第十九話
片付けも終わり、あとはもう寝るだけだ。でもその前に軽く身を清めたい。
「ブライル様。たらいを持ってきたのですけど、汗を流されますか?」
「たらい?」
ブライル様の前で、少し大きめのそれを掲げる。
これは、わたしが一人で暮らしていた時に使っていた物であり、いつかまた使う時が来るかもしれないと、研究所に引っ越してきた時に持ってきていたのだ。そうして早速その時が来た。
いくらブライル様に不自由はさせられないと思っていても、さすがにお風呂は用意出来ない。なので今回はこのたらいで勘弁願いたい。
「私は後で良い。お前が先に使え」
「えっ!? あ、そうか!」
「どうした」
「い、いえ、別に……」
「何だ、はっきり言え」
「だ、だから何でもないと……」
もごもごと口籠もっていると、目の前で不審げに眉を寄せられた。
違うのです。違わないけど、違うのです。
この場で自分が身を清めるとなれば、その近くにブライル様もいらっしゃるということに、今考えが至ったのです。本当に、たった今。
不自然な言動にピンときたのか、ブライル様はその綺麗なお顔でとんでもないことを言い放った。
「安心しろ。覗く趣味はない」
「ののの、覗くって!」
べ、別にお風呂みたいに全部脱がなくても良いし、馬車の影に隠れて手早く済ませば、何も問題はないし。
そもそもブライル様が覗くなんて考えてないし!
ただ、いくら見えないといえど、男性のいる場所ではさすがに……。
「人前で自ら服を捲り上げておきながら、汗を流すくらいでよく恥ずかしがれるものだ」
「ですから、あれはショースを履いていたからだと……!」
足を出すのと胸やら何やらを晒すのとは違うという思いを込めて反論してみたが、ブライル様は何の興味もなさそうに剣の手入れを始めた。
確かに旅の途中では仕方ないことだ。嫌がっていては汗を流せない。
それにわたしだってこういった経験がないわけではない。子供の頃は、家の前で全裸になって近所の子供たちと一緒に水浴びをしていたのだから。
それに旅をした時だって、知らない人のいる近くで汗を流した。その時はもう一人いた女性と交代で見張りをしていたのだけれど。
だけどここには女はわたししか居ないのだからしょうがない。しょうがないのだ。
パッと体を拭って、パッと終わらそう。そう決めて、馬車の裏に駆け込む。
しかしその影は焚き火の明かりが届かなく、薄暗い。しかも目の前には暗闇の森が広がっている。途端に怖くなってしまい、結局「ブライル様居ますかー!?」と、声をかけながらの入浴となった。
「一体何なんだ、お前は」
烏の行水ながらもさっぱりして出てきたわたしに、ブライル様が呆れた視線を投げかけてくる。
「女らしくしろと言えば文句を言い、汗を流せと言えば恥ずかしがる。しかもその最中、ずっと声をかけてきて。入浴中に男に声をかけるなど、ふしだらだと思われても当然な行為だぞ」
「だって仕方ないじゃないですか。怖いものは怖いのです。ブライル様もあの暗闇を前にすればわかります」
またしても呆れた顔で溜め息を吐いたブライル様は、馬車の荷台から、簡易の灯りを一つ取り出してわたしに寄越した。
「明日からはこれを使え」
「……何でもっと早く出してくれなかったんですか」
「その前にお前が走って行ったのだろう。入浴中の女性に声をかけるなど、その気もないのに出来るものか」
「だ、だけど二人しか居ないのだから、そこは協力と思いやりの心を持ってですね……」
「二人しか居ないから配慮してやったのだ。ああ、お前がそんなに欲しかったのなら、今からでも出してやろうか、その気を」
「い、いいえ結構です! ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでしたっ」
なな何だ、その気って!?
