第四十一話
ブライル様は、あの後ご自宅に帰られたらしく、いつもの勉強も、ましてや謝る機会などなかった。
一人きりの屋敷で一晩考えたけれど、色んな気持ちが入り混じって、たいして頭が働かない。
そもそも、ルディウス様が何かを仕掛けてくると決まったわけではないのだ。今から難しく考えていても、仕方ないではないか。
そして翌日。モヤモヤした気分で目を覚ました。
朝はブライル様と一緒になることはなかったので、昼食の際にでも話をさせてもらおうと思ったのだけれど、そんな雰囲気は微塵もなかった。
こちらからおそるおそる話しかけてみたが、簡単な返事はあるものの、一切目を合わせてくれないのだ。わたしの勇気だの決心だのが、ボキボキと折れてしまったのは言うまでもない。
午前の仕事を終え、活気ある市場に向かったけれど、やっぱりモヤモヤが消えない。
こうなったら思いっきり高い食材を買って、思いっきり豪華なごはんを作ってやろうかしら。そうすればブライル様の機嫌も良くなるかもしれないし。
だけどその材料を買う経費だって、ブライル様が払っているのだ。わたしがいくら使ったところで、あの人の懐は少しも痛まないのだろうけれど。
「馬鹿らし……」
そんなことをしても胸はすかないし、罪悪感が募るばかりだ。
結局、いつもと変わらないメニューに決めた。そしていつもと同じ店に立ち寄る。
すると先日からずっと仕事を休んでいたおばさんが、久しぶりに店に出ていた。
「おばさん。身体は大丈夫なの? 調子が悪いって聞いたけど」
「ああ、どうも胸が痛くてね。今も騙し騙し仕事してるんだよ」
「無茶しちゃダメよ。お医者さんにはかかったの?」
「ハハハ! こんな貧乏人に、医者へ行く金があるわけないだろう」
「じゃあせめて薬だけでも」
「一応薬師の所で薬は買ったんだけどねぇ、大して効きやしないよ」
城下にも、ちゃんと薬師がいる。けれどその薬師は平民なので、魔法薬は作れない。魔物もいる魔素の濃い地域に行ける筈もなく、結果近くの森などに生えている、効果の薄い薬草を使った薬しか作れないのだ。
「この店も潮時かねぇ」
愛おしそうに店の柱を撫でるおばさんの言葉が切ない。でもお金のない平民は、これが普通なのである。
病気や怪我をしても、満足に医者にもかかれない。そして薬自体も効き目が悪いから、自然治癒力に頼るしかない。それでも治らなければ、あとはそれと付き合っていくしかないのだ。
おばさんのこと、ブライル様に相談してみようかしら。だけど彼からすれば、関係ない話だし。それに今はちょっと気まずいし。
そんなことを考えて歩いていると、突然後ろから腕を掴まれた。
「きゃっ」
「リリアナ!」
「……アヒムさん」
「あれからお前を探してたんだぞ」
振り返れば、顔を上気させたアヒムさんがいた。少し前に、市場で再会した「元お客さん」だ。
あの時は店に戻ってこいとアヒムさんに言われて、断わろうとしたのだっけ。その後ブライル様が間に入ってくれて、逆に面倒なことになったけれど。
ブライル様の「私のもの」発言や、手を握られたことに混乱したのを覚えている。彼のああいうスキンシップ強めの言動が、わたしを増長させたのではないだろうか。よし、もう騙されないぞ!
「今日は一人なのか?」
「え、ええ」
「じゃあ、どこかで茶でも飲まないか。話があるんだ」
わたしをどこかに連れ出そうとするアヒムさんを見て、何故だか嫌な予感がした。
「ここで大丈夫よ」
「いや、大事な話なんだ」
熱心に誘ってくるが、どうしてだか付いていく気にならない。なので、市場から出たところにある、ちょっとした物陰に移動した。ここなら静かだし、すぐに市場へ戻れる。
「この前は悪かったわ。急に帰ったりして、ごめんなさい」
「それは別に構わないさ。お前が悪いわけじゃない。あの男に連れ去られたようなものなんだから」
そうだ。ブライル様がわたしを連れ出して、勝手に話を終わらせたのだ。まあそれで助かったのだけれど。
しかしその後、何故か怒られたのだ。アヒムさんに手を握られていたこととか、その他諸々について。じゃあブライル様自身はどうなるのだ、と問いたかったが、答えが怖くて結局訊けなかった。
というか、さっきからわたしはブライル様のことばかり考えている。アヒムさんが話があるって言っているのに、ちょっと失礼だ。でも早く帰りたいな。
「リリアナ、お前、あの男の所にいるんだよな」
「そうよ」
「それは愛人の立場でか?」
「は?」
愛人?
