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水底からの口接け

作者: 薫谷風子

登場する団体・個人名などは実在の人物と一切関係のないフィクションです。

多少色っぽい表現を含むかもしれませんが、配慮はしてありますのでご安心下さい。

 青鈍(あおにび)の空に暗雲がたちこめる。先ほどまで紺碧の海原に眩しいまでの光を注いでいた天照(あまてらす)容貌(かんばせ)は、厚い鉛色(にびいろ)の雲に隠されてしまった。葉月も終わりに近づいた夕暮れ時。海は徐々にうねりを増し、群青色の波が不穏な動きを見せる。壇ノ浦に、生暖かい風が吹いた。

 野分がやってくる。


                      ◆◇◆◇◆


「三種の神器が……呼んでいる」

 紫宸殿に坐します、時の帝はぽつりと呟いた。己の中に流れる(すめら)の血が、遠く水底に沈む神宝(かんだから)とわずかに共鳴している。良くない呼び声だ。

 政治の中心が関東の鎌倉へと移って久しい今日、源平の合戦以前の天皇家の政治的権威は、なきも同然となっていた。内裏ではただ、悠久と思えるほどの空虚な雅の空間が広がっているだけ。日々の花の移ろいと共に己の心身にも訪れる老いを、帝は不惑にも届かぬ齢で感じていた。もういっそこのまま極楽浄土へ、とも思うし、もう一度京を紅蓮に焼き尽くしてまでも権力を我が元へ、とも思う。どっちつかずの実体のない想いが、名ばかりの玉座に漂っていた。

 平和だったのだ。むなしさを除けば。

 それがどうしたことだろう。先ほどからのこの胸騒ぎは。

 帝は玉座を離れ、自ら御簾を目の高さに上げてぽつりと呟く。

「水の匂いじゃ…」

 その刹那。

 空のものと思っていた暗雲が雷鳴と共に下り来て彼を包み込み、とぐろを巻きながら一瞬にして彼の口の中へと消え去った。

 帝の瞳が、きろりと琥珀色に光った。

 ふと、彼はかすかに声が聞こえてくるのに気がついた。

 澄んだ女の声だ。鈴の音が水面(みなも)に波紋を描くような、頼りなげだが心にすぅっと染み込む声。

「お上、どうなされました」

 黒い直衣を身に纏った側仕えが尋ねる。

「……そなたには、聞こえぬのか?」

「は? 何が、でありましょう」

 大きな烏帽子を(かし)げて、蔵人は問う。彼に聞こえているのは密かに忍び寄る雨音と、ざわめきだした葉擦れの音だけで、他には何も聞こえない。ましてや、

「懐かしい、女の呼び声が…」

などは、どんなに耳を澄ませども、聞こえる類のものではなかった。

「女の…、でございますか」

 蔵人は不思議そうな顔をして、遠慮がちに帝を見上げた。帝は扇を広げて顔を隠し、

「……よい。私の空耳だ」

 そう力なく言って、再び高御座(たかみくら)へと腰を落ち着ける。が、しかし、列席していた東宮春徳(はるのり)の瞳には、父の背中に憑いて竜笛を吹く若者の姿がしかと映っていた。

「やはり、戻ってきてしまったのだな……」

 春徳は憐れみのこもった瞳を虚空に向け、心底から、なぜじゃ…と呟いた。

 それは、厳島の神に向けられた苦悶の叫び。彼の心はいま、深い悲しみに満ちている。しかし彼の双眸は、慈しみの色を宿して父の後ろの少年を見つめる。春徳の体に宿るもう一つの魂がそうさせる。

「知盛殿」

 春徳は己の内に呼びかけた。

「どうか、父を…」

 ――分かっておる。

 貫禄はあるがどこか弱弱しい声が、春徳の内側で響いた。

「御前、失礼」

 春徳は帝に一礼し、東宮殿へと下がる。心置きなく己の内に宿る者と会話をするには、自室が最も望ましいと思ったからだ。


                       ◆◇◆◇◆


 平知盛、と名乗る人物が春徳の前に現れたのは、昨晩のことだった。

 春徳は悪夢にうなされていた。戦えども戦えども一向に良くならぬ戦況。不死身とも思われる若武者が、幾千の兵を率いて自分たちを海へと追い詰める。そして遂には荒れ狂う波間へと、重い鎧兜をつけた一族が次々と呑まれ逝くのだ。愛する女子供を胸に抱いて。

 ひゅうっと空気を吸う己の喉の音で、春徳は目覚めた。目を見開いて天井を見つめる。しかし眼裏に焼きついた夢の光景が離れず、目の前にありありと浮かび上がってくる。呼吸を整え現実に意識を戻すと、手のひらにびっしょり汗をかいていることに気付いた。

 戦など経験したことのない私が何故。

 そう思ったときだった。

 ――我が一族の生まれ変わりたる者の御子(おこ)よ、我が一族を救い給え――

 低い男の声がした。耳からではない、脳に直接語りかけてくる声。

 (すのこ)の方からだ。直感でそう思った。

 夜具から起き出て、表へ出る。不寝(ねず)の番をしている者たちが(こうべ)を垂れる。

 ――御子よ。

 強く呼ばれ、はっと顔を上げると、月明かりに半分体の透けた、青白い顔の男がいた。高欄を隔てて対峙するその男は、鎧兜に身を包み、背には何本もの矢が突き刺さっていた。ひどく悲しげな顔をしている。

 不思議と恐怖心はなかった。

 赤糸縅(あかいとおどし)の鎧に竜頭(たつがしら)の兜。夢の中で、全てを見据えていた男と同じ出で立ちだった。彼は舟の上で、次々と海に沈み行く一族を恐ろしいまでに冷静に見つめていた。