それにその顔から突然色気を垂れ流さないでほしい。心臓に悪いのですっ。
慌てて視線を外し、その場の雰囲気から逃げるようにお茶の用意をする。騒つく心を落ち着かせる為に、そして一応寝る前だからとハーブティーを淹れた。
そして次に振り返ると、ブライル様は何事もなかったように剣の手入れを続けていた。本当に何なんだ、この人は。
「そういえば、今日お前が寄りたいと言った村があるだろう」
「村ですか? ああはい、お願いしましたね」
「お前はあの村に行ったことがあるのか?」
「いいえ、初めてですけど。どうしてですか?」
香りの良いハーブティーを飲みながら、いきなりそんな質問をしてきたブライル様に首を傾げる。
「そうだな。村に入った時、何とも言えない顔をしていただろう?」
「……そんな変な顔してましたか?」
「ああ、何処かいつもと違う。不思議とそう感じたのだ」
変な顔なのは否定してくれないのですね。自分の顔くらい知ってるから良いですけど。
しかし意外に観察力のあるブライル様に、少しだけ驚いた。確かにあの時、何とも言えない気持ちになったからだ。
「ちょっと故郷を思い出しただけです。わたしの育った村もあんな感じだったので」
「お前の故郷か。そこはベルムから遠いのか?」
「そうですね、馬車で二週間くらいでしょうか」
野を越え山を越え行った先にある小さな村だ。おそらく普通の地図にも載ってはいないかもしれない。
「二週間とはかなり離れているな。女性の身でその距離は大変だったろう」
「村から出てきたのはわたし一人ですけど、乗り合い馬車だったので、知り合いはいなくともどうにかなりました」
先程思い出していたのは、この旅のことだ。村から一番近い町に出て、そこからベルム行きの乗り合い馬車を使った。
一番近い町に出るのは、時々村に来る行商の人に頼み込んで、どうにか連れて行ってもらえた。
「故郷に帰りたいとは思わないのか?」
「え?」
「若い女性が王都で一人生活するのはとても大変だと思う。村だと仕事は少ないだろうが、故郷の方が家族もいるし良いのではないか?」
確かに生活は大変だった。
働いていた料理店はそれなりに値段もしたが、それは良い食材を使っていたからだ。店主であるおじさんのモットーは『すこぶる美味い料理をなるべく安く』だった。なので儲けはそれほど多くない。だからわたしの給金も決して多いとは言えなかった。
給金を渡す度、おじさんとおばさんが申し訳なさそうにしていたのを、今更ながらに思い出す。
「……そう、ですね。でも前の職場のおじさんとおばさんはとても良い人でしたし、今の生活もそれなりに気に入っていますので、帰るつもりはありません」
「そうか、ならば良いのだ」
何が良いのかわからないけれど、ブライル様が納得されたのなら問題ない。
そこで話も終わったのか、もう寝ろ、と言われた。
「え、でも見張りが必要でしょう? わたしは移動中に休めますので、ブライル様が寝てください。一日馬車を走らせて、ずいぶんお疲れでしょうし」
「そういうわけにはいくまい。女性を見張りにして休むなど……」
そういうわけにいかないのは、こっちの方だ。ブライル様にちゃんと休んでもらわなくては、明日からの予定が狂うではないか。
「ならば交代にしましょう。わたしが先に見張りをしますので、ブライル様はその間に休んでください。三時間経てば起こしますから、その次はお願いします」
明日までに馬車の操縦を覚えれれば良いのだけれど、翌日からは更に山深い場所を通るらしいので、そんな場所は特に無理だろう。だからわたしに出来ることといえば、ブライル様に少しでも長く休んでもらうくらいだ。
「それではお前の負担が大きいだろう」
「大丈夫です。わたしは食事の支度や色々とすることがありますので、見張りのついでにそれらを済ませれば一石二鳥というものです」
頑なにそう言えば、渋々ながらも了承してくれた。
「良いか? 少しでも何かあれば、すぐに声を上げるのだぞ」
「はいはい、わかりました。おやすみなさい」
ブライル様は、寝る直前まで口煩い。
こうして一日目の夜は、賑やかなのか静かなのかわからないうちに更けていった。




