第5話
店舗の奥の洗面室を出て、オープンテラスで座る彼女のテーブルに戻ろうとしていると。
物の壊れる音と複数の悲鳴が聞こえた。
午後の太陽に照らされた明るいオープンテラスが大混乱に陥っていた。中型のコンテナトラックが生垣を突き破って店内に侵入してきたらしい。砕けたテーブル、壊れた椅子、床に倒れたケガ人などが僕の視界に飛び込んできた。
悲鳴をあげて逃げ惑う客たちの只中に、ショットガンを構えた三人の男の姿があった。
「てめぇらみんな 『祝祭日』の生贄だ! 光栄に思いやがれ!!」
「さすがは気取った店だけあって、上玉揃いだぜ」
「足腰立たなくなるまで●◎●しまくってやるぜ。覚悟しな!」
わめきちらしながら、女の客を捕らえては、トラックのコンテナに次々と押し込んでいく。連れの男が反撃しようとすると、一瞬で撃ち倒される。死体。血の海。辺りは地獄絵図と化しつつある。
衝撃と恐怖でその場に凍りついた僕の頭を、昨夜の署長の言葉がよぎった。
「明日は《セメスト》の『祝祭日』だ。普段より多くの凶悪犯罪の発生が予想される……」
まさに、僕の目の前で起きているのが、その「凶悪犯罪」だ。
銃を乱射し、女たちをコンテナに連れ込んでいるこの三人組は、まちがいなく《セメスト》の構成員だろう。市警本部ビルにこんなに近い目抜き通りでの凶行は、市警に対する一種の挑戦とも言える。
もし署長なら。あんな連中、一瞬で皆殺しだ。どこへ行くのにも常に携帯している大出力レイガンで(僕がチューンアップした特別製だ。規制上限を超えて出力を上げてあるので照準が安定せず、使いこなせるのは署長ぐらいのものだ)。
でも、この僕は。警察官といっても内勤の研究職だから銃なんか携帯してないし、たとえ持っていたとしても使えない。ギャングどもが市民を踏みにじっているのを目の前にしても、黙って震えているしかないんだ。
僕の怯えた瞳が、逃げまどう人々の中に、ジュディスをみつけた。
ジュディスは恐怖に顔を歪めながらも、逃げようとせずにその場に立ち、辺りを見回していた。僕を探しているのかもしれない。
ギャングのうちの一人が、背後から彼女の腕をとらえた。
トラックに向かって引きずられながら、彼女は暴れた。悲鳴が離れた僕のところまで聞こえた。
――視界が、ぐにゃりと歪んだ。世界が瞬間無音となった。僕の体から体重が喪失した。
考える前に、僕はジュディスとギャングに駆け寄っていた。
「待て! 待ってくれ! その人はだめだ……やめろ! 誘拐するなら、代わりに僕をさらってくれ!」
僕は声を限りに叫んだ。
「僕の親は資産家だ。身代金がとれるぞ?」
ギャングたちが三人とも、興味をひかれたように僕を眺めた。
親が資産家というのは真っ赤な嘘だ――僕の両親は平凡な勤め人に過ぎない。資産を持っているのは僕自身だ。特許収入のおかげで金はある。今日はジュディスに会うために、高級店で仕立てたスーツを着て来たし、小物も靴も最高に金のかかった物を身につけている。僕の風体を見て、ギャングたちは僕が裕福な家の生まれだと納得したらしかった。
男の一人が僕をつかんでコンテナの口へ引きずり始めた。
「待ってくれよ……話が違う。僕を誘拐するんなら、彼女は放してくれ!」
僕の口から悲鳴に近い声が飛び出した。ジュディスが抵抗むなしく、あっさりコンテナの中へ放り込まれるのが見えたからだ。
僕を捕らえている男がせせら笑った。
「そんな約束はした覚えがねえなー、お坊ちゃん」
僕は激しく暴れた。怒りと絶望で泣きそうだった。
パトカーのサイレンが近づいてくる。
僕は非力で訓練も受けていないが、ウェイトだけはある。それで何とか、時間稼ぎぐらいはできないだろうか。
相手の男の腰に懸命にむしゃぶりついて抵抗した。
別の男がやって来て、後ろから僕の襟首をつかんだ。
僕は二人がかりで引きずられ、コンテナへ放り込まれた。
薄暗いコンテナ内にはすでに十五、六人の女たちがいた。泣いている女もいるし、怪我をしている女もいる。圧倒的な恐怖の表情が共通している。
四つんばいになった僕がまだ立ち上がれずにいるうちに、僕の背後でコンテナの扉が閉じられ、辺りは真っ暗になった。床がぐらりと揺れ、加速度がかかった。トラックが発車したんだろう。女たちの泣き声が高まった。
誘拐された女たちがどんな目に遭うのかは明白だ。さっきあんなにもはっきりと犯人自身がわめき立てていたから。
ジュディスが――ジュディスがそんな目に遭わされるなんて――!
