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第四十二話

 アヒムさんの腕を捻り上げていたのは、ブライル様と同じくらい長身の男性だった。

 すっきりと整えられた、艶のある朽葉色の髪。柔らかな水色の瞳。そして最近は見慣れつつある仕立ての良い服に、溢れ出ているように感じる気品。それを見て、とんでもなく嫌な予感がした。


「おい、離せよ!」

「ア、アヒムさん、落ち着いてください!」


 掴まれた腕をどうにか離そうと、アヒムさんはもがきながら男性に食ってかかる。その態度にギョッとしてしまう。

 わたしの推測では、おそらく彼は貴族だ。その推測が当たっていれば、アヒムさんのこの無礼な態度は非難されるかもしれない。貴族が皆、ブライル様たちのように寛大なわけではないのだ。


「申し訳ございませんっ。連れの非礼をお詫び致します」


 すぐさま深々と頭を下げる。別にアヒムさんは連れではないし、わたしが謝る必要もないのだけれど、なるべく男性を怒らせないように、この場を納めようとした。

 アヒムさんもわたしの謝る姿を見て、少し冷静になってきたらしい。自分が相手している人の立場に気付いたようだ。さっきの勢いが消え失せ、バツが悪いのか項垂れている。そんなわたしたちを眺めながら、男性は目を細めた。


「何故君が謝るのかな? 君はこの男に迫られ迷惑を被っていたのだろう?」

「め、迷惑というかですね……」

「そして私が困っている君を助けた。間違いないね?」

「ま、まぁ……」


 問われたことは間違いではないので曖昧に認めれば、男性は満足そうに頷いた。反対にアヒムさんは、わたしの返答にショックを受けているようだ。申し訳ない。


「では君はもう行きたまえ。いつまでも君がいれば、彼女が可哀想だ」


 無礼な態度は不問にするという意味も含めて男性に命じられたアヒムさん。しかしその言葉を振り切り、真剣な面持ちで再度わたしに向き直った。そのしつこさに、些かげんなりしてしまう。


「リリアナ、すまない。でも俺本当にお前が……」

「もうやめましょう、アヒムさん。わたしは何も聞かなかったことにしますから」


 結婚のことも、愛人だ妾だと言ってブライル様を侮辱したことも、すべてなかったことにする。そうはっきりと言えば、アヒムさんは悲しげに顔を曇らせ、唇を曲げた。それでもわたしが黙っていると、表情は変わらないままに去っていった。


 きっとすごく傷つけてしまったのだろう。商会の息子ということもあって、それなりに自尊心の高い人だろうから、断わられるなんて思ってもなかったのかもしれない。

 だけど彼には恋愛感情が持てる気がしないのだ。それにそもそもわたしは、誰とも結婚する気がない。

 

 自分が作り出した微妙な空気に気付き、慌てて顔を上げる。すると男性の優しげな微笑みが目に入った。


「さて、お嬢さん。大丈夫だったかな? ゴミ虫のような男は追い払ってやったよ」

「え、あ、はい。ゴミ虫ではありませんが、ありがとうございました」


 その高貴さと笑顔にまったく似合わない単語が出てきたことに驚く。ゴミ虫って……貴族からは平民がそう見えているのかしら。だったらわたしもその中の一匹なのだけれど。


「いや、感謝の言葉は必要ない。代わりに、そうだな……お茶にでも付き合ってもらおうか」

「は?」

「私と一緒にお茶を飲むだけだよ。難しいことではないだろう?」

「で、でもわたしもそろそろ戻りませんと。このあとも仕事があるのです。職場の主人が心配しているかもしれませんし……」


 いくら断る為の方便とはいえ、現実では有り得ないことを言ってしまい、落ち込んでしまう。ブライル様がわたしを心配などする筈がないではないか。


「では私が君の主人の元に赴いて、此度の事情を説明しよう。それとも少し戻るのが遅くなったくらいで怒り狂う主人なのかな?」

「そんなことはありませんが……」


 きちんと仕事さえしていれば、空いた時間を何に使おうと怒る御方ではない。

 だけど、いくらこの男性が貴族だろうが、研究所に知らない人を勝手に連れて行くわけにはいかない。それにブライル様との関係が微妙な今は尚更だ。


「わかりました。少しで良いのならお付き合い致します。但し、わたしの主人にお会いしていただくのは結構です。寛大な御方なので、これくらいで咎められることはありません」