 ――我が一族を救っていただきたい。

 男が語りかける。

「そなたの名は?」

 自然と問いかけていた。だが知っている気がした。

 ――我が名は平権中納言知盛。帝の第一皇子と知りながら、御無礼お許しいただきたい。

「知盛?」

 ――いかにも。

 知盛と名乗る武士(もののふ)は、深々と頭を垂れた。側に控える不寝の者たちに、彼の姿は見えていないらしい。怪訝な面持ちで春徳を見ている。

「して、一族の生まれ変わりたる者の御子、とは?」

 かまわず春徳は問いかける。

 ――皇子のことにござりまする。今上の帝は我が一族の者の陽魂(ようこん)の生まれ変わり。さすれば騒ぎ出した陰魄(いんぱく)もその力に引かれて帝のもとに参りましょう。そうなれば……。

「待ってくれ」

 説明する知盛に、春徳は待ったをかけた。

「よく、分からない。大変な事態が起きているみたいだが……順を追って説明してくれないか」

 ――これは失礼つかまつった。

 知盛は潔い動作で頭を下げた。そして、朗々と響く声で語り始めたのだった。

 ――先日、奉納され、封印されていたはずの「若葉」という名の笛の音によって、我が眷属の玉姫が黄泉返りましてございまする。姫の心身は夫たる者を探して、菩提寺より彷徨い出でてしまい申した。姫の夫とは、我が一門の敦盛にございます。若葉は彼の愛用していた笛。彼亡き後は熊谷直実公によって封印されていたと聞き申しまするが、おそらくそれを解いて吹いた者がおるのでござりましょう…。黄泉返った姫の呼び声に引かれ、修羅道に下った敦盛までもが……。

 黄泉返ったのだと、知盛は言った。

 敦盛は(かたき)であった熊谷次郎直実と、敦盛の妻の玉姫との二人の懸命なる供養により、陽魂は天へ昇り、人道へ還るべく、輪廻の輪に戻された。しかし戦によって人を殺めた罪により、陰魄は修羅道へと堕とされた。その陰魄が、玉姫の呼び声に反応し、この世に舞い戻ったというのだ。陰魄はひとつの魂に戻るべく、陽魂を探している。その陽魂というのが……

「我が父、今上帝か」

 ――左様。

 月が傾き、遅咲きのナツツバキをぼんやりと闇夜に浮び上がらせる。

 ――敦盛の陰魄と引き合ってしまった陽魂は、一途な念のみを宿した言わば「敦盛の思念」に人格を侵されてしまうやもしれませぬ。そうなれば玉姫とも、より強く引き合いまする。その思念の力は我が一族を揺り起こすのに至極充分な力。京に、悪鬼怨霊となった平家一門が押し寄せましょう。一族がそうなる前に、再び戦渦を巻き起こさぬように、どうか、どうか力を貸していただきたい…!

 知盛は地面に額をこすりつけて懇願した。背に深々と刺さる幾本もの矢が天を向く。

 ――我々は一度滅びた者。滅ぼされた恨みがいかほどのものであろうとも、それは宿命として受け止めねばなりませぬ。これ以上、現世(うつしよ)のまつりごとに関わってはならぬ存在なのでございます。

 風が木々を吹き抜けて、をぉぉぉん…と不気味に鳴く。まるで目の前の武将に代わって、風が泣いているようだ。

「しかし、どうやって」

 春徳には特別な力などないし、呪術も扱えない。知盛の言っているような救世主には、到底なれない気がした。

 ――その御体と、皇命(すめらみこと)の血を、我にお預け下さい。

「私の体と、血を?」

 ――左様にて。あとは術士が力を添えてくれまする。我が魂を皇子(みこ)の内に宿し、陰陽寮をお訪ね下され。

 そう言ったかと思うと、知盛はふっと姿を消した。

「知盛殿?」

 瞬間、どっと風が吹いて、春徳の胸に鈍い衝撃が伝わる。と同時に、平安末期を事実上の平氏の棟梁として駆け抜けた猛々しき武士の、血塗りの記憶が春徳の脳裡に駆け巡る。その中でひときわ目立つ記憶が、春徳の心に訴えかけてきた。それは、戦乱の中にあっては異様とも思えるほど雅びやかな記憶。

 河原に敷かれた大きな陣営。篝火に照らされた具足姿の武士たちがそこで、遊び女を側に置いたり、酒を酌み交わしたりと、様々にくつろいでいた。しかし、皆一様にある方向を向いて楽しんでいる。彼らの視線の向かう先には、まだ幼さの残る少年。元服は済んでいるだろうに、稚児の衣装である水干を纏って、舞いを舞いながら竜笛を吹いている。その姿には洗練された雅やかさが漂っているが、しかし同時に少年独特の危うさと、意志の強い切れ長の瞳には、ある種の残酷さも宿している。氷像のように綺麗な少年だと、春徳は思った。

 ――それが敦盛だ。

 胸の内から声が響く。

 ――あいつは笛が上手かった。笛や管弦の遊びと舞を、誰よりも愛していた。しかし誰に似たのか、気性が荒くてな…。もう少し生きれば、我慢も身につけて、立派な武士になっていたやもしれん。

 いつのまにか口調のくだけた知盛は、おもてのナツツバキを春徳の眼を通して見つめながら、そっと嘆息したのだった。


                        ◆◇◆◇◆


 空耳かと思っていた声は、次第にはっきりと聞き取れる言葉になってゆく。


  恋ひ恋ひて

  邂逅(たまさか)(あひ)ひて寝たる夜の夢は如何(いかが)見る

  さしさしきしとたくとこそみれ……

 

 まるで鈴でも鳴らすように凛とした、けれど儚い声が、誰かを誘うように歌っている。

 幼い女の声だ。

 私を呼んでいる。そう思った瞬間、帝の足は止まらなくなった。ゆっくり、ゆっくりと、後宮に足を向ける。

 瞳はぼうっと虚空を見つめ、見えぬ糸に手繰り寄せられるかのごとく、帝は寝殿造りの長い簀子を渡ってゆく。

  

  恋ひ来ひて……なにな…そよな……

 

 声が近くなったと思ったら、また遠くなる。どういうわけかとても愛しく、彼女を抱きしめなくてはと思う。

  

  邂逅に逢ひて寝たる夜の夢は……

 

