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売れない絵描きと死にたいお嬢さんの話

作者: とある追憶
掲載日:2026/04/03

売れない絵描きと死にたいお嬢さんの話




古い革職人街の一角、石畳の通りから少し奥まった場所に、その画廊はあった。

深い赤の壁布が隅々まで張り巡らされ、絵画を包み込むようにして展示されている。

飾り気のない細い木枠、あるいは無枠のまま大胆に掛けられたキャンバス。マックス・リーバーマンやロヴィス・コリントの力強い筆致が、壁という壁に息づいていた。

窓の外には首都の喧騒が遠く聞こえるが、ここだけは新しい芸術の息吹が静かに脈打っていた。

口髭を蓄えた画商が、口元に柔らかく笑みを浮かべつつ、静かに口を開いた。

「いやあ、これは売れないね」

その声が、一瞬なんだか遅れて耳に届いた気がした。

エドガー・ホーエンフェルダー、十八歳。

画家志望。

右手にスケッチブック、左手にキャンバスを携え勇み足で店の奥へと通されたのがつい三分前である。

現実は思ったよりも早く、はっきりとした声で訪れた。

「腕はあると思いますよ」

店主はパラパラとスケッチブックを捲りながら言う。

「ただ、今は……写実はね」

「……はあ」

つい、そんな曖昧な相槌が漏れる。

紙の擦れる音が妙に大きく響いた。何か言いたいのに言葉が出てこないまま、店主の手元だけを見つめる。

「ほら、今は写真機なんてものがずいぶん普及し始めたからね」

「似ているだけの絵は、写真で足りてしまう時代だ」

「…………。」

「写真のほうが安くて正確だしね」

その言葉は予想していたようで、まるで思いもしなかったような響きだった。

『需要がない』。

店主の口から発せられたその言葉はあまりにも軽くて、けれど自分にとってはあまりにも重かった。

膝に置いた手に無意識に力が入っているのに気付いて、咄嗟に手を緩める。呼吸を整えようと胸いっぱいに息を吸っても、喉の奥のひきつれた感覚は消えてくれない。

「いやあ、時代が悪かったね」

その言葉に、思わず天を仰ぎそうになった。

あまりに朗らかに言うものだから、こちらの理解がいまいち追いつかない。

褒められているのか貶されているのか……いや、たぶん前者だと思いたい。

店主はエドガーにスケッチブックを返しながら、ふと思い出したように言った。

「ああ、そういえば知り合いの雑誌の編集者がノヴェレに使う挿絵のイラストレーターを募集してるんだ。それなら紹介できなくも——」

何気ない調子のその言葉に、エドガーは一瞬だけ目を見開く。

娯楽小説の挿絵の仕事。

このまま話に乗れば、すぐにも名前が紙面に載るかもしれない。

文章に添えられる絵は、確かに人目に触れる機会も多い。名を売るには、悪くない話だった。

だが——。

「いえ、結構です。ありがとうございました」

ぎこちなく笑いながら、彼は小さく首を横に振った。

それはプライドだったのか、意地だったのかはよくわからない。

「また来ます」

そう言って、画廊を後にした。



ドアが背後で閉まると、石畳の路地には昼下がりの光が静かに伸びていた。

欠点を指摘されたわけではない。酷評を受けたのならまだ直しようもあっただろう。

けれど、ただ、時代に合わないと——。

確かにそうかもしれない。

流行とは、常に目まぐるしく移ろうものだ。誰もがスマートに洗練された線を好み、抽象化された情感を求める。リアリズムなんて、もはや美術館の中の手法なのだろう。

(けれど、あるはずなんだ。絵でしか表現できない何かが——)

「…………。」

……なんて、ご大層な題目を唱えていたところで食いっぱぐれてりゃあ世話がない。

写実派の美学?

画家としての矜持?

生きていく上で大事なのはまず金だろ、金。

(……やっぱさっきの話、断らなきゃ良かったかも)

そんな小さな後悔が浮かんだが今更だった。

それに、納得のいかない仕事でいい絵が描けるとも思えない。筆を握る自分が、心のどこかでその絵を否定してしまいそうで怖かった。

ふと、視界の端に白いものが舞った。

「………雪だ」

顔を上げると、鉛色の空から静かに真っ白な欠片が降ってくる。

吐いた息が白く滲んで、冬の匂いが鼻をかすめた。

どうりで寒いと思った。

(都会にも、雪は降るんだな)

……そりゃそうだ。俺が生まれ育った村から、ここ首都までは汽車で半日。たったそれだけの距離なのだから、気候がまるで違うはずもない。

それでも、やはり季節は巡るものなのだと——なんだか身に迫るものを感じて、胸の底が鈍く軋んだ。

そのとき、石畳の向こうから響いてきた規則正しい靴音。

紺の詰襟、先の尖った革の兜。帝国陸軍の兵士たちだ。エドガーは無意識に道の端へと身を寄せた。

行進の列は規律正しく、黙々と目の前を通り過ぎていく。すれ違うたびに雪を巻き上げるように風が生まれ、その冷たさがコートの隙間から忍び込んだ。

(……あと二年)

