穏やかな兆し
がんばれとかファイトとか、そういう応援はいちいち真剣に受け止めるから苦しいんだ。
そんなことに気づいてから、ぐんと気が楽になった。図書室に行ったって、動揺することもない。
今日は、冷たい雨が降っている。ずっと、静かに降り続けている。……雪が降るときとはまた違う静けさが辺りを覆っていて、それはそれで嫌いじゃないな、と思った。
そんなことがきっかけで集中力が途切れたから、開いていたノートを閉じた。
図書室に来ている人数は段々減ってきているようだけれど、それでもまだ結構いる。ぼんやり様子を眺めて、ゆったりと出していたものをトートバッグに収めていく。
本番が近づけば近づくほど、気持ちが穏やかになる。……こういうときは大抵上手くいくよ、って誰かが言ってくれたけれど、あれはただの励ましだったのか何なのか。結果が変わるわけじゃないけど、縁起はよかった。
バッグの中をかき回していると、折りたたみの傘が触れた。外は雨。下足室の傘たてに、今日はちゃんと差してきた傘を立ててある。
考え込むよりも早く、体が動いていた。触れた傘をそのまま出して、廊下に移る。大した音もたてずに扉を閉めて、ほっとした。ほんの些細なことでも、他人にとっては大きいことかもしれないっていう気遣いで、無駄なことなんてない。
他の学年はちょうど休み時間らしい。図書館の外は無邪気なはしゃぎ声で満たされている。こういう中で過ごしてたな、なんて少し懐かしい。まだ同じ制服を着ているのに、自覚しないまま成長したってことなんだろうか。
……微笑ましげに私たちを見ていた先輩の心境は、こんなのだったのかもしれない。
きっといま、私もそんな顔をしている。
最上級生の色が入った上履きが、どこかくすぐったかった。
*
「冴島……」
大きな雨粒が落ちてきた跡は、境界線だ。傘がいるのといらないのと。
誰もいないと思っていたいつもの場所には、奴がいた。絵の具の「青」をそのまま塗りたくったような色と、そこからのびてたどり着く足の組み方なんか見なくてもわかる。
だけどおかしい。奴は今日、私立の入試があるはずだ。それは、ぽつりぽつりと交わした言葉をどう組み替えたって変わらない。それとも、その言葉を覚え間違っている?
「冴島」
傘を差して、足を踏み出して。思わず呼んだ声に、奴は振り返らなかった。そんなことは意識する間もなく、隣についていたけれど。
「……今日の試験は中止」
「は?」
唐突に呟いて、冴島は音もなく笑う。かすかに奴の傘が揺れて、私のにあたった。
「……もしかして頭がおかしくなったのかしら、冴島君?」
言いながら当て返そうとしたら、ひょいと避けられた。……ああ、やっぱりいつもの奴だった。
「仮にそうだとしても、君よりはマシだよ。杉田さん」
条件反射でいつもみたいに言い返そうとしたとき、タイミング悪く放送が入った。雨のせいか、とおりが悪い。
『三年、冴島健史君。校内におりましたら至急職員室の担任のところまで』
口を開きかけたまま、本人を見る。遮っていた傘が消えて、奴もこっちを見ていた。全く、普段どおりの笑みを浮かべて。
「バカ面って、まさにそれだよな」
すたすたと歩いていく。境界線の向こう側へ。
「違うわよ!」
やっと返した言葉に、軽く片手をあげて。
雨のせいか、いつもより静かに開閉した扉を見遣って、私は傘を傾けた。
奴がどうして試験に行かなかったのかなんて知らない。でも、望んでそうしたんなら、冴島らしいと思った。何となく。
傘の骨をわたって雨の滴が落ちていく。それを時々追いかけながら、制服がぬれることなんて考えもせずに、しばらく柵に背を預けていた。