 手を伸ばすとその分離れていく落とした鞠のように、女の声はつかみどころがなく、奥へ奥へと逃げていく。否、誘っているのであろうか。もう永遠に会えぬ気がした。

  

  如何見る…如何見る…

 

 笑い声のようにも、すすり泣きのようにも聞こえる、鈴の音のような女の声。

 と、柱の影に白い裳裾がちらりと見えた。

「鈴の音の君?」

 名が分からぬので、そうそっと声をかけて近づく。しかし裳裾はするりと消えて、帝が角を曲がったころには誰の気配もない。

 だが声はやはり歌うように語りかけてくる。

  

  いいえ、いいえ。私は鈴の音の君という名ではございませぬ……

 

 悲しげに響く少女の声。

  

  お忘れになったか、愛しき御仁……

 

 愛しき御仁、と呼ばれ、あぁ()の人だ、と帝は思った。私は彼の者を知っている。

 胸がとくんと脈打ち、なぜだか涙が溢れた。

 会いたい。会ってこの手で包まねばなるまい。

 思いは募ってゆく。歩を進める足がだんだんと早くなり、殿上人にあらざる速さで歩き出す。

 声は奥へ奥へと帝を導く。赤い袿、黒髪の下がり()、衣擦れの音が、近づいたり遠ざかったりしながら、こちらへ、こちらへと(いざな)う。

 帝は後宮の最奥で足を止めた。そっと御簾を上げると、絽の几帳の向こうで、百合襲(ゆりがさね)の小袿の女が、ゆうらりゆうらりと手招きしていた。

「なぜ顔をお見せにならぬ」

 帝は女に向かって、痛切な胸の内を吐露する。

「あなたが私の名を呼んでくれぬから、私はいまだ彷徨いし身。名を呼んでくれぬうちは、お会いできませぬ」

 か細い声が答えた。

「しかし、私はそなたの名など…」

「いいえ、いいえ。ご存知のはず。共に三日夜の餅飯(もちひ)を食みし私を、あなたが忘れるはずがありませぬ」

 わがままにも聞こえる幼い声は、震え、消え入りそうなほどか弱いのに、烈火のような印象がある。

「鈴の君…」

「いいえ、いいえ! 私の名を呼んで!」

 ふうわりと、女の方から生温かい風が吹いて、几帳の継ぎ目にわずかな隙間ができる。

「敦盛様ぁ」

 女が帝を、その名で呼んだ。

 瞬間、帝の容貌(かんばせ)は豹変する。虚空を見つめるようだった双眸は真っ直ぐ前を見据え、口元には少年独特のものであるはずの、勝気で惨酷な笑みを湛える。両の瞳が、きろりと琥珀に光った。

「……若葉か」

 帝の口から、帝のものではない、笹の葉のように鋭い声が、自信に満ちた口調で女を呼んだ。

「あぁ…あぁ……嬉しゅうございます、敦盛様…」

 儚げだった少女の声が、春の花のごとく華やかに言葉を紡ぐ。

 厚く垂れ込めた灰色の雲が、とうとう(あめ)海水(あまみず)を零しだした。次第に強く吹く風に、雨も一気に激しさを増していく。

 轟々と雨風が内裏の屋根に叩きつけ吹き荒ぶ中、若葉に残る朝露の(たま)のように澄んだ声で、女――玉姫は帝を呼ぶ。

「お逢いしとうございました、敦盛様。一体いづれの道に旅立たれたのかと、もしやもう二度と会えぬのかと、ずっとお探ししておりました」

「待たせたな。今帰った」

 帝…否、敦盛は乱暴に几帳を薙ぎ払い、づかづかと部屋の最奥へと入ってゆく。

「お前の名を忘れるはずがなかろう。お前と同じ名を、我が愛用の笛にもつけたのだ」

「あぁ、敦盛様、愛しき人…。この世で添い遂げられぬのが武士(もののふ)の妻たる者の宿命(さだめ)なら、せめて浄土でひとつになろうと約束したのはいつの日か……」

「もうよい、黙れ。私は帰ってきた」

 大人びた若々しい声が玉姫の言葉を制し、敦盛は百合(ゆり)(がさね)の女をしっかと胸に抱いた。

「若葉を、こうして抱くために帰ってきたのだ」

 少年の腕に力がこもる。

「はい…はい……」

 玉姫は白魚の肌に、喜びの(しずく)を零した。

 遠くで雷鳴が轟く。

 強い風雨に打たれ、木々がごぅっと唸った。


                       ◆◇◆◇◆


 長門の海が荒れている。

 白波は高く、蒼い塩海(しおうみ)を巻き上げる。壇ノ浦沖は、今にも龍神が姿を現しそうな、畏怖の海と化す。

  尼御前(あまごぜ)……尼御前……

 風の音に雑じって、幼子(おさなご)の誰かを呼ぶ声がする。ひょうひょうと吹き荒ぶ風はしかし、その声を掻き消していく。

  いまぞ知る みもすそ川の 御ながれ

  波のしたにも みやこありとは

 誰のものとも分からない声が風に乗り、誰のものとも分からない歌が運ばれる。

  尼御前……こわい…手を…離さないで……

 波がうねり、海面に浮かぶ全てのものを呑み込んでゆく。月影すら沈められたその海に残るはもはや、深い悲しみの泣き声と、憎悪に満ちた呪の声ばかり。

 いいや、風の音しか聞こえない。現人(うつつびと)の耳は嵐の音しか聞かぬ。聞こえぬ。しかし渦巻いた怨念の声は遠く離れた(みやこ)の、術士の耳に入る。

 陰陽頭、賀茂保季(かものやすき)は、しかとその声を聴いていた。


                       ◆◇◆◇◆


 衛士の焚く火すらかき消すほどの嵐は、夜半を過ぎてもやむことはない。横なぶりの雨風に冠を飛ばされそうになりながら、春徳は陰陽寮へと急いでいた。

 公務を行っていた昼過ぎに敦盛が帝の体に降りて、春徳はすぐに陰陽寮を訪ねようとした。いや、もっと前、知盛が身体の中に入ってすぐにも、彼はそうしようとしたのだ。だが、当の知盛が、

