消し残し
いつかの改稿です。
地下道の壁に「死ね」と書かれた翌日、その二歩ほど隣に「生きろ」が増えていた。
どちらも黒い油性塗料で、最後の一画が少し右に跳ねている。私には同じ人間が書いたように見えたが、そんなことを推理したところで仕事が早く終わるわけではない。市から委託を受けた清掃会社の作業員として、私は二つとも消さなければならなかった。
「最近は忙しいねえ。先週は『愛してる』だったし」
隣で道具箱を開けていたAが言った。六十二歳の彼女は、この仕事を始めてから一度も病欠していないらしい。私が小さなブラシを取り出すと、Aは薬剤の容器をこちらへ寄せてくれた。
「愛してる、はどうなったんでしたっけ」
「消したよ。恋愛の邪魔をするみたいで嫌だったけどね。市の壁だから仕方ない」
「今日のは、どちらから消しましょう」
「手前からでいいよ。いい言葉だから残しておこうっていうわけにもいかないしね」
私は「死ね」のほうにブラシを当てた。薬剤を含んだ泡が黒く濁り、流れ落ちたところに細い筋を残していく。文字は書くより消すほうがずっと時間がかかった。
私にはもう一つ、文字に関係する習慣があった。帰宅して夕食を済ませると、古いノートパソコンを開き、投稿サイトに小説を書く。金になるわけではないし、仕事に役立つわけでもない。始めた理由を聞かれたら困るが、やめる理由なら、毎日いくらでも見つかった。
前の晩もそうだった。
半年かけて書いた短編に、三つの感想が届いた。一つ目は「話がありきたり」。二つ目は「登場人物の気持ちが分からない」。三つ目は、もう少し長かった。
『こんな文章に何日もかけているなら、生成AIに書かせたほうがいいと思います。そちらのほうがよほど人間らしいです。』
おかしな話である。私が必死に書いたものは人間らしくなく、機械に書かせたもののほうが人間らしいという。だが、感想を読んだあと、私は笑わなかった。笑えなかったと言うべきかもしれない。
試しに、文章を生成AIに整えてもらった。言い回しは滑らかになり、会話もほどよく弾み、何を書きたいのか分からなくなっていた箇所まで、きれいにまとまった。読み比べると、確かに向こうのほうが読みやすい。悔しいことに、私自身そう思った。
私は画面の前で、しばらく自分の原稿を開けずにいた。
好きで書いているのなら、他人が何を言っても気にしなければいい。そう言う人がいる。私はそんなふうに割り切れる人間を尊敬するが、自分がそうなれるとは思えなかった。読んでほしいと願って公開している以上、読んだ人の言葉を気にしないというのは、なかなか難しい。
しかも、人から悪く言われる資格がないほど、私自身が立派な人間だったわけでもない。
数年前、人気のある作品を読んで腹を立て、匿名の感想欄に嫌味を書いたことがある。文章の好みが合わなかったのは本当だが、それだけではなかった。自分が何か月もかけて書いた作品より、軽やかに読めるその作品が何倍も評価されていることが、どうにも面白くなかったのである。
送信したあと、胸がすっとしたのを覚えている。その感覚が、今でも嫌だった。私は誰かに傷つけられるのが怖いくせに、他人の傷には鈍かった。
「そこ、まだ残ってるよ」
Aの声で我に返った。黒い塗料を落としたつもりの壁に、「ね」の曲がった最後の線だけが薄く残っている。作業は始まったばかりなのに、私はすっかり疲れていた。
「すみません。考え事をしてました」
「考えててもいいけど、換気はしてね。薬剤のにおいを吸いすぎると、あとで頭が痛くなるから」
Aは私の顔を一度見ただけで、余計なことは聞かなかった。そういうところがありがたいと思う日もあれば、何も聞かれないことが寂しい日もある。自分の都合のよさに、私はまた少しうんざりした。
正午近くになって、二つの言葉はほとんど見えなくなった。壁には少し色の違う四角い部分が残ったが、古い地下道に真新しい白さを求める人はいない。Aと私は道具を片づけ、駅前のパン屋で買ったサンドイッチを食べた。
「小説、どうなった?」
Aは包装紙を膝に広げながら、何でもないように尋ねた。私が小説を書いていることを知るのは、職場では彼女だけだった。
「読んでもらえたみたいです。あんまり評判はよくないですけど」
「読んでくれたなら、いいじゃない」
「読んだうえで、ひどいことも言われるんですよ」
「そりゃ嫌だね」
Aはそれ以上、慰めようとしなかった。口の端についたパンくずを指で取って、紙袋に包んだ。
