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第4話

 その日、僕は普段より一時間も早く出勤した。


 署長室に陣取り、ジュディスが来るのを待った。


 秘書のモーリーンおばさんが署長宛ての電話を一切シャットアウトしてくれることになっている。僕は今日、この部屋でだれにも邪魔されずに彼女と過ごせるわけだ。


 それにしてもこの部屋は見晴らしが良いよなー。窓の面積が圧倒的に広いし、そもそも七十七階だという時点で、四十二階にある僕のオフィスとは景色がずいぶん違う。官庁街の超高層建物群の向こうに、王宮の屋根まではっきり見て取れる。やっぱり組織のトップに立つってのは、いいもんだな。僕もまじめに目指してみようか。

 などと考えていると、デスクトップから来客を示すブザーが鳴った。


 僕がまだ心の準備ができていないうちに、扉が開いてジュディスが入ってきた。


 ジュディスは初めて見た日と違って、動きやすそうなパンツルックで現れた。脚線美が鑑賞できなくて残念だが……ベージュ色のニットのセーターが、おっぱいのやわらかいボリュームを猛烈に強調している。


 やばい。パワフルな丸いふくらみから目が離せない。こんなに食い入るようにみつめたら変態だと思われてしまう。頭の中は真っ白だ。今、口を開いたら、思わず「おっぱい」とか言ってしまいそうだ。


 僕は持てるかぎりの自制心を発揮して視線を乳から引き剥がし、彼女の顔へ移動させた。


 ジュディスはあっけにとられたように目を丸くして僕をみつめていた。


「あのぉ……あなたは、どなたですか?」


 そりゃあ、そうだよね。それが正しい反応だ。


 僕はすかさず自分の役目を思い出し、できるだけ平然とした態度を装って彼女に微笑みかけた。


「カイトウですよ。驚いたでしょう? 変装していないときの僕は、こんな感じなんです」


 手首につけたブレスレットを彼女に示し、生体パターンをモニタリングされている本人であることをアピールする。


 ジュディスは警戒心が解けない様子で、固まっている。まあ、スマートで颯爽とした署長と、チビでデブで不細工な僕とが同一人物だと言われたら、すぐに信じられないのは当然だ。


 僕は自信たっぷりに言葉を継いだ。


「犯罪抑止のために『強くて情け知らずな鬼署長』というイメージを打ち出すことが効果的だと考えたので、外へ出るときは、いつも昨日みたいな変装をしているんです。髪や目の色も容貌も……心理学者の実施した人間の意識調査に基づいて、最も冷酷非情な印象を与えるものをセレクトしました。本当の僕は、こんなのですから……これじゃとても犯罪者に威圧感を与えられないでしょう? 専門家の助言を受けて、変装には工夫に工夫を重ねているんですよ。外見やイメージって重要ですからね」


 昨夜ほとんど寝ずに考えた口上を、すらすらと並べ立てた。


「変装……ですか。あれが……?」


 呆然とつぶやくジュディス。

 でも僕は彼女の心が動き始めているのを感じることができた。


「メイクやウィッグやカラーコンタクト。身長を変えるための特殊な靴や、体形を補正するためのコルセット。そういう簡単な小道具だけではなく、最新の生化学の成果も存分に取り入れています。例えばファルマ・ウィーグルの『VCG29』は、声の響きを変える効果がありますし、カールトン・コスメティクスの『ネーヴィッド』を使えば、皮膚の色つやだけでなく顔の大きささえ変わって見えます」


 ネーヴィッドには僕が発明した小顔成分が配合されている。

 評判を聞いたことがあるらしく、ジュディスが「はあ」とうなずいた。


 目を実際より大きく見せるための製品、鼻筋が通っているように見せるための製品、等々、僕は具体的な商品名を次々とまくしたてた。彼女との楽しい一日を確保するためには、ここで彼女を完全にだまし切らなければならない。