「一晩、いや、星が一巡りするまで待たれよ」

と諭した。

 何故と問うと、先方の準備が整わぬ故、と会ってもいない者への配慮を示した。春徳は不審に思ったが、己の体に宿る知盛の意思に反して陰陽寮の方角へ足を向けようとしても、まるで体が言うことをきかなかったので、仕方なく今晩を待ったのだ。

 内裏から見て(うま)の方角にある陰陽寮にたどり着くと、誰もいないと思っていたところの妻戸が、こちらを窺うようにゆっくりと開いた。やはり誰かいたのかと思い、開いた妻戸から建物へ入るが、やはりそこには誰もいない。

「どうなっておるのだ…。だいたい、知らせの(ふみ)もなしでやってきて良かったのか…」

 春徳がひとりごちた時だ。

「…お待ちしておりました。こちらへ」

 暗闇にぼうっと灯りが浮かび上がり、(ひさし)を遠くまで淡く照らし出した。灯りを持つ者は――兎の頭をしていた。狩衣を纏い、烏帽子で長い耳を覆っている。

「うわあぁっ」

 あまりの衝撃に春徳は、東宮という気高き身分も、夜半という時間帯も忘れ、大声を出して驚いてしまった。

「こちらへ」

 兎が再び促す。

「あ、あぁ」

 狼狽しつつも春徳は、その二足歩行で人の背丈と変わらぬ兎の、背中を追った。

 兎はとある一室の前で歩を止める。

保季(やすき)様、お連れしました」

「ご苦労さま」

 襖障子の奥から柔らかな声が聞こえたと思ったら、目の前の兎が灯りごとふっと消えた。それにも春徳は軽く瞠目するが、二度も失態は犯さない。今度は扇で口元を隠し、出そうになった声を喉元で止めた。

「お入り下さい。東宮様」

 促され、春徳は襖障子を開ける。

 衝立障子や几帳などで十畳ほどに区切られたその部屋には、灯りとなるものは灯台が一本あるのみで、他には二階棚に納められた大量の巻物や見たこともないような奇怪な道具が、頼りない光に照らし出されていた。

 暗くてよく分からないが、きっと天の動きを探る専門の道具なのだろう、と春徳は推測しつつ中に入る。

「なぜ、私だと分かった」

 文も出さずに来て、その上このように暗いのに、東宮と呼ばれたことに春徳は不信感を抱いた。

「分かりますよ。ずっと見ておりましたから」

 相手は穏やかに笑いかけた。

 どうやら部屋にいたのは彼一人らしい。襲の色は分からないが、狩衣を着ている。右手に持った蝙蝠(かわほり)には、五芒星。

 締め切った(しとみ)ががたがたと音を立てる。

「よう降りますなぁ、今夜は。まぁお座りになって」

 まだ若いであろうに、つかみどころのない柔らかな声は、老人のような口調で春徳を促した。

「私は陰陽頭、賀茂保季。東宮様のことはよく存じ上げております」

 保季は春徳が座ったのを確認して挨拶をした。

「この嵐の中、お越し下さって恐縮にございます」

 それでも「文を下さればこちらから参ったものを」とは言わない。結界を張った陰陽寮の中だからこそ、できる話もあるからだ。

 保季はそれから、すっと目を狐のように細めて言った。

「ところで東宮様、懐かしい御方をお連れですね」

 春徳は瞠目する。驚いて、声が出ない。

 その様子を見て、保季はくっくと楽しそうに笑った。

「二つの魂を宿したお体で、よく結界の最奥まで入って来られましたね。よほど何かお伝えになりたいことがあるご様子。お話は、その御仁からお伺いいたしましょう」

 保季が目の前で十字に印を切った。

 とたんに眠気が春徳を襲う。耳元で知盛が、あとは任されよ、と言った。


                      ◆◇◆◇◆


 同じころ。

 後宮の一室から、笛の音が洩れ聞こえてくる。嵐の夜にあってもその澄んだ音色は、はきと人々の耳に届く。 

  

  そよや、こ柳によな、下がり藤の花やな、

  さき匂ゑけれ、ゑりな、睦れさはぶれや、

  うち靡きよな、青柳のや、や、

  いとぞめでたきや、なにな、そよな。

 

 笛の音よりなお高い、女の歌声が重なる。声は幸福に満たされ、少女のものとは思えぬ艶かしさを湛えている。しかし、まだどこか寂しげな、永遠に失ったものを恋うているような響きをも帯びている。

 はたと笛の音が止んで、

「若葉」

 少年の強い声がする。少女の声も、揺れて止んだ。

 衣擦れの音。

「あっ、敦盛様……」

 か弱い少女の鳴き声。敦盛が玉姫を掻き抱いたのだ。

「源氏に我が首を取られ、修羅の道に落ちてからは、お前との逢瀬はもう叶わぬものと思うていた。しかし、再び(まみ)えてみれば、こうも愛しい……」

 声は感情的な色を帯び、辺りのものをざわざわと揺り動かす。蔀を締め切ったはずの部屋の中に、生温かい風が巻き起こる。

「あぁ、敦盛様、嬉しゅうございます。ただあなたと浄土で再び逢うそのためだけに、私は御髪(みぐし)を下ろし、敦盛様の冥福をお祈りしてまいりました…」

 だが、二人が雲の上で再び逢うことは叶わなかった。一ノ谷で独り若い命に幕を閉じた敦盛は、京で待つ妻の元へも還れず、一族が眠る水底へも辿り着けず、修羅の道を彷徨った。ただひとつ、幼き妻が愛した笛の音だけを、胸に抱いて。