目の前の兵士たちの隊服が、じわじわと現実味を帯びて迫ってくる。あと少しで、自分もあの服を着るのだ。そのことを考えると、胃の底がひやりとした。

二十歳になれば徴兵される。それがこの国の決まりだ。

どんな夢を抱いていようが、そればかりは避けようがない。そうなれば、少なくとも二年間は絵筆を握る時間すら奪われる。

だからこそ、せめてそれまでに何かを成したかったのに——。

現実は、その日暮らしの仕事すら断って、今日の食い扶持にすら困っているという有様だ。


そんなことを考えながら、広場の皇帝像の横を通り過ぎようとした時だった。

ふと視界の端に、妙な違和感が引っかかる。

街中を流れる川。その上に架かる石橋の欄干の上に、何かが——いや、誰かが立っていた。

レースに縁取られた帽子のひさしと、真紅のスカートが風に煽られて揺れている。

若い女性……いや、少女だ。

エドガーの脳裏に浮かんだのは、ある光景だった。

あれはいつだったか。子供の頃、村の祭りの日に行商人が持ってきた舶来物のオルゴール。

ひらひらと雪の舞う中、両腕を広げて踊るように立つその子は、あの日見たオルゴールの天辺でくるくると回る陶器でできたバレリーナの人形のようで——、

(……いや、待て)

だがふっと我に帰る。

郷愁に耽っている場合ではない。

祭りでもない平日の真っ昼間、橋の手すりに登るなんてどう考えてもおかしい。それも、女の子が。

市中を流れる川とはいえ、決して浅くはない。

何より今は冬の初めだ。もし落ちたりでもしたら洒落にならない。

(まさか自殺——……)

そんな考えが頭を過ぎると同時に、思わず走り出していた。

石畳の路地に高い足音が響く。

ふとその子が振り返って、目があった。

夜空を溶かしたようなチャコールの瞳。

丸い目が一瞬だけ瞬いて、次の瞬間、ふわりと身体が後ろへ傾く。

「…………ッ」

咄嗟に手を伸ばして掴んだ指先は思いのほか細く、引き寄せた身体は驚くほど軽い。

そして勢いのまま、二人して路上に倒れ込む。

背中に感じる鈍い痛みと、周りにぶち撒けた画材がなんだか自分の惨めさをより際立たせた。

「い…………っ、」

短く呻いた自分の声が曇り空に吸い込まれていく。

なんだか、その目の前に広がる分厚い雲すら妙に恨めしく感じた。

「お嬢ちゃ……いや、お嬢さん、あんなところに乗ったら危ないですよ」

起き上がりながら声をかける。

だが少女は道の上に座り込んだまま、目線はどこか地面のほうを見つめていた。

「……これ、あなたが描いたの?」

ぽつりと呟くような声。

辺りに散らばった一枚の紙を、白い指がそっと拾い上げた。

「えっ、……いや、それは……」

思わず狼狽してしまう。

他人に見せられないような絵を描いているつもりはないが、ついさきほど画廊で玉砕したばかりの身としては、どうにも腰が引けてしまっていた。

自分の描いたものが、誰かにどう見られるのか。

けれど少女はそんなこちらの動揺など気にも留めない様子で、絵をじっと見つめている。

まるで、そこに何か答えでも探すかのような、真剣な眼差しだった。

「決めた」

きっぱりとした声。

宣告するようにそう言うと、少女はぱっと顔を輝かせ、こちらを見上げた。

「貴方、私の死に顔を描いて!!」

「……………は?」

通りを抜ける風が、ひゅう、と乾いた音を立てて吹き抜ける。

寒空の下、散らばった画用紙と道の真ん中に座り込んだ二人の影が、しばらくのあいだ、そこに動かずにあった。



商人街から歩いて十分ほど、喧騒を抜けた先の静かな通りに、その屋敷はあった。

灰色の石造りに、彫刻された漆喰装飾。屋根は急勾配で装飾的なドーマー窓と煙突が城郭の胸壁のように並んでいる。

重いオークの扉が開くと、高い天井の玄関ホールには巨大なクリスタルシャンデリアが吊られ、無数の電灯の光を反射して輝いていた。

家具は重厚なマホガニー、床は美しい寄木細工のパルケット。

火の落ちたやけに大きな暖炉が妙に寒々しく見えた。

「じゃあスケッチから始めるんで、楽にしててください」

通された応接室のソファの前で画材を広げながら、エドガーは背後で言われた通り革張りの椅子にちょこんと座る少女のことを考えていた。

(何でこんなことになったんだっけ……?)

スケッチブックの白紙のページを探しながら、先程の出来事を思い起こす。


小雪のちらつく中で、情けなく呟いた自分の声が川のせせらぎに溶けていった。

「死に