「体型を変えるためにコルセットの他に、トウィロー製薬の『シグマック』という薬剤を併用しています。わが国では未認可の薬剤なので、あまり大きな声では言えないのですが……一時的に体重が六十ポンド近く減少します」


 そして『シグマック』の作用について、専門用語を交えて長々と説明した。


「……そんな薬ですので、体への負担も大きいんですが、イメージ作りのためにはやむを得ません。対外的には、僕は格闘技も射撃もこなせるという設定になっていますので。凱旋門本署署長が実際には、運動神経ゼロのこんなデブだと知れたら、犯罪者にナメられてしまいますからね!」


「まあ……そうなんですか」

 わずかではあるが、ジュディスの声に納得がにじみ始めている。


 僕はできるだけ誠実な笑顔を作ろうと努めた(そういう笑顔には慣れていないので、顔の筋肉があちこち引きつったが)。


「昨日までのあなたに対する失礼な態度をお詫びします。変装をしている時はテンションも上がっているので、ちょっと、攻撃的な性格になってしまうんです。今日はすべての予定をキャンセルして、ここであなたの調査に協力します。何でも質問してください。……今日は変装はなしにさせてください。体に多大な負担がかかる変装ですから、外へ出ない時には、なるべくせずにおきたいんです」


「わ……わかりました」


 ジュディスは戸惑った様子を残しながらもうなずいた。


 僕の詳しい説明の説得力もあっただろうが、たぶん僕が例のブレスレットをはめているという事実も、彼女を納得させるのに役立ったんだろう。


「そうやって進んで協力してもらえると、助かりますわ。……昨日、走っている車からいきなり外へ射出(イジェクト)された時は、もう調査続行は不可能ではないかと思いましたもの。車の緊急脱出装置が誤作動したなんておっしゃってましたけど、嘘でしょう、そんなの?」


 まん丸な乳の前ですんなりした両手を組み合わせながら、ジュディスが責めるように言う。


 げーっ、何だよ、走っている車から射出って。


 署長のやつ、そんなことしてたのか。彼女を「途中で振り捨てた」というのは、そういう意味だったんだな。そりゃあ発信機もつけられるはずだ。


 言い訳のしようがない。


「ご……ごめんなさいっ! 昨日は、ちょっと、あわててたんです! あと、変装のせいでテンションが上がっていて……! 本当にごめんなさい! ごめんなさい!」


 僕は真正面から謝ることにした。力いっぱい頭を下げた。


 ジュディスはしばらく僕を睨んでいたが、やがて深いため息をついて、


「もう二度とあんなことはしないでくださいね。私だって調査員強権を発動したくはないんです。事情聴取に協力していただいて、あと、一週間ほど実際の行動をモニタリングさせていただけば、すぐに終わる調査ですから」


と、可愛らしく唇を尖らせた。


 どうやら彼女の怒りが溶けたらしい、という安堵と、

 尖らせた唇が色っぽすぎる、触れたい、という強烈な衝動とに、

 僕の心はかき回されていた。


 やっぱり、実物の女との交流は刺激的だ。カメラ越しに女の着替えをのぞいたり、仮想世界でアバターとじゃれ合ったりするのとは、ぜんぜん違う。たぶん今僕の血圧を測定したら一生で最高値を記録する。



*********


「それでは、昨日途中で中断した事情聴取の続きをします。よろしいですか?」


 ジュディスが膝の上にファイルを置いて、きりっとした表情で僕をみつめる。


 ソファの彼女のすぐ隣に腰を下ろした僕は、まじめな顔を作ってうなずいた。


 内心では自分の大胆な行動にドキドキしていた。目当ての女との物理的な距離をいきなり詰めるなんて、今まで一度もやったことがない。がっついていると思われるのが嫌だからだ。でも今日の僕はカイトウ署長だから、別にがっついてるスケベだと思われたってかまわないんだよね。