「辛い思いをさせたな……若葉」

 帝の口を借りて、敦盛は玉姫に詫びる。

「いいえ、いいえ、敦盛様の苦しみを思えば、私の胸の痛みなど……」

「…っ若葉!」

「あっ…」

 どさっと夜具に人の倒れこむ音がして、衣擦れが響く。灯台にくゆる小さな炎は、ヒトでないものを愛撫する現人神の背を刹那几帳に映し出し、妖しくたゆたって消えた。

 下がり藤が青柳に絡みつく。風のいたずらか。否、全ては歪みだした歴史の渦によって。

 今宵はめでたき夜。二度と離したくないものに、巡り会えたから。

「もう離さぬ。若葉。とこしえにこの手をつないでいよう」

 敦盛を見上げる玉姫は、鎖骨を上下させて答えた。

「その約束、違えては厭よ。もう独りにはなりたくない」

「分かっている。分かっている…! 二人の邪魔になるものは全て、私がこの体を以って焼き尽くそう。憎き者を全て滅ぼし、我らの都を創ろうぞ」

 敦盛は胸に湛えた痛みを癒すように、玉姫の白い肌に顔をうずめた。

 をぉぉぉ…ん……、と風が唸った。


                      ◆◇◆◇◆


「いけない!」

 眷属の気配を感じた知盛が、はっとして叫んだ。

「集まってきておりますなぁ」

 保季は眉根を寄せて呟く。

「先の帝と、重衡、惟盛、嗚呼……二位様まで…」

 ごうごうと鳴り響く風の音に耳を澄ませる。風はどれも異口同音に囁く。

  憎き鎌倉へ、鬨を上げよ……!

  我等の怨みを、今こそ…!

 知盛はこの世のものならぬその耳で、一族の声をしかと聞く。保季も同じ声を聞いているはずだった。

「早う! 保季殿!」

 我慢ならずに知盛は腰を上げる。春徳の体で、だんっ、と足を踏み鳴らした。

 保季はしかし、その端正な顔を苦虫を噛み潰したように歪ませて、ゆっくりと首を横に振った。

「どうやら一族以外の良くないモノまで、二人の思念は引き寄せてしまったようです」

 敦盛の愛する者ともう二度と離れたくないという強い思いが、完全なる黄泉返りを望み、帝の体を侵食する。陽魂を得てひとつになった魂は、より甚大な力を得、知らず知らずのうちに懐かしき人々を呼び寄せた。呼び合う陰の力は呼応して、地に眠る魍魎までをも揺り起こす。亡者たちは戦うための身体を捜して、内裏、大内裏、さらには京中を闊歩する。数知れぬ怨念が敦盛たちのいる後宮の周囲を守るように取り囲んで、何者をも近づけない。

「それが……ここに居ながらにして分かるというのか? そなたは」

 知盛とは別の声が問うた。

「あぁ、起きてしまったのですね、東宮様。えぇ、分かります。もとより私は、ここには居ませんので」

「は?」

 春徳は目を見開いて保季を見る。どう見たって幻ではない。実体はある。この目で見ている。身体が透けているわけでもない。それなのに「ここに居ない」とはどういうことか。

「いえ、ね。本当の私はずっと玉姫の墓前にいたのですよ。星が黄泉返りの兆候を示してからずっと、ね。しかし陰陽の術を駆使しても黄泉返りは防げなかった。手遅れだったのです。笛の音が、玉姫に強力な(しゅ)をかけて呼び起こしてしまった。こうなってしまった以上、源平の合戦で命を落とし未だ天にまつろえぬ者たちを、一斉に祓わねばなりません。そうせねば、また呼び合ってしまう…」

 さきの戦いは、それほどの怨念を残すまでに凄まじかったのか。春徳は息を呑んだ。

「いまここにいる私は式神です。先ほどの兎も式神。知盛殿がこちらにおいでになると知ってから、すでに内裏のあちこちに使いの式を置いてございます。その式全てが言わば私の目。いま京で起こっていることは、全て見えます。急がねば、再び戦が起こります。それも実質のない、終焉のない戦になりましょう。彼らは亡者ゆえ、死しても死にませぬ。憑いた体が駄目になれば、また次の体で……」

 保季の姿をした式神の顔に影が落ちる。

「しかし、一斉に祓うなど……」

できるのだろうか。春徳が危ぶんだどき。

「できる、ではなく、やるのです。皇命(すみらみこと)の神通力と、陰陽の力を以って、必ずや…!」

 保季が答えた。それはまるで、己に言い聞かせるような口調だった。

「そのために待っていたのです。ここで、貴方を」

 皇命の血。たしか知盛もそんなことを言っていた。

 ――左様。

 耳元で知盛が答えた。

 ――いかに強い怨みを抱いていようとも、世の習わしに背くことは許されぬ。本来なら私も修羅の道へ落ち、二度と舞い戻ってはならぬ身。だが水底の都に眠る一族の猛る想いを鎮めきれず、こうしてお願いに参った。力を貸していただきたい。どうか…!

 猛る知盛の想いが、直接胸に伝わってくる。

 春徳とて、元の父を取り返したいという想いがある。それに、いくら荒廃したとはいえ、京はいまだ本朝の文化の中心地であり、春徳の生まれ育った故郷でもあるのだ。

 春徳は膝に置いた拳を強く握った。

「……知盛殿、保季殿。私に京を守る力があるというのなら、その力、喜んでお貸ししよう」

 真摯な目で保季を見つめる。

 保季は頷き、真っ直ぐに春徳の目を見返した。彼らの身分差を思えばそれは異常。事態はそれほどまでに深刻だった。

「七日七晩待たれよ」

 その声を最後に、人形(ひとがた)に切り抜かれた半紙がはらはらと床に落ちる。保季の姿は、もうどこにもなかった。


                        ◆◇◆◇◆


 雨が続いている。

 この七日間、帝は一度も紫宸殿に現れなかった。それどころか、生活の場である清涼殿にも訪れず、女官たちの運んだ食事は無駄に冷えていくばかりであった。

 帝はずっと、後宮の一室に居る。

 笛の音は、止むことがなかった。少女の歌声もまた、この世を悲しみ、永遠の我が世を(こいねが)うかのように続いていた。

 その一室、常寧殿には誰も近づくことは叶わなかった。常寧殿を囲むようにして建つ、他の御殿(おとど)に住まう后や妃たちが舎人を遣って帝を呼ばっても、舎人たちは奇妙なことを言って帰ってくるばかりだ。すなわち、