「私も昔、息子に『お母さんの料理はまずい』って言われてね。そりゃあ怒ったよ。実際まずい日もあったんだけど、そういう問題じゃないから」
「それで、料理をやめたんですか」
「まさか。次の日はあの子に作らせた。親子で食べたら、もっとまずかったよ」
思わず笑ってしまった。
「でもね、だからって、私の料理がうまくなったわけでもないんだよ」
そこまで言って、Aは残りのサンドイッチを食べた。励まされたのかどうか分からなかったが、午前中よりは少しだけ楽に息ができた。
翌週、同じ地下道にまた落書きがあった。
今度は「ごめん」と書かれていた。黒い字は前より小さく、目立たない柱の裏側に、ひどく窮屈そうに収まっている。私たちが薬剤を準備していると、階段の上から一人の少年が降りてきた。
学生服の上に薄い上着を着て、肩からくたびれた鞄を下げている。少年は私たちを見ると足を止めたが、引き返そうとはしなかった。
「あの、すみません」
「通るなら、向こう側を歩いてね。滑りやすいから」
「違うんです。それ、僕が書きました」
Aがゆっくり顔を上げた。少年は濡れた靴の先を見つめたまま、壁を指さした。
「『ごめん』も、その前のも?」と私が聞いた。
「はい。最初は『死ね』って書きました。そのあと『生きろ』って書いて、今度は謝ろうと思ったんです」
「誰に?」
「……自分に、です」
私は返事に困った。少年は、私よりずっと若い顔をしていた。その表情から、何があったのかまでは分からない。私は聞いてみたいと思ったが、好奇心で誰かの事情に踏み込むことを、親切と呼んでいいのか迷った。
少年は続きを話した。
「先週、もう全部嫌だと思って、それで書きました。でも次の日、朝になったら怖くなって。あんなことを書いた自分が嫌で、『生きろ』って書き直したんです。書き直したつもりだったけど、隣に増やしただけで……」
彼はそこで言葉を切り、唇をかんだ。
「昨日、ここを通ったら、両方消えていました。だから、謝りたくなって」
私は壁を見た。何も知らない人が通れば、そこには誰かを傷つける言葉と励ます言葉が、別々に存在していたはずだった。少年が両方とも自分へ向けて書いたという事情は、文字のどこにも書いていない。
「自分に向けた言葉でも、ここを通ったほかの人が読むんだよ」と私は言った。
「『死ね』を見て傷つく人もいる。『生きろ』と言われるのがつらい人だっているかもしれない。君が何を考えていたかとは別に、壁に書いたことはよくなかったと思う」
少年は小さく頷いた。しばらくして「はい」と答えたが、その声はほとんど聞こえなかった。
「だったら、謝るだけじゃ足りないね」
Aがしゃがんだまま言った。少年の肩がびくりと動く。
「まず会社の人に事情を話そう。ここは市の管理だから、私たちだけで済ませることはできない。それから、できることがあればちゃんと手伝ってもらう。何を書いたかより、書いたあとにどうするかだよ」
「……はい」
Aは静かに頷き、作業用の手袋を外した。責任者に電話をかけるために階段を上がっていく後ろ姿を見送りながら、少年と私はしばらく黙っていた。
「どうして、あなたは消すんですか」
少年が不意に尋ねた。
「仕事だから」
「そうですよね」
「それに、消さなきゃ次に書く人が困るかもしれないだろう」
自分でも、変なことを言ったと思った。壁は落書きをするためのものではないし、私が次の落書きを待っているように聞こえてしまう。少年も不思議そうな顔をしたので、私は言い直した。
「次にここを歩く人、って意味だよ」
少年は少しだけ笑った。その笑顔が本当なのか、ただ私に気を遣ったのか、私には判断できなかった。
何もかもを知る必要はないのだと思ったが、それで分かったつもりになることも違う気がした。
その日の夜、私は小説の原稿を直すためにノートパソコンを開いた。
机の隅には、水の入ったコップと、買ってきたまま開けていない菓子パンがある。洗ったはずの指の爪の間には、黒い塗料がほんの少し残っていた。こすっても落ちないので、そのままキーボードに手を置いた。
投稿サイトには、また感想が増えていた。
『主人公が最後に何を選んだのか、よく分かりませんでした。』
以前なら、この文章も自分を否定する言葉に見えただろう。けれど、その夜は少し違って読めた。書いた人は、結末まで読んでくれたからこそ、分からなかったと言っているのかもしれない。もちろん、皮肉のつもりだった可能性もある。画面の向こうの人間について、私に分かることは少なかった。