逆方向に、さっきより激しいGがかかった。立っていた女たちが倒れる音がした。僕たちは床を転がり、コンテナの壁にぶつかった。暗闇の中で響く悲鳴。
トラックが急停止したのだ。
女たちと僕は暗いコンテナの中でじっとうずくまり、近づいてきて僕らを取り囲むパトカーのサイレンに耳を傾けていた。
突如、コンテナの扉が開かれた。
まばゆい光が流れ込んできて、眼がくらんだ。
大勢の人間がどかどかと乗り込んでくる気配がした。僕が明順応を終えた頃にはすでに、武装した警官とヘルメット姿の救急隊員とでコンテナ内は埋め尽くされていた。女たちが一人ずつ、救急隊員に助けられながらコンテナを降りて行く。僕も降ろされた。
戸外は混乱の極みだった。
僕らの乗っていたトラックは、凱旋門の右端の柱の台座にぶつかって止まっていた。それを取り囲むように数台のパトカーや救急車が停まり、ちょっとした広場状の空間を作っているので、凱旋門通りは完全に封鎖された形になっている。救急車の壁の向こうに大変な交通渋滞が展開していた。
僕は少し先を歩くジュディスをみつけ、頼りない足を踏みしめて駆け寄った。
「ジュディス! 大丈夫かい!?」
彼女は振り返った。こちらを見て、泣いているみたいな笑顔になる。そんなくしゃくしゃの表情が童顔の彼女をさらに幼く見せた。
「大丈夫だけど……怖かった……!」
「車が急停止したときに頭をぶつけたみたいだね。救急車に乗せてもらって病院へ行った方がいいよ。何かあるといけないから」
彼女の広い額に一筋の切り傷があって、血がにじんでいる。
それをぬぐってやりたくて、僕はハンカチを探すために反射的にポケットに手を突っ込んだ。ポケットは空だった。その空っぽの感触が、あえて考えないようにしていた事、記憶の底に無理に押し込めようと努力していた事を、一気に意識の表層へ引きずり出した。
僕は戦慄し、立ちすくんだ。
凱旋門の台座に衝突して変形したトラックの運転席が、ちょうど真正面に見える。低速での衝突だったため破損はさほどひどくない。乗客を保護するためのエアバッグや緩衝フォームなどで埋め尽くされた中で、三人のギャングが並んで死んでいた。
彼らは塗料で染め上げられたかのように真っ赤だ。全身の皮膚が破れ、血に覆われているためだ。体中の穴という穴から液体が垂れ出しているはずだった。両目をカッと見開いたままの死に顔は激しく歪み、断末魔のすさまじい苦痛が永遠に刻みつけられていた。
――昨夜完成させたばかりの毒ガス散布ハンカチ。たまたまポケットに入っていたそれを、僕はギャングたちと言葉を交わしながら取り出して、開いたのだ。そしてギャングの腰にむしゃぶりついた時に、その男のズボンの背中側のベルトに差し込んだ。
男はハンカチに気づかないままトラックに乗り込んだ。
そして二分後、猛毒のアンゴウルガスが運転席に充満したというわけだ。運転手が死亡し、トラックは凱旋門に突っ込んだ。
あ。なんだろ。胸がむかむかする。
そう意識した次の瞬間、猛烈な勢いで吐瀉物が消化器を逆流してきて口内を満たした。そしてそのまま勢いよく口から噴出した。立っていられなくなった僕は路上にうずくまり、とぷとぷと吐き続けた。ジュディスがすぐそばにいるのに、みっともない。だけど嘔吐は自分の意志では止められない。
僕の目に涙がにじんだ。半分は、生理的な涙。残りの半分は、いろいろな感情が詰まった涙だ。
――この手で人を殺した。明確な意志をもって。
僕はこれまで武器の開発を趣味としてきた。人間にむごたらしい死を与えるための残虐な武器を作り出すことに、快楽さえ覚えていた。周囲は僕を血に飢えた危ない奴だと評価し、僕自身もそう信じていた。世の中には無数の毒ガスがあるのに、今回のハンカチにわざわざアンゴウルガスを使ったのだって、そうだ。死に方が特に汚らしくて残酷だから、アンゴウルガスをセレクトしたのだ。純然たる趣味で。
僕はぜんぜんわかっていなかった。実験室で人の殺し方を空想するのと、実際に手を下して人を死に至らしめるのとは、まったくの別物だ。僕は残虐ぶって喜んでいただけのガキだった。たとえ悪人であっても、人の命を奪ってしまったという事実は――こんなにも重くて苦しい。まるで自分という人間が根こそぎ変質を遂げて別物になってしまったみたいだ。そして僕の弱い心は、その重みに全力で悲鳴をあげている。