「常寧殿に向かったはずが、いつの間にか通り過ぎており、いくら近づこうとも辿り着きませぬ」

 と。それは帝の側近や蔵人たちも同じであった。

 常寧殿の周囲だけが、昼もまるで夜のように暗く、それでいて幻想的な音色だけが、まるで存在証明のように聴こえてくるのだった。

 後宮に足を踏み入れた保季は、う、と呻いて思わず口元を覆った。顔をしかめる。

「彼らは何も感じぬのか…?」

 帝の不在で、皆一様に心配顔こそしているが、常と変わらぬように喋り、歩いている殿上人ら。

 辺りは、異様な臭気に包まれているというのに。

 空間の激しい歪みも生じている。人間と(あやかし)の世界との境界が、あいまいになっていた。

「…すごい力だ…。引きずられる…」

 保季はとてつもない力に自らの玉の緒が引きずり出され、吸い込まれるような感覚を覚えた。

 保季は春徳に向き直る。

「東宮様、取り急ぎ戻って参りましたが、これ以上私は近づけません。異常な数の悲哀と怨念が渦巻いて、まるで戦場跡にいるようです…。ですが、一種結界のようになったこの空間の歪みに、同じ眷属の者ならば、もしや入れるやもしれません。危険を伴う方法ですが、これから申し上げること、お許しいただけますか」

「…帝と、京とそこに住まう人々を助くためならば、私は首を横には振らぬ。この命尽きようとも、それが私の宿命と受け止め、何だってしよう」

 春徳の瞳は、確固たる意思を宿していた。若く優しき青年は、いつしか己の肉体に宿したもう一つの魂の影響を受け、逞しく変貌したようだ。

 保季は覚悟を決めて頷き、腰に下げていた刀を春徳に渡す。続いて懐から鏡、胸元から勾玉を取り出した。

「これは、いずれも朝廷に謂れのあるものに力を込め、三種の神器に模したものです」

 なるほど、七日七晩とは、これを創るための時間だったのか。受け取りながら、春徳は思う。

「急創りとは言え、甚大な力を発揮します。本当はこういうものを創ることは、禁忌の一つなのですが…」

 保季は春徳の首に、勾玉をかける。そして、

「春徳様、この剣が(すめら)の血に従うよう、(しゅ)の契約を」

 春徳は言われたとおりに剣を引き抜き、手のひらに刃を当てて軽く引く。両刃造りの刀身に、春徳の鮮血がつぅと流れ、それを吸い込んだ剣は銀色に淡く光った。その光に、懐にしまった鏡が反応する。

「これで神器は本物となりました。次は、東宮様の御身体をお借りします」

 沈痛な表情で保季が告げる。

「これから、知盛殿の御魂を東宮様の御身体に完全に憑依させます。ですが東宮様の御魂(みたま)も覚醒した状態にしておきます。ひとつの体に二つの魂が同時に存在するというのは、大変危険な状態。体力の消耗も激しいでしょう…。ですが、方法がこれしかないのです。そうして、常寧殿の中に入れたら…」

 保季は顔を上げ、東宮の容貌を仰ぎ見る。そして言った。

「帝を、この剣で貫いてください」

 春徳は目を見開き、息を飲んだ。

「みか、どを…?」

 喉が渇く。唇を動かすが、言の葉を紡ぐことは(あた)わなかった。

 察した保季は春徳の手を取り、はっきりとした口調で告げる。

「大丈夫、この剣は神剣。そして皇命(すめらみこと)を守る剣。帝を侵食している敦盛の陰魄を、帝の御身体から剥がすだけです。ですから、帝……東宮様のお父上の命は、保証いたします」

「本当に……?」

 体を刺し貫いて、命の無事など保証されるのだろうか。

 保季は頷く。

「むしろ、命の保証が出来ぬのは、東宮様の方でございます」

 自らの狩衣の胸元をぎゅっと握り、そして、

「……ご無事で」

 片手で、複雑な印を切った。

 春徳の瞳がきろりと蒼く光る。

 彼は目の高さで手を握ったり開いたりして、指が動くことを確かめた。

「…礼を言う。保季殿」

 春徳の声と重なって、別の声も告げる。

 保季は懐から呪文の書かれた半紙を数枚取り出し、

「私はここで式と共に、できるだけ邪魔者を常寧殿に近づけぬよう、全力を尽くします」

 と言って一礼した。


                       ◆◇◆◇◆


 常寧殿を、どす黒い雲のようなものが覆っていた。春徳はその中を、口元を押さえながら突き進む。そうしなければ呼吸をするたびに、異様な臭気を帯びた、何か生き物のようなモノが入り込んでくる気がしたのだ。知盛はそれを邪気と呼んだ。まつろえぬモノたちが寄り集まって出来た邪気の塊。それが境界を歪め、結果的に結界の役目を果たしているのだ。

 体が重い。黒いもやが手足に絡み付いて、行く手を阻んでいる。まとわりつく全ての声が忠告していた。

 ――ならぬ、ならぬぞ、知盛殿。開けてはならぬぞ…

 春徳はもやの力に抗って、締め切られた妻戸を引いた。

 バンッ!

 妻戸は思いもよらぬ勢いで開いた。

 とたんに内側からものすごい勢いで黒いもやが噴き出す。圧力に耐え切れず、一斉に蔀戸が開いた。

 どぅっ……!