 隣に座ると、彼女の甘い香水が僕の鼻腔をくすぐる。


 長い睫毛、淡いピンク色の唇を、間近でじっくり眺めることができる。


 圧倒的な存在感をもってセーターの生地を押し上げる胸のふくらみに、少し腕を動かすだけで触れてしまいそうだ。


 ああ。おっぱいの強烈な磁力に、頭がくらくらする。


「当人権調査委員会に調査請願を行ったクテシフォン弁護士連合会が人権侵害の第三の例として挙げている、『皮剥ぎ』ことガリウス・グラウベンに対する傷害の件です。ガリウス・グラウベンを覚えていらっしゃいますか?」


「え? ああ。も、もちろん、覚えています。『皮剥ぎ』ですよね、ええ」


「手配中の連続殺人犯であるガリウス・グラウベンと兄のマーリン・グラウベンが、当市西区プイダン通りにある潜伏先のアパートで四名の捜査員によって検挙された時のことです。マーリンは捜査員の隙を見て逃走を図り、アパートの通路で、ちょうど通りかかったカーラ・ヨハンセン二十六歳を人質にとりました。人質の女性の首筋にナイフを押し当て、彼女を殺されたくなければ武器を捨てて弟を解放するよう捜査員に要求しました」


 ジュディスは、キスしたくなるような可憐な唇を忙しく動かして、飾り気のないレポートの文字を読み上げていく。


「『たまたま通りかかった』と主張し、捜査員に同行していたあなたは、拘束されているガリウスのこめかみに銃をつきつけて、こう言いました。『人質なら、こっちにもいる。おまえこそ武器を捨てろ。さもないと弟の首から上が消滅するぞ』……」


 間近で眺める柔らかそうな唇と豊満なおっぱいの魅力に、桃源郷をさまよっていた僕の心は、たちまち現実に叩き落された。


 ちょっと、ちょっと待って。今とんでもない内容が読み上げられたような気がするけど?


 ジュディスはレポートから視線を上げないまま、淡々と読み進めた。


「警察官が人質をとるなど聞いたことがないとマーリンは主張しました。『ハッタリだ。無抵抗の相手を、おまわりが撃てるはずがない』と言いました。するとあなたは、『脳ミソ代わりに◎※◎※を頭に詰めて歩き回ってる低能にしては、知恵が働くようだな。でも、おまえは間違っている』と言って……」


 美女の口からいきなり飛び出してきた卑語に、僕は仰天した。


 ジュディスのすまし顔は冷静そのものだ。たぶん、うぶな彼女は、自分が読み上げたのがとてつもなく下品な単語だということにさえ気づいていない。


「……捜査員に命じて、ガリウスを捕らえている手を放させました。そして、逃げるために走り出したガリウスの左右の膝関節を後ろから撃ち抜きました。さらにあなたは、激痛に転がり回るガリウスに銃口を向け、マーリンに向かってこう言いました。『逃走を図ったため射殺した。そういうことにしておけば簡単に殺せる。おまえが人質を解放するまで、五秒に一発ずつ、おまえの弟を撃っていく。なかなか死なない場所ばかり選んで撃ってやるから……たぶんこいつは、死ぬより先に、苦痛で頭がおかしくなるだろうな。もしおまえが人質に危害を加えたりしたら、おまえも同じ目に遭うわけだ。どうする? おとなしく逮捕された方が賢明だと思わないか?』

 弟が目の前で苦しんでいる姿に耐えられず、マーリンは人質を解放して投降しました。

 これが、グラウベン兄弟およびカーラ・ヨハンセンの証言をもとに再現した経緯です。……私が今読み上げた内容は、事実と相違ありませんか?」



 僕はソファに腰かけた姿勢でしばらく硬直した。


 な・に・をやらかしてくれてるんだよ、署長!!


