく、口論を続けている。


「何度も言いますが、僕は騎士にはなりません!」

「騎士が嫌なら文官になればいい」

「だから、そういう問題ではないと……!」


 どんな人が騒いでいるのか気になってしまったが、こんな高級な店に来るようなお客様だ。不敬になってしまうかもしれないから、あまり見ない方が良いだろう。

 けれど片方の声は、どこかで聞いたことがあるような……。


「おや、あれはリリアナと同じ研究所で働いている子ではないかい?」

「え!?」

「確かハイネン家の……」


 エアハルト様の言葉に慌てて振り返ると……本当だ! クリス先輩ではありませんか!

 クリス先輩が、正面に座る体格の良い厳つい顔をした男性を睨みつけている。反対に美しく可愛らしいクリス先輩の顔は、これでもかと歪められていた。しかし相手の男性は、少年の怒りなど物ともしていない様子で悠然と腕を組んでいる。


「話は終わりだ、クリスティアン。そんなに続けたければ、成果の一つでも上げてみろ」

「そんな! 僕はまだ見習いのようなものです。成果を上げるなんて……っ」

「言い訳は認めぬ。それができなければ、早々に騎士か文官の道に進め。良いな」

「待ってくださいっ、兄上!」


 兄上!? この厳つい男性が、クリス先輩のお兄さんだと!?

 突然突き付けられた真実に理解が追いつかないでいると、クリス先輩と同席していた男性が、大股で店を出て行こうとしているところだった。クリス先輩は慌てて立ち上がり、お兄さんを追いかける。しかしそれは思わぬところからの妨害によって叶わなかった。


「やあ、クリスティアン。珍しい場所で会うものだね」

「え、あ、エアハルト様!?」


 そう。エアハルト様が、いきなりクリス先輩の腕を掴んで止めたのだ。どうしてそんなことを!

 ああ、この人の思考が読めない。


「あれはヘンリックだね。こんな所で兄弟喧嘩かい?」

「す、すみません。五月蝿くしてしまって」

「楽しくお茶をしていたところだから、驚いてしまったよ。ねぇ?」


 にこやかに話しかけるエアハルト様に、クリス先輩も恐縮しっぱなしだ。そりゃあクリス先輩も、年上のお貴族様に呼び止められれば、無視するわけにはいかないだろう。

 というか、エアハルト様。わたしに振らないでほしいのですが!


「連れの方も本当に申し訳……リ、リリアナ・フローエ!?」


 ほらぁ! クリス先輩もわたしの存在に驚いているじゃないですかっ。せっかく身を縮めて隠れていたのに。


「き、奇遇ですね。クリス先輩」

「おおお前、何してるんだ!」

「何、と言われましても……お茶? でしょうか」

「お茶ってお前、何でエアハルト様と!」


 まあ、そうなりますよね。当事者のわたしでさえ、この状況を不思議に思っているのですから。


「まあまあ、誘ったのは私なんだから、あまりリリアナを責めないでやってくれないか」

「しかしですね……」


 何とか宥めようとするエアハルト様だけれど、それでもクリス先輩は納得していない様子だ。


「申し訳ありませんが、この女を連れ帰ってもよろしいでしょうか。まだ仕事の途中ということもありますし」

「ああ、そうだね。そろそろ戻らないとジルヴェスターがお腹を空かせて待っているかもしれない」


 夕食までまだ時間があるけれど、支度をするには戻った方が良い頃合だ。


「私が送ろうと思っていたのだけど、クリスティアン、君がいるならちょうどいい。リリアナと一緒に帰ってくれるかい?」

「もちろんです。エアハルト様に送らせるなど、とんでもない」


 クリス先輩がこうまで言うのだ。このエアハルト様という御方は、結構な地位にいるのかもしれない。

 そのエアハルト様がこちらを向いた。


「リリアナ」

「は、はいっ」

「さっきも言ったけれど、今後も仲良くしてもらえると嬉しい。それと次はもっとゆっくりとお茶をしよう」

「は、はぁ……」


 戸惑いながらも頷くと、エアハルト様は柔らかく微笑んだ。やっぱりこの人の考えが読めない。




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― 新着の感想 ―
[気になる点] 今更の指摘かと思いますが 「気が置けない」とは気遣いが要らないことなので逆の意味になるかと。
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