原稿の末尾を読み返してみると、確かに主人公は何も選んでいない。周囲の人々が都合よく動き、最後には彼だけが立派な顔をしていた。私は彼のことを好きだったのに、大事なところで責任を負わせるのを怖がっていたらしい。
自分の書いた人物にさえ、嫌われることを恐れていたのだろうか。
私は一度笑ってから、最後の二ページを削除した。
すると、何もない白い画面が残った。
その白さを見ているうちに、昼間の少年のことを思い出した。彼がどんな事情で壁に言葉を書いたのか、私は詳しく聞かなかった。そこには私の知らない生活があり、私には説明できない痛みがあるのだろう。それを勝手に借りて、感動的な物語に仕立てれば、人に読んでもらえるかもしれない。そんな考えが一瞬頭をよぎり、私は自分のことが少し嫌になった。
書くことは、案外きれいな仕事ではない。
人の生活を眺め、言葉を拾い、自分の都合のいい形に並べる。悪い人間を描いたつもりが自分の言い訳になり、優しい人間を描いたつもりが誰かを責める話になることもある。心を込めれば正しくなるわけでもなく、苦しんで書いたからといって面白くなる保証もない。
それでも私は、続きを書くことにした。
生成AIが整えてくれた文章は、別の画面に残してあった。読みやすい箇所もあったし、自分では思いつかなかった言い回しもある。道具を使うことと、道具に自分の判断を預けることは、同じではないだろう。けれど今夜の結末だけは、誰かに決めてもらいたくなかった。
主人公は自分の過ちを認める。許してもらえるとは限らない。それでも、明日の約束には遅れずに行く。その先で何が起きるのかは、まだ分からない。
一行書き、二行戻り、気に入らない言葉を消して、また書いた。ずいぶん時間がかかったわりに、完成した文章は驚くほど地味だった。以前のように評価されるかもしれないし、もっとひどく言われるかもしれない。私はそれを知ったうえで、修正を公開するボタンを押した。
翌朝、直した話を読みに来る人はほとんどいなかった。
少しがっかりした。それから朝食を食べ、作業着に着替えた。昨日より早く家を出たのは、地下道の向こうにある銀杏が、そろそろ黄色くなるころだと思い出したからだった。
一週間後、壁に残っていた「ごめん」の文字はきれいに消えていた。
少年は保護者とともに市の担当者へ謝罪し、決められた手続きの中で清掃も手伝ったらしい。私が休みの日だったので、その様子を直接見ることはなかった。Aによれば、あまり器用ではなかったが、最後まで黙ってブラシを動かしていたという。
私はそれでよかったと思った。少年がこの先どんな人間になるかなど、今の私には分からない。私自身がこれからどんな人間でいられるかさえ、怪しいのだから。
地下道の壁には、三つの言葉があった場所だけ、四角く薄い跡が残っていた。雨水の染みも、靴の泥も、毎日少しずつ増えている。どれほど掃除しても、この町が完全にきれいになる日は来ないだろう。
「残っちゃったねえ」
Aが壁を見て言った。
「もう一度洗いますか」
「いや、今日はいいよ。あんた、昨夜はちゃんと寝たの?」
「少しだけ。書いていたら遅くなってしまって」
「また小説?」
「はい。前の話を直したら、次の話も書きたくなりまして」
Aは呆れたように笑い、道具箱のふたを閉めた。私は壁に残った薄い四角を眺めていた。消し残しを見つければ、いつもなら気になって仕方がないのに、その日は不思議と腹が立たなかった。
「そんなに書いて、何になるんだろうねえ」
Aの声には、からかうような響きがあった。私は少し考えたが、うまい答えは見つからなかった。
「分かりません。大したものには、ならないかもしれませんね」
「そうかい。じゃあ、今夜も書くの?」
「ええ。今夜も書きます」
私は、AIを否定したいわけではありません。心の中に物語があっても、それをうまく文章にできない人はいます。AIによって、そうした人たちも自分の物語を誰かに届けられるようになった。それは、とても素晴らしいことだと思います。
ただ、どんなに時代が変わっても、誰かに何かを伝えようとする気持ちだけは、大切にされてほしいと思っています。
人間は、決してきれいな生き物ではありません。誰かを傷つけ、傷つけられ、時には自分の矛盾にさえ気づかずに生きています。
それでも、私は人が言葉を紡ぐことに意味があると信じたい。
何が正しいのか、今の私にも分かりません。
ただ、これからも書き続けたいと思います。