 黒いもやは突風のように唸って、御殿を取り囲んでいた暗雲と一体化し、ぐるぐるとうねって御殿に巻きつく。知盛の目を通さなければ、ただの風としか認識しなかったであろうものが、いま、春徳にははっきりと見えている。

 ぎぃ、ぎぃと妻戸が鳴いて、手招いているように見える。

 中から笛の音が聞こえてきた。知盛はその曲を知っている。一ノ谷に張った陣営で、その晩も敦盛が舞い踊っていた宴のための曲。これが知盛の見た、彼の最期の姿となった。

「敦盛…!」

「帝!」

 二人は同口異音に叫んで、御殿へ駆け込んだ。廂を抜け、襖障子を開け放つ。

「帝!」

 春徳は精一杯の力で父を呼んだ。

 暗がりの中で女を抱く束帯姿の男が、ゆうらりと視線をこちらへ向けた。口元に竜笛を構え、その(かいな)に少女を収めている。少女の赤い小袿が、仄暗い闇の中でやけに鮮明に映えていた。

 笛の音が止み、男が口を開いた。

「私を連れ戻しに来たか、兄者」

 その声は空間を揺るがし、周囲の邪気を呼び込む。

 春徳は敦盛と対峙する。

「私の父の体、いや、この国の現人神たる帝の(おん)身体、返していただこう」

 臆することなく妖しの者に告げると、敦盛は帝の双眸で、東宮春徳を睨み据えた。

「裏切り者の神の子が戯れ言など、従うに足りぬ。思うが侭に我らを操り、平氏一門を官賊に貶めた血の者が、何を以って神と名乗る」


  そよや、こ柳によな、下がり藤の花やな……


 少女は二人の会話などまるで気付かぬように、敦盛の腕の中で呟くように歌っていた。

「玉姫か」

 知盛の声が訊く。

 少女は恍惚の表情を浮かべ、敦盛に寄り添う。知盛の声は聞かない。ただ、歌う。

「敦盛よ、我らが官賊となりしは、驕り高ぶりが過ぎたため。帝や院の戯れにあらず、全ては八百万の神、御仏の天罰によるもの。己の宿業を受け入れず、怨み悲しみにのみ心を委ね続けると、己自身の消滅の道を歩むことになろうぞ」

 知盛が敦盛を諌める。

 敦盛は勝気な笑みを口元に浮かべ、言った。

「消滅? 兄者、面白いことを仰る。私は今、失ったはずの陽魂と新たな体を手に入れた。この体と、生きたる魂があれば恐るるものは何もない。笛を奏でることも、若葉を存分に抱いてやることもできる。そして、憎き朝廷や鎌倉の権力を滅ぼすことも」

「ならぬ! ならぬぞ、敦盛。宿業を受け入れよ。ここはもう我らの住む世界ではない。これ以上正しき(とき)を歪めてはならぬのだ。ここは耐え、皆を連れて、海の都に戻ろうぞ」

 さぁ、と知盛が手を差し出す。その手から、ふぅわりと春の風が流れ出た。

  いゃあぁぁぁあぁぁっ!

 その風に触れたとたん、玉姫が絶叫を上げる。

「もう離れ離れになるのは厭! 祈っても祈っても叶わなかった願い……ならば、私たちを引き裂く全てのものは、滅んでしまえばいい! 一縷の希望も神仏は与えて下さらぬのなら、やっと再び相見えたこの幸せを邪魔するものは、全て業火に焼かれればいい!」

「その幸せが、まがい物だとしても…?」

 知盛は真っ直ぐ玉姫の目を見つめて問う。

「まがい物であるものか」

 答えたのは敦盛だった。

「やっと出逢えたこの(えにし)、捨てとうはない。この体は怨めしくも有難き(すめらぎ)。若葉は我が玉女(ぎょくにょ)。この二つがあれば、平家一門の理想郷を作ることとて容易(たやす)い」

「なぜそれほどまでに人を憎む」

 今度は春徳が問いかける。

「敦盛殿、憎むべきは、人ではない。天皇家でも、源氏でもなく、真に憎むべきは、戦いの世、それだけなのだ」

 平安末期の世を駆け抜けた幾千の武士(もののふ)たちの戦乱の記憶が知盛を通して、春徳の脳裡に流れ込んでくる。

 春徳はぽつり、ぽつりと歌い出す。

  

  祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

  沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を表す

 

 やがてその声は朗々と響く歌声になって。

  

  驕れる者も久しからず ただ春の夜の夢の如し

  猛き者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ

  遠く異朝を訪へば……

 

 一人の少年に教え諭すように、朗々と歌う。それは戦死者たちへの鎮魂歌。荒ぶる御魂を天へ帰す、祈りの歌。

 知盛が泣いている。春徳の眼から、涙が溢れた。

 歌いながら、春徳は両刃の剣を構える。もうひとつの草薙剣(クサナギノツルギ)として創られたそれは、鞘から抜くと同時に、辺りに立ち込めていたもやを一瞬にして吸い込んだ。いや、神気でなぎ払ったのか。

「…そんな…莫迦な…」

 敦盛は瞠目する。

「帰ろうぞ、敦盛。玉姫も連れてなぁ」

 知盛は少年に、にっこりと笑いかけた。

 そうして春徳は、剣先を敦盛の陰魄を宿した帝に向ける。

「父上、伊勢の神、私をお許し下さい」

 春徳は呟いた。父殺しは五大の罪。神殺しは最大の罪。この国の現人神である今上天皇の体を剣で貫くなど、許されざる行い。そして宝剣をそれに使うことも、宝剣そのものを創り出してしまったことも。

 同刻、後宮全体に五芒星の結界を張り、取り囲んで悪しき者から守っていた保季は、二本の指を唇に当て、呪文を唱え続けたまま、冥土に住まう者に許しを乞うた。

「晴明殿……禁忌の術、どうかお赦しを…」

 きぃぃぃん……

 耳鳴りのような音。保季が唱える文言と、春徳の持つ剣が共鳴している。

 太古から紡がれてきた、様々な宿世(すくせ)。それらは時と共に複雑に絡み合い、人と人との関係に、様々な因果をもたらしてきた。時に喜び合い、時に戦い、そして悲しみ。全ての縁が幸福の糸で繋がれることなど、ないのかもしれない。それでも人は来世の邂逅(かいこう)のため、乗り越えなくてはならない。幾千の怒りと、悲しみを。

