姉の身代わりで嫁いだら、旦那さまも兄の身代わりでした
ヴェールの下には、別の顔がありました。――ふたりとも。
婚礼の朝、姉のカタリナが消えた。
残っていたのは、鏡台の上の手紙が一枚だけだった。
――ハンナへ。ごめんなさい。好きな人がいるの。あとはお願い。
お願い、と言われても、とハンナは思った。
今日の昼、カタリナは、辺境伯家の跡取りアドリアンさまに嫁ぐことになっていた。相手は国境を守る名家で、子爵家のわが家からすれば、願ってもない縁談だった。父は朝から、青い顔で部屋の中を歩き回っていた。
「ハンナ」
父が、ぴたりと足を止めた。
「おまえとカタリナは、背格好が同じだな」
「……お父さま、まさか」
「婚礼のヴェールは、長いものを用意してある」
父は、ハンナの両肩をつかんだ。その手が、小刻みに震えていた。
「今日だけでいい。カタリナが戻るまでのあいだだけ」
今日だけで済むはずがない、とハンナは思った。
でも、震えている父の手を、ふりほどくことはできなかった。
◇
婚礼は、驚くほど何事もなく終わった。
厚いヴェールのせいで、ハンナには足もとしか見えなかった。誓いの言葉は、小さな声で言った。隣に立った花婿の声も、なぜか、同じくらい小さかった。
辺境伯家の屋敷は、王都から馬車で二日の、山あいの城だった。
その夜。
寝室の扉が閉まると、ハンナは、寝台の前で深く息を吸った。
(言わなきゃ)
いつまでも隠しとおせるはずがない。顔を見られたら、すぐに分かる。アドリアンさまは、姉と一度だけ会っているのだ。
ハンナは、ヴェールを外した。
「あの……アドリアンさま。申し訳ありません。わたし、カタリナではありません。妹の、ハンナです」
頭を下げたまま、ぎゅっと目をつぶった。怒鳴られるか。追い出されるか。
返事は、なかなか来なかった。
おそるおそる顔を上げると、花婿は、窓ぎわで、両手で顔をおおっていた。
「……あの?」
「すまない」
くぐもった声がした。
「私も、アドリアンではないんだ」
ハンナは、口を開けたまま、固まった。
花婿が、手を下ろした。黒い髪の、穏やかな顔の青年だった。たしかに、姉から聞いていた「金髪で背の高い、自信たっぷりの方」とは、どこもかしこもちがっていた。
「弟の、ラウルだ。兄は今朝、手紙を一枚残して、いなくなった」
「……手紙」
「好きな人がいる。あとは頼む、と」
ハンナは、鏡台の上の手紙を思い出した。
好きな人がいるの。あとはお願い。
「あの」
ハンナは、そっと聞いた。
「お兄さまが、好きな人というのは、どなたか、ご存じですか」
「名前までは。ただ、子爵家の令嬢だと」
部屋の中が、しんとした。
ハンナとラウルは、同時に、同じことに気づいた。
「……まさか」
「……まさか、ですよね」
◇
まさか、だった。
三日後、辺境伯家に、一通の手紙が届いた。差出人の名前は、二つ並んでいた。アドリアンと、カタリナ。
――驚かせてごめん。舞踏会で一度会って、ふたりとも、決められた結婚の相手より、お互いのほうがいいと思ってしまった。南の港町で、ふたりで暮らします。家のことは、本当に申し訳ない。でも、ラウルとハンナなら、きっとうまくやれると思う。
「きっとうまくやれると思う、じゃないわよ……」
ハンナは、手紙を握りしめて、ため息をついた。
向かいの椅子で、ラウルも、同じように頭をかかえていた。
「兄は、昔からこうなんだ。決めたら、まわりを見ない」
「姉もです。昔から、好きなものを見つけると、まっすぐ走っていってしまって」
「……似たもの同士だったんだな」
「……似たもの同士だったんですね」
ふたりで、顔を見合わせた。
それから、どちらからともなく、小さく吹き出した。
◇
困ったのは、そのあとだった。
辺境伯家の当主、つまり兄弟の父は、病で長く伏せっていた。跡取りが駆け落ちしたと知れば、体にさわる。ハンナの父も、子爵家の評判を何より気にする人だった。
「しばらくは、このままでいるしかない」
ラウルが言った。
「私はアドリアンとして、君はカタリナとして。……父の具合が落ち着くまで」
「お芝居、ですね」
「そうなる。すまない」
「いいえ」
ハンナは、首を横に振った。
「わたしも、父を困らせたくありませんから」
こうして、身代わり同士の、奇妙な暮らしがはじまった。
昼間は、屋敷の人たちの前で「アドリアンさま」「カタリナ」と呼び合う。でも、夜、ふたりきりになると、ラウルとハンナに戻る。
お芝居は、思っていたより、ずっと大変だった。