胃の中が空になり、嘔吐が止まってからも、僕はしばらく四つんばいになったまま自分の吐いた物をぼんやりと眺めていた。嘔吐は止まったが涙は止まらない。激しい感情を伴わないまま、ただ淡々と流れ続ける。
どれだけの時間が経ったんだろう――。
「大丈夫ですか。立てますか」
無骨な男の声がすぐそばで響き、僕はがばっと顔を上げた。二人の救急隊員が僕を見下ろしていた。いつの間にかジュディスの姿は消えていた。
周囲を見回してみる。怪我人はあらかた病院へ搬送された後で、今は死体の搬出、現場の記録、壊れた車や物品の回収などが同時に進行していた。僕は歩いて市警本部に戻ることにした。今はただ、一人きりになれる時間が欲しかった。
**********
時刻は夕方に近づいてきていた。科研の僕のオフィスは、窓から差し込む夕日で黄色っぽく照らし出されていた。一人になりたくて自分のオフィスに戻ったのに、カイトウ署長が僕のデスクを占領して仕事の真っ最中だった。デスクトップにモーリーンおばさんの顔が大写しになり、あいかわらず女教師みたいにガミガミと怒鳴っている。
「大変だったようだな、博士。報告は受けてる」
秘書との通信を一時中断して、署長は僕に声をかけた。
「顔色が良くないぞ。今日はもう帰ったらどうだ?」
「……」
僕はオフィスの隅のカップボードを開けて、打ちのめされた心を浮上させてくれそうな薬を探した。カップボードは署の医務室よりはるかに充実した各種薬物の貯蔵庫となっている(大きな声では言えないが、一部非合法な薬物も含まれている)。瓶のラベルを順に見ていく――おかしいな。僕の薬物コレクションはこんなものか? もっとあれこれ充実していたような気がしていたのに。今の僕にほんのちょっとでも役立ちそうな薬が、ひとつも見当たらない。
「……署長。いい加減に、そろそろトワーク氏に会ってあげてください。あの方とのアポイント、何度すっぽかしたら気が済むんです? 今日だって、別にあなたが行く必要もなかったのに、わざわざ突入現場に乗り込んで行って……!」
小言を並べたてる秘書との通話を、署長がすがすがしいほど潔く強制切断すると、不意にオフィスが静かになった。
僕は薬による救済をあきらめて、ソファに身を沈めた。ひとりでに深い吐息が漏れる。
ぐるぐる空回りし過ぎて熱を持っている頭を、手のひらで包み込んだ。現実を遮断しようと目を閉じてみた。
僕が殺した男たちの顔が瞼の裏に浮かび上がり、事態はまったく改善しなかった。
僕が目を開けると、署長が仕事の手を休めて、まじめな顔でこちらをみつめていた。
「ねえ」
僕の声はしわがれていて、まるで自分の声じゃないみたいだ。
「僕って天才科学者だからさー、観察眼に優れてるし、記憶力もものすごく良いんだよねー。だから、あいつらの死に顔が、細かい所まではっきりと記憶に焼きついちゃった。それはもう、ありありと。困ったことに、もう二度と忘れられそうにないや」
泣き出しそうになったけど、さすがにそれはこらえた。社会性に乏しい僕にだって、その程度のスキルはある。
「教えてくれよ、署長。自分の手で殺した人間の顔を、どうやったら忘れられる?」
少し語尾が震えるだけで済んだ。
署長はしばらく答えなかった。何でも瞬時に即答するこの人にしては、珍しいことだった。室内が薄暗くなってきたのを検知して、天井のLEが自動点灯した。白々しい人工的な光の下、無言で視線を交わす僕らはたぶん、分不相応に強大な力を与えられて戸惑う二人の子供なのだ。優秀すぎる頭脳。大きすぎる権限と責任。取り返しのつかない結果。ようやく返ってきた署長の答えは、いつもと同じく、きっぱりしたものだった。
「そんなもの、忘れる方法なんてない」
「……」
僕は黙って相手を見返した。署長は肩をすくめた。
「忘れられなくて苦しいんなら。もし自分が殺さなかったとすればどうなっていたかを想像してみることだな。そうすれば少しは楽になるかもしれない。……今日のきみの行動は勇敢だった。見直したよ、博士。きみは大勢を救ったんだ」
褒めないでくれよ。
余計に泣きたくなる。