 どこからどう見ても完全な人権侵害だ。こんな不利な立場から、どうやって挽回しろっていうんだ。



「いや……その……あの……」


 口ごもる僕に、義憤に輝く美女の視線が突き刺さる。完全に、人でなしを見る目だ。


 つらい。僕も今までさんざん、周囲からマッドサイエンティストだの変態だの悪口を言われてきた。けがらわしい物を見るような目つきにも、不本意ながら慣れている。だけど――人非人だと思われるのも、けっこうキツいものがあるな。僕が悪いわけじゃないから、なおさら。


「少し、事実を誇張し過ぎていると思います。逃げようとした犯人を撃ったのは事実ですが、その……今引用されたようなセリフは、言った記憶がありません。たぶん、『情け知らずな署長』という僕のイメージが浸透しているので、みんな、イメージで物を言っているのではないかと……」


 我ながら苦しい言い逃れをしぼり出した。


 昔、一年しか通わなかった小学校で、女子の下着を更衣室から盗んだと非難された時のことを思い出すな。いや。むしろ、同じく一年しか通わなかったミドルスクールで、いやがる女子に無理に抱きつこうとした嫌疑で、クラス全員からつるし上げられた時に似ているかもしれない。


 その時に比べると――糾弾者であるジュディスは冷静で、客観的な態度を維持してくれていた。


「そうですね。証人の選択にも偏りがあるように思われます。……この場に立ち会っていた四名の捜査員の証言が聞きたいですわ。手配していただけます?」


 わかりました、と僕はうなずいた。


 後で署長に話しておこう。刑事たちなら署長に不利な証言はしないはずだ――凶悪犯を問答無用でぶち殺す署長のやり方は、現場で「好まれている」という話だから。


 僕はいつの間にか自分が緊張で汗だくになっていることに気づいた。


 服の袖で額をぬぐっていると、ジュディスがきりっとした顔で僕を見て、


「それでは次の事例に移ります。クテシフォン弁護士連合会が人権侵害の第四の例として挙げている、通称『地獄の門』の爆破についてです」


 えーっ、まだ続くの!?


**********


 その後数時間、ジュディスは署長の悪行を次から次へと並べ立て、僕はそれに対する言い逃れを繰り返した。息つく間もないピンチの連続に、せっかくの巨乳をじっくり眺める暇もなかった。


 ――彼女に近づくために署長になりすますというのは、あまり良い手ではなかったかもしれない。


 とうとう、僕は音を上げた。


「すみません! ちょっと休憩しませんか? あまりに長い間緊張していたので、僕、頭がうまく回らなくなってきました」


 ジュディスはあっけにとられた顔をした。


 そして、驚いたことに、にっこりした。近い距離で見る美女の笑顔に僕は圧倒された。


 顔を合わせたばかりの頃に比べると、暖かみのある笑顔に見える。


「いいですよ。……なんだか、意外だわ」


「意外って……何が?」


「記録を読んで、もっと怖い人を想像していたんです。血も涙もなくて冷酷な、殺意の塊みたいな人を。でも実際のあなたはとても『人間らしい』感じだわ……変装していない素顔の時は。思っていたより話しやすくて、ほっとしました」


「話しやすい? 僕が?」


 生まれて初めて女から好意的に評価され、僕は頬が真っ赤に染まるのを自覚した。


 ジュディスはにこやかにうなずいた。


「本当は私、すごくドキドキしていたんです。初めてここへ来た時。どんな恐ろしい人が出てくるのかと思って」


 ああ――最初に見かけた時のあのおどおどした態度、小さな声は、署長に対面する恐怖のためだったのか。


「でも、こうやって話してみたら、けっこう普通の人だったから安心しました。イメージって本当に怖いですね。記録に描かれているあなたは、まるで冷酷無比な怪物ですもの。私、勘違いしていたみたいです、あなたのこと」


 ジュディス。勘違いじゃないよ。実物の署長は記録に描かれている通り、冷酷無比な怪物だよ。


 僕はソファから飛び上がった。


「外の空気を吸いに行きませんか。その方が、仕事の効率も上がるだろうから」



**********


 だれが何と言おうとも、デートだろ、これは?




