通りすがりの悪戯
薬くさい、でもどこか優しいにおいの中、瞼をあげた。
ここはどこ、なんていうことはない。保健室のベッドの上だ。どうやら腹痛は治まったらしくて、安心する。
学校の保健室って言う割には、このベッドは意外にも寝心地がいい。こんなことなら、もっと頻繁にこればよかったかな、なんて。
そのベッドの脇に置かれた椅子の上には、私のコートとマフラーと、屋上に置きっぱなしにしていたはずの単語帳が置いてあった。
「あ、起きた? 気分はどう?」
仕切りカーテンの外にでると、優しい顔をした保健の先生がこっちを向いた。この人は何だか満月に似ているなって思う。
「大丈夫みたいです」
答えながら壁にかけられた時計を見ると、ちょうど6時間目が始まったころだった。道理で静かなわけだ。
どうしようか。今から授業……っていっても、きっと自習だし、気恥ずかしい。かといって、サボるのも何となく……。
ぼーっと突っ立ったまま考えていると、不意に視界の端で先生が立ち上がった。そして、部屋の真ん中においてあるテーブルのほうへ引っ張っていかれた。
「とりあえず、ここに学年とクラスと名前を書いてね」
ああ、そういえばそんなシステムだった。
差し出された鉛筆で、ノートに書き込もうとする。こういうとき、無意識に上の人の名前なんかを見てしまうのは、私だけじゃないと思う。
で、見覚えのある名前を見つけたりすると何かおもしろい。どこかしら悪いところがあってここに来てるのに、変な気持ちだとは思うんだけど。
「あ……」
私が書こうとしたすぐ上の行。そこに目をやった瞬間、思わず声が出た。だって、見覚えがあるどころか自分の名前があったから。
「ん? あ、ああ、そうだった。ここにあなたを連れてきた男の子に書いてもらったんだったわ。ついでにコートなんかも置いていって……素敵な恋人ね」
自分の名前が他の人の字で書かれているのって、ものすごく奇妙な感じ。いかにも殴り書きといったようすの、でも読みやすいそれを眺めつつ小さく笑う。
「恋人じゃないです。ただのとおりすがりです」
もちろん、否定はばっちりするけど。先生にまで勘違いされたら、もう、やってられないんだから。
*
結局、保健室を出たのは6時間目が終わる10分前だった。ちょうどおやつの時間だからって、お茶とお菓子を渡されたから。
一応先生なのに、ちっとも急かさないなんて……でも、何か癒される感じがして、抗えなかった。保健室が休み時間に盛況なのも、わかる気がする。
「あ、寒い」
ふんわりとした暖かさが、ドアを閉めたとたんに冴えたような寒さに取って代わった。またお腹が痛くなるなんてごめんだから、慌ててコートを羽織る。
今からノロノロ行けば、教室につくころには休み時間になっているだろう。廊下の掲示板に張られたポスターなんかを、大して興味もないのに見上げたりしながら足を進める。
何となくやり場のない手をコートのポケットに突っ込んだら、その指先に何か硬いものが触れた。右手のほう。
ああ、携帯か、ってしばらく触るうちに気がついた。そういえば、ここに入れた覚えがあるような……。
私はメールも電話もあんまり好きじゃないから、きっと世の女子高生よりそれにかけるお金は少ないんだろうと思う。それでも、あると便利だからこうして持ち歩いているわけだけど。
「ん……」
ぱっと取り出して開いてみる。珍しく、『新着メールあり』の表示が出ていた。こんな時間に送ってくるような人……何人か思い浮かべながら、ボタンを押す。
けれど、私の予想は見事に全部外れた。
覚えのない表示名。それは、アドレスを変えたからっていうのでもなければ、広告メールでもない。そういうのじゃなくて、私が登録した覚えのない名前だった。
「……なんで?」
思わず足が止まって、頭の中が忙しくなった。ただ、その謎はメールの本文を読んだら解決された。
『何となく登録してみた。消すなよ。』
……つまり、奴は私が寝ている間にぱぱっと勝手に操作して、私の携帯にデータを入れたわけだ。
ああ、何か、冴島のむかつく笑顔が浮かんで、握った機械を折ってやりたくなる。
実際は、そんなことができるはずもなく、ただ深く息を吐くだけ。データを消すことも考えたけど、きっと意味はないし。アドレスを変えるのも、別にそこまでする必要はないように思う。何より、そうしたら元々登録してある人たちに知らせるのが大変だ。
少しずつ騒がしくなっていく校舎の中、のどかなチャイムの音が、いつもより柔らかく聞こえた。




