冬星
東京に就職を決めた一を追いかけたい波留。一のことを好いている波留は彼を追いかけたいが,身分と言う目に見えない壁に阻まれてしまう。
これは冬空の下の話である。
私は凍てつく夜を見上げ,星を瞳に映した。新月で月明かりもなく,星だけが天空を彩っていた。散りばめられたそれらが目に優しい刺激を与える。
「何をしているの?」
後ろから声がした。だが,振り向く必要はない。聞きなれた声だったから。
「星を見ています。冬は星が綺麗ですから。」
枯草の匂いと電灯のない高台で男女が二人,星を見上げる。息遣いが聞こえるような静寂の海でそれぞれのこれからを語る。
「俺,東京に行くよ。多分もう帰らない。」
余韻が残る言い方だった。寂しさがひしひしとこみ上げ,ツンとした感覚が視界にボヤを掛けた。行かないでとは言えなかった。ただそれは,意気地が無かったからではない。
「そうですか。お体に気を付けて行ってらっしゃいませ。」
素気ない言葉を濡れた声で返す。泣いているの?と聞かれるがそうではないと風邪のせいにした。
「いつご出発なされるの?」
「明日の始発でここをでるよ。今夜はもう寝ない。」
「通暁はいけませんわ。」
「昼間にたんまりと寝たんだよ。」
肌を切り裂く山風が吹く。身体が震えだしたがそこを動くことは無かった。
「風をこじらせるといけない。そろそろ家に帰んな。」
後ろから外套を私に羽織らせた。嗅ぎ慣れた煙草の匂いなはずなのに,どうしてもこの人のそれは胸をつよく縛りあげる。嬉しくも切ない匂いであった。
「いけませんわ。そんなものを私に貸しては。」と突き返したが受け取らずに,
「どうしてだい?震えているじゃないか。」
そして再び肩に掛けさせて,「さあ,早く帰りな。」と背中を押された。押された勢いで二三歩前に出たが,やっぱりそこを動かなっかった。うつむき,ただ黙っている。
「どうしたの?」
聞かれてもしばらくは答えなかった。そして私は責めてのもの抗いを言葉にした。
「帰りたくありません。私は帰りたくないのです。」
彼の困った顔が目に浮かび上がるようで振り返れなかった。頭さえも上がらなかった。何も出来ずにそこに立っていることしかできなかった。肩を優しく叩かれた。耳元で低い声が囁かれる。
「じゃあ,送ってく。」
手を取られ,高台を下る。夜の闇など,慣れているはずなのに今は腰を抜かすほどに怖い。一人でここに来れたことが不思議であった。「繋がれた手が離れて行ってしまう」という思いが私を煽り不安にさせる。稲刈り後の田んぼの畦道を通り,小川のせせらぎをさかのぼり,林を迂回し再び畦道を進む。谷へと通ずる蛇行の下り坂に差し掛かったところで,
「有難うございます。もう大丈夫です。」と頭を深々と下げた。
「いいよ,家まで行くよ。あとどれくらい?」
私は首を振り,強く拒否した。彼は訝しげな表情をしたが頷いて「わかったよ。気を付けるんだよ。」と肩に手を弾ませた。彼が家路につく背中が見えなくなるまでそこに立ち尽くしていた。そして姿が完全に消えた瞬間に私は泣き崩れた。越えられない壁を憎んで。
しばらく泣くと涙は枯れた。鼻をすすり上げ,下り坂を下り家へと辿り着いた。
川岸の家で,私は彼への贈り物を作り始めた。始発の電車に間に合うように⋯⋯
山の頂に薄らと朝日が顔を出した頃にそれは完成した。だがそのことに満足している暇など無かった。始発の電車の時刻が差し迫っている。私は贈り品を包みに入れることも彼から借りた外套すら持つのを忘れてその場を飛び出した。出てすぐの砂利道によろめき,曲がりくねる坂道で失速し,長すぎる直線で時折足を緩め,向かい風と喧嘩しながら駅を目指した。
辺りが朝焼けに照らされると同時に駅に着いた。どうやらまだ発車時刻ではないようだ。駅に止まったままで,扉を開けたままにしてある。私はプラットホームに入り彼を探した。前の一号車から順に覗いていった。すると五号車辺りで窓が開き
「波留っ!」と呼び止められた。無論彼だった。
「これ,差し上げます。向こうでもお気をつけてお過ごしください。」
革で作った煙草入れを手渡した。彼は目を見開き首を横に振った。
「これ高かったろ?こんないいもの受け取れないよ。」