 凱旋門通りのオープンスタイルのカフェに、僕はジュディスを誘った。幸せそうな顔をしやがったカップルどもの巣窟と化しているので、これまで一度も寄りついたことがないお洒落なカフェだ。舗道に面した、生垣に囲まれたテラスに二十個ほどのクリスタル製の丸テーブルが並んでいる。各テーブルには二脚ずつしか椅子が配置されていない――ことさらにデート向けを主張しているんだ、この店は。


 僕は道路にいちばん近いテーブルに、ジュディスと差し向かいで腰かけた。


 春の気配を含んだ風が吹き抜けていく。


 幸せだ。これを幸せと呼ぶんだろう。


 まっすぐ僕をみつめる可愛い女。重たげにテーブルに乗せられたボリュームのある乳。


 年上の美女を連れているチビでデブで不細工な僕に、道行く男からの嫉妬と羨望の視線が突き刺さる。その視線の険悪さが心地よい。はっはっは、せいぜい羨むがいい。僕はこのナイスバディの女を今日一日ひとり占めできるんだぞ(といっても、これまでの時間の大半は、僕が弁解や平謝りしてるだけだったけど)。


 僕は、なるべく彼女の方に話題を振り、彼女に話してもらうよう努めた。


 こっち(つまり、カイトウ署長)のことを話題にすると、ろくなことがないからだ。地雷原を歩くみたいなものだ。ちょっと進むだけですぐに、自爆必至のネタが顔を出す。


 ジュディスが第八十三星区のグブラーズ公国の出身で、妹が二人いること。今は第九十九星区のラオデキア連邦直轄領の官舎でひとり暮らしをしていて、趣味はケーキ作りとスカイダイビングとバイオリンであること。ケーキのレシピ本を三冊出版していて、スカイダイビングのインストラクターの資格を持っており、バイオリンについては、ラオデキア第一管弦楽団でコンサートミストレスを務めるよう依頼されたことがあるほどの腕前であること、などがわかった。


 大学は十六歳で卒業しており、連邦上級公務員になってからもう三年になる。


 僕は料理にもスカイダイビングにも音楽にも詳しくないので、ひたすら聞き役に回り、質問を続けた。彼女と話しているのは楽しかった。女の声は耳に心地良かった。しゃべっているうちに彼女の笑顔がだんだん増えてきた。


「ごめんなさい。楽しくて、つい、おしゃべりし過ぎちゃいました。……もうそろそろ業務に戻らなくてはいけませんね。忙しいあなたに、わざわざ時間を作ってもらってるんですもの」

 ジュディスが真顔に戻って言った。


「おしゃべりし過ぎなんて……そんなことありませんよ! 僕もとても楽しかった」


 あわてた僕は、つい大声を出してしまった。


「よかったらもうちょっと、ここで話していきませんか? 僕を監視するのがジュディスの仕事なんでしょう? それだったら、ここでもできる」


「『監視』と言っちゃうと、言葉が悪いけど」


 ジュディスはいたずらっぽく笑ってみせた。「もう戻らなくちゃ」と言った割に、急いで席を立とうとする様子はない。そのことが、とてもうれしかった。僕はこれまでの人生で、相手に「会話を打ち切られる」、「ほっとした様子で急いで離れられる」ことに慣れきっていた。だれもが僕と過ごす時間を早く終わらせたがった。僕とゆっくり過ごしたいと思ってくれる人なんて、ほとんどいなかったのだ。


 打ち明け話をする口調で、ジュディスが語り始めた。


「私……同じ年頃の友達とわいわい騒いだ経験がないんです。ハイスクールも大学も飛び級で入ったから、周りは年上ばかりで。向こうにしてみれば私なんか子供でしょう? まともに相手をしてもらえなくて。今も職場は年上の人ばかりだから……本当に話が合う人って、いないんですよ。それだからかな……今あなたとお話ししていて、とっても楽しいの。同年代の人と同じ目線で話せるって、こんなに楽しいんですね」