ラウルは、兄のように自信たっぷりにふるまうのが苦手だった。家臣の前で胸を張ろうとして、毎回、少しだけ声が裏返る。ハンナは、姉のように華やかに笑うのが苦手だった。夜会の招待状を見ただけで、胃のあたりが痛くなる。
「アドリアンさまは、もっと大きな声で笑う方だと聞いています」
「カタリナ嬢は、もっと派手なドレスを好むと聞いている」
夜、暖炉の前で、ふたりはお互いの「役作り」に、真剣に口を出し合った。
「はっはっは、と笑ってみてください」
「は、はっはっは」
「……だめです。笑っているように聞こえません」
「君こそ、その地味な灰色のドレスは、カタリナ嬢には見えない」
「これが一番落ち着くんです」
「知っている。……君には、よく似合っている」
ハンナは、手に持っていたお茶をこぼしそうになった。
ラウルは、言ってから自分で驚いたような顔をして、暖炉の火のほうを向いた。耳が、少し赤かった。
◇
ひと月がたった。
ハンナは、少しずつ気づいていった。
ラウルは、兄のふりをするのが下手だった。けれど、領地のことは、だれよりもよく知っていた。どの村で麦が不作だったか。どの橋が古くなっているか。家臣たちは、はじめは「跡取りさまは、ずいぶん穏やかになられた」と首をかしげていたが、そのうち、何でもラウルに相談に来るようになった。
ラウルも、気づいていた。
ハンナは、姉のふりをするのが下手だった。けれど、病に伏せる当主の部屋に、毎日、温かいスープを運んでいた。何も言わずに窓を開けて、風を入れて、花を替えて帰ってくる。当主は、近ごろ、少しずつ食事をとるようになっていた。
ある夜、暖炉の前で、ラウルが言った。
「父が、今日、私を呼んだ」
「お加減は」
「ずいぶんいい。それで……言われた」
ラウルは、少しだけ笑った。
「『おまえはアドリアンではないな』と」
ハンナは、息をのんだ。
「ばれて、いたんですか」
「最初の日から、だそうだ。父親が、息子の顔を見まちがえるはずがない、と。……それから、こうも言われた。『嫁御も、カタリナ嬢ではあるまい』」
「……全部、ですね」
「全部だ」
ラウルは、暖炉の火を見つめた。
「父は、怒っていなかった。アドリアンには、もともと、ここを継ぐ気がなかったのだろう、と。……それで、聞かれた。おまえは、どうしたいのか、と」
ハンナは、膝の上で、手を握った。
「なんと、お答えしたんですか」
ラウルは、ハンナのほうに向き直った。
ひと月前、婚礼の夜に、窓ぎわで顔をおおっていた青年とは、少しちがう顔をしていた。
「ここを継ぎたい、と答えた。兄のふりではなく、ラウルとして。……それから」
ラウルは、一度、言葉を切った。
「隣にいてほしい人がいる、とも言った。カタリナ嬢のふりをしている人ではなく、灰色のドレスが一番落ち着く人に」
暖炉の薪が、ぱちりと鳴った。
ハンナは、しばらく何も言えなかった。胸の奥が、暖炉の火よりも熱かった。
やっと出てきた声は、自分でも驚くほど小さかった。
「……わたしも、ひとつ、お芝居をやめていいですか」
「何だ」
「はっはっは、と笑うアドリアンさまより、声が裏返るラウルさまのほうが、ずっと好きです」
ラウルの耳が、ゆっくりと赤くなった。
◇
春になって、辺境伯家は、ひとつの知らせを出した。
跡取りは、長男アドリアンから、次男ラウルに改める。そして、ラウルの妻は、子爵家の次女ハンナである、と。
国じゅうの貴族が首をかしげた。けれど、その知らせのあとに、南の港町から、もう一通の手紙が届いた。
――ふたりとも、おめでとう。こっちは毎日、魚ばかり食べています。いつか、四人で、答え合わせをしましょう。
ハンナは、その手紙を、ラウルと並んで読んだ。
「答え合わせ、だそうです」
「兄らしい言い方だ」
ラウルは、手紙をたたんで、ハンナの手に返した。
「そのときは、私から言おう。……身代わりで来てくれたのが、君でよかった、と」
ハンナは、手紙を胸に抱いて、笑った。
婚礼の日にかぶった、あの厚いヴェールのことを思い出した。
あの下には、別の顔があった。
ふたりとも。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
姉の身代わりで嫁いだら、旦那さまも兄の身代わりだった――というお話でした。ヴェールの下の顔がちがったのは、ふたりとも。駆け落ちした兄と姉は、たぶん南の港町で、今日も魚を食べています。
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