「いいえ,手作りのようなものですわ。気にしないでお持ちになって。」
彼は迷っていたが,扉の閉まる警笛が響くと頷いて懐へしまった。そして,何か決心したような目つきに変わり,
「波留。」と呼ばれた。声は出さずに目で返事をした。
「お前,俺と東京来る気はないかい?」
私は,驚きをそのままに「東京!い,いまですか??」と問い返した。
「そうだ。今この電車で一緒に来てくれないか?」
もう一度警笛が鳴った。これは発車の合図だ。機関車がぷしゅー⋯⋯っと音を発てた。鉄の巨体が今,動こうとしている。
一緒に行きたくないわけがなかった。私が普通の女であるならば,すぐに誘いを引き受けていたであろう。だが,彼と私には絶対的な壁があった。だから肯定することが出来なかった。
「ごめんなさい。お誘いはとてもうれしいです⋯⋯しかし,それをお受けすることはできません。身分が違いすぎます。」
頭をこの上無いくらいに下げ,電車が動き出すのを待った。これでいい,これがあの人の為なのだから。
「波留!!」
警笛の音に負けない強い声で私を呼んだ。はっとして顔を上げると手が差し伸べてあった。窓を限界まで上へ押し上げ,身を乗り出すようにして私に手を伸ばしている。
すぐに電車は動き出した。視界の真ん中にあった手がゆっくりと眼界を外れてゆく。
「身分じゃ割り切れないよ!波留!お前がいいんだ!」
煩悶の末,私はそれを取ってしまった。大好きな人のその手を。本当ならばそんなことあってはならないことなのに⋯⋯
彼は窓から車内へと私を引き込んだ。
「有難うきてくれて。」
彼は安堵と嬉しさと幸福とが混ざった顔をしていた。私は感情が抑えきれずに彼へと抱き着いた。幸い,その号車に私たち以外の人はいなかった。
少し落ち着きが戻ったところで,彼は煙草を吹かした。彼の匂いが漂いだす。そうなった途端に涙が溢れでた。これは嬉し泣きなのだろうか?それとも身分を無視してしまった彼への申し訳なさなのだろうか?いいやもしくはどちらでもないのかは,今の私にはわからない。ただ,今目の前に彼がいるのは幸せなことだった。下を向き静かに泣いた。
「鼻をさっきからすすっているね,風邪ひどくした?そんな薄着で出てくるからだよ。向こうに着いたら一番に,波留の上着を買うとしよう。」
そう言って,自分の上着を私にかけてくれた。今度は素直に受け取った。「有難う」とお礼を言うと,彼は顔を赤らめて少しばかり髪を弄んで戻った。
どんどん景色は変わって行く。見えなくなる故郷を背にこんなことを思った。
「もう帰ってくることはないかもしれないですね。」
そう,彼と同じことを思ったのだった。何故だかは正直わからない。移ろいゆく風景が私をそういう思いにさせたのだった。この地に思い入れが無いわけではない。両親や村の人々の思い出や感謝は星の数ほどあった。いや,それ以上あるとも思っている。
「そうだね。もうないかもしれないね。寂しいかい?」
朝焼けが青空へ吸い込まれ,早朝という感じではなくなっていた。枯草が広大に広がる平野はまさしく冬そのもので,もう少しすると,ここ一帯にも薄く雪が積もるのであろう。
「そうですね⋯⋯なんだか少し複雑な気持ちです。寂しいかと言われれば寂しいような気もしますし,ここを一さんと旅立ててほっともしています。」
「そうか。実は俺も同じような気持ちだよ。なんとも言えない微妙な気持ちさ。」
一さんは窓枠に肘をかけ,何かを考え始めた。長いトンネルに差し掛かったところで口を開いた。
「東京に行っても,昨日の星空を忘れることはないだろうね。それに,この町の一番の思い出が今は目の前にあるのだから,俺はそれで十分さ。」
ふんわりと柔らかに笑うその顔につられて私も表情を緩めた。長かったトンネルを抜けるとそこには見慣れない風景が広がっていた。
「向こうでも,星空を見たいです。」
「いや,向こうの夜は明るいと聞くから見えないと思うな。」
間もなくして電車は急カーブに差しかかかる。外側に重力を感じつつ,私は言った。
「一さん。」
「ん?」
「ずっと一緒にいさせてください。」
列車は直線の線路でスピードに乗る。私は昨日の星空を瞼に浮かべ目を閉じた。彼の煙草の匂いが,私をより深い眠りに落とした。
お読みくださり有難うございました。