「ぼ……僕もそうですよ!」


 ジュディスの言葉は、僕の心の鍵穴にぴったり嵌まる鍵だった。僕は役割も何もかも忘れて、思いきり叫んでいた。


「僕も、小学校とミドルスクールを一年ずつで卒業したから、いつでも周囲は僕よりはるかに年上の連中ばかりで、ぜんぜん話が合わなかったんです。女子だって、僕みたいなチビなガキ、はなっから相手にしてくれないし。今だって周りは大人ばかりだから、友達も恋人もいませんよ。寂しいもんです」


 叫んでしまってから、「そう言えば署長は確か、小学校にもミドルスクールにも行っていなかったはずだ」と思い出した。ハイスクールに一年通っただけで、すぐに大学に進学したと聞いたことがある。まずい、もし彼女が署長の学歴を調べてきていたとしたら、話が合わなくなる。


 ジュディスは僕のミスに気づかなかったようだ。何度も大きくうなずいて、


「わかります! わかります、その気持ち。私もそうなんです! 普通に友達と騒いだり彼氏を作ったりしている、同じ年頃の子たちがずっとうらやましかった……!」


「ハイスクールには良い想い出がひとつもないんですよねー。同級生はみんな僕を子供扱いして小馬鹿にし、その一方で、僕のことを恐れ、気味悪がるんだ。まるで化物みたいに。僕が他のだれよりもはるかに優秀だったからです。プロムパーティも出席しませんでした。どうせだれも踊ってくれないのはわかってましたから」


「私も! 私もプロムはパスしました。その頃、身長が、同級生の男子の肩までしかなくて……ダンスは無理だし、大人っぽいドレスも似合わないし、出たって仕方ないですもの」


 そう言って、ジュディスは胸の前で両手を握り合わせた。


 僕はその白い手をじっとみつめた。


 ――今だったら、あなたと踊りたくない男なんていないでしょうね。どんなドレスでも似合いそうだ。

な・ど・というセリフをすらっと言えれば、彼女の手を握れるんじゃないかな。


 やってみるか? 試してみるか? いい雰囲気だし――いけるかもしれない。もし失敗したって、恥をかくのは僕じゃなくて署長なんだから。


 僕は意を決して口を開いた。


「今だったりゃっ……痛!」


 噛んだ。こっぴどく。やっぱり慣れないことはするもんじゃない。

 口の中いっぱいに血の味が広がった。


 血の量が意外と多い。舌の先端がずきずきする。噛み方がひどかったみたいだ。鏡で傷口を確認した方がよさそうだと思い、僕はジュディスに断りを言って、洗面室へ向かった。


 カップル向けのお洒落な店は、洗面室までお洒落で洗練されていた。無駄にカッコいいモノトーン基調の洗面室で、僕は鏡に向かって口を開けた。舌の先の方に血がにじんでいるのが見えたが、特に処置を取る必要もなさそうだ。僕はうがいをした。


 水を吐き終えて顔を上げたとき、鏡に映っていたのは、今までの人生で一度も見たことがないほど幸せで満ち足りた笑みを浮かべたニキビ面だった。


 何なんだ、この高揚感は。胸の暖かい感覚は。


 女と話が弾む。女が「私もそうなんです」と共感をこめてあいづちを打ってくれる。それは、こんなにも、幸せなことだったのか。



 でかい乳。きれいな顔。色っぽい唇。それらの要素はもちろん重要だ。


 だけど今の僕にとっていちばん大切なのは、僕との会話を本気で楽しんでくれている彼女の微笑みだった。彼女の口から出るすべての言葉が宝物だった。


 全身にじわっと染みわたるようなこんな大きな幸福感を、僕はこれまで知らなかった。


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