話があると引き留められ、なのにいきなりわたしは愛人呼ばわりされているのだろうか? アヒムさんの方が、よっぽど失礼だ。
それにブライル様はまだ独り身だから、誰かとお付き合いしても愛人にはならりません。
「だってお前、二号呼ばわりされていたじゃないか」
「違うわ。あれはそんな意味じゃないの」
ただの二番弟子っていうだけだから。
でも確かに「二号」という呼び方は、誤解を招くおそれがある。ブライル様には、次から「二番」って呼んでもらおうかしら。
わたしが愛人呼ばわりを否定すると、アヒムさんはホッと息を吐いた。そして先ほどよりずっと真剣な目をして、わたしの肩を掴んだ。真剣過ぎて、痛いくらいだ。
「だったら俺のことを考えてくれないか」
「どういうこと?」
「俺と結婚してほしいって言ってるんだ」
結婚? わたしとアヒムさんが?
「え、無理よ」
咄嗟にその言葉が出てしまった。
瞬間、アヒムさんの目がつり上がったのがわかった。
「だってわたしたち、そんな関係じゃないでしょう。ただの店員とお客さんだわ」
「それはわかってる。だからリリアナに、結婚を前提とした交際を申し込んでるんだ」
「だから無理なの。アヒムさんをそんな風に見たことないの」
あの店にはたくさんお客さんがいたけれど、わたしの中でその人たちとアヒムさんは何も変わらない。どう良い風に見ても、おじさんの料理を好いてくれる良い人にしかならない。
「ならば、たった今からそういう風に見てくれ」
「そんな無茶な……」
「それとも他に好きな奴がいるのか?」
「……す、好きって」
そう言われて、咄嗟にブライル様の顔が浮かんだ。何故、今!? そうだ、さっきまで彼のことばかり考えていたからかもしれない。
「もしかして、あの男か?」
「ち、違うわ! ブライル様はそんなのじゃない」
言い当てられて、ギョッとする。頭の中を覗かれたみたいだ。
そんなわたしの反応を見て、アヒムさんは図星と考えたのだろう。肩を掴んだ手に、益々力が入る。
「彼奴、貴族だろ? 平民のお前なんて、妾にさえしてもらえないぞ。遊ばれて、要らないと思えば捨てられるだけだ」
「だから違うってば!」
「俺だったら、リリアナだけを愛するって誓う。それなりに贅沢だってさせてやれる」
「そんなもの要らないわ。わたしはあの方の仕事の手伝いができて、あの方に料理も作れる今の環境に満足しているの。だから離して!」
アヒムさんの手を引き剥がそうと必死にもがくが、女のわたしではビクともしない。男と女では、こんなにも力の差があるのだ。
どうしてこんな酷いことを言われなければならないのだろう。わたしはただ普通に生きたいだけなのに。仕事をして、ごはんを作って、皆がそれを食べてくれて、それを嬉しく思って毎日笑って過ごせればいい。
わたしはブライル様の近くにいるだけで、こんな嫌なことを言われて続けるのだろうか。そう思うと、なんだか悲しくなってきた。
すると突然、わたしの後ろから一本の腕が伸びてきた。そしてアヒムさんの手を掴むと、簡単に捻り上げてしまった。
「い、痛え!」
「嫌がっている淑女に、無理を働くのは感心しないな」
驚いて振り向くと、そこにいたのは……
「だ、誰だ、お前!?」
まったく知らない人でした。
本当に誰?