 怒り、悲しみ。それらは全て、誰かを愛し、何かを守ろうとする心から生まれ出る感情。ならば愛しき者たちを守るために、今度はそれを葬ろう。

「何を…」

 敦盛の瞳が、恐怖に見開かれる。

「やめろ…、私は、俺は、いやだ…、離れぬ! 俺は平家を…!」

(てて)様…」

 零れ落ちる涙そのままに、春徳は微笑み、抱き合う女ごと帝を貫いた。どす黒い暗雲のようなものが帝の身体から迸り出で、しかしそれは幻か、一瞬にして消え去った。赤い小袿は鳥になり、美しく鳴いて消えてゆく。

 やがて。

「……ハル、ノリ…?」

 懐かしい声が掠れつつ、我が子の名を呼ぶ。黒曜石の穏やかな双眸が、春徳に力なく笑いかけた。そのままゆるりと瞼が閉じられてゆく。

「帝?! 帝! 父上!」

 くず折れる帝の体を受け止め、そのまま座り込む。

「案じなさるな。元々一つだったものを引き剥がされた衝撃で、気を失っているだけです」

 その声にはっと振り返れば、南廂に保季が立っていた。

「敦盛と、玉姫は?!」

 帝を腕に抱えたまま、春徳は問うた。

 保季はくっくと目を細くして笑い、爪の鋭く尖った指で春徳の胸元を指差した。

「そこに」

「えっ?」

 直衣の胸元を探れば、黒く光る鏡。

「これに…」

「そう、それが道となり、皆壇ノ浦へ送られました」

 鏡は、世界を映すもの。また、世界を繋ぐもの。

 常とは異なる野分に揺り起こされた荒ぶる御魂は、遠く長門の海に沈む本物の神宝(かんだから)と空間を繋いだ春徳の鏡を通じ、還っていった。

「さぁ、知盛殿も」

 そう言って保季は春徳から鏡を受け取った。

 保季が短い呪言を唱えると、春徳は体から、すぅっと何かが抜け出ていくのを感じた。

 ――世話になった。

 礼を言う知盛の姿は、もう春徳には見えない。

 保季が知盛に鏡を掲げ、言った。

「水底の都へ戻られたら、そこに眠る鏡とこれを、合わせ鏡にして封印してください。そしてあなたが、長門の国の海守(うみもり)に」

 保季は印を結んで何事か唱える。

 ――承知仕った。

 声と共に鏡は消え、春徳の手にした剣も、ぽぅっと淡い色を発して土塊(つちくれ)と化した。首にかけた勾玉がぱきんと小さな音を立てて割れる。

 内裏の頭上に、みるみるうちに青空が広がった。

 黒雲が引いてゆき、天照が顔を出す。雨上がりの後宮の庭に、見事な虹が架かった。あれが和琴なら、さぞや美しい音色を奏でるのだろう。

 春徳は歌う。


  瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の


 不遇の死を遂げた近い祖の歌だ。

 腕の中で瞼を開いた現人神たる青年は、逞しくなった我が子を見上げた。きっと、変わらないのだ。どの時代も、人が人を想う気持ちというものは。それは皇の子も武士の子も、民の子も同じ。

「では、私はこれにて」

 声に気付いて春徳が振り返ったころには、陰陽師の姿はどこにもなかった。

 春徳の腕から離れて立ち上がった帝は、南廂へ歩を進め、急に晴れ渡った青空を見上げた。

「…皇の血は、贖いきれぬ歴史を作り出してしまったのやもしれぬ……」

 ひとりごちた声は、春徳には届かない。

 真に罪深きは神の血族か。帝はそう思わずにはいられない。戦いのない、平安な世にするために授かった、国を統べる力。しかしその力の犠牲となったものは数知れない。歴史は繰り返す。幾度京を移ろうと、幾度戦を鎮めようと、秋の次にはまた冬が巡ってくるように、人の過ちは永遠に()む事はない。

 ただ愛しき者を守るため、履き(たが)えた愛情が人を傷つけてゆく。

 野分の終焉を告げる風が吹けば、秋はもう間近だ。

「帝」

 東宮の呼ぶ声に、帝は穏やかな顔で振り向いた。

「蔵人が呼んでおります」

「いま行こう」

 帝は紫宸殿へと足を向けた。

 

 そう遠くない未来、鎌倉を裏切り朝廷にすら仇なし、新しき都を作らんとする運命を背負った青年が、この世に生を受ける。

しかしそれはやはり、まだ少し先の話――。


                       ◆◇◆◇◆


 笛の音が響く。

 これは、野分の一月前の月の夜。

 若葉と名づけられた竜笛は、ひとりでに楽を奏でる。

 否、吹いているのは首のない武者。

 とある武家の祖を祀った神社の鳥居に凭れて、汗衫を纏った女童(めのわらわ)が言った。

「上手ね、千幡」

 と。


   完

 歴史は、視点を変えれば善悪がまるで変わってしまいます。それで朝敵となってしまった英雄や、英雄となった罪人は大勢います。ならば、現在多くの日本人に好まれている者たちを悪役にしたらどうなるだろう、と思ったのがこの小説を書くことになったきっかけです。

 敦盛を選んだのは、私が最初に好きになった歴史上の人物だからです。中学の国語便覧での出会いでした。

 ちなみに、玉姫の名は能「敦盛」の玉織姫よりとっています。春徳はモデルにした皇子こそいますが、全くの創作です。ですので史実とは捉えず、史実と史実の間にこの話をねじ込むような感覚で読んでいただければと思います。

 長い時間お付き合いくださいましてありがとうございました。ご意見ご感想、ご指摘等ございましたらお願い致します。

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― 新着の感想 ―
[一言] 「壇ノ浦に、生暖かい風が吹いた。」を冒頭に持ってきたら、この一言で、やや難解なこの小説全体のシチュエーションがまず定義づけられて分かりやすくなるのでは? このように冒頭に「ガツン」とくらわす…
2007/04/21 10:39 日本海は春色
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