 面倒なことは考えなくてもいい。帰りが遅くなっても、その分作業の速度を上げれば済むだけの話である。


「話が早くて良かった。私も君に無理なお願いをしなくて済んだしね。では行こうか」


 暗にこれ以上わたしがゴネたら命令するつもりだったと言われた。さすがお貴族様だ。

 そして当たり前のように大通りに向かう男性を見て、げんなりしてしまった。わたしは何度平民と丸わかりの格好で、大通りの店に足を踏み入れるのだろうか。

 先日ブライル様が服を買ってくれると言っていたが、あの話自体もなくなる可能性もある。なのでこれまでに貯めた給金を使って、自分で用意した方が良いだろう。

 とうに流行りの過ぎた古着でも、一着くらいならわたしの貯金でなんとか買えるかもしれない。

 そんなことを考えながら、男性の後ろを付いていく。


「どうぞ、お嬢さん」


 いつも間にか目的地に到着していたらしく、男性はドアを開けて、自然とエスコートしてくれていた。それに対して「どうも」と、軽く頭を下げ、店の中に入る。

 そこは甘いお菓子をメインに出すカフェではなく、お茶や軽食、少しならお酒も置いてあるような店だった。客層も、圧倒的に女性が多いカフェと比べ、男性の比率が高いので雰囲気も落ち着いている。

 あのお嬢様たちの不躾な視線に晒されることは少なそうなので、そこは僅かながらに安堵した。もしかして、そういうことも考えて店を選んでくれたのだろうか。いや、単に甘いお菓子に興味がないだけかもしれない。


 お客さんはそれなりに入っているのに、テーブルの間隔が広い為、混雑しているようには感じない。こういうところからして、庶民向けの店とは違うようだ。


 給仕係に案内されて、席に着く。その給仕係も、わたしを見た瞬間、一瞬だけ目の奥に怪訝そうな色を浮かべたけれど、お貴族様と思わしき男性が一緒なので笑顔は崩されなかった。プロフェッショナルである。

 しかもこういう場合、普通なら男性の方にだけメニューを差し出すのだろうけど、彼がわたしを恭しくエスコートする様子を見ていたようで、わたしにもメニューを渡してくれた。もちろん値段が入っていない物をである。

 やはりこの給仕係にも、愛人や妾などと思われているのだろうか。


「お腹は空いていないかい?」

「ええ、大丈夫です」

「遠慮はしなくていいよ」


 どこに初対面の、しかも貴族らしき人と対面していて、呑気に食事ができる平民がいるというのだ。わたしはそこまで豪胆ではない。

 注文を済ませしばらく待つと、香りの良いお茶が運ばれてきた。そしてその横には軽く摘めるチョコレートが付いている。もう一度言おう。チョコレートである。


「あ、あの、お茶しか頼んでいないのに、こんな物を出されたのですけれど……っ」


 見窄らしい平民を連れていると思われないよう、なるべく興奮を抑え小声で話す。


「ああ、店からのサービスだよ。チョコレートは初めてかい?」

「も、もちろんですっ。だってチョコレートですよ!

 贅沢品じゃないですか。この一粒でパンがいくつ買えることか……っ」


 一口でなくなってしまう小さなチョコレートより、貧しい生活を送っている者なら、言うまでもなく数日の食料になるパンを選ぶだろう。


「なら、私の分もお食べ」

「え!?」


 良い人だ! と、思った途端、以前ブライル様に言われた言葉を思い出した。



 ーー美味いものを食わせてやると言われれば、ひょこひょこ誰にでも付いて行きそうだーー



 別に食べ物が目当てで付いてきたわけではないけれど、たったチョコレート数粒でこの男性を良い人だと思ってしまったことに間違いはない。

 ブライル様は、わたしのこういうところを見抜いていたのかもしれない。うう、反省せねば……。


「どうした、食べないのかい?」

「いえ、いただきます」


 だとしても、このチョコレートに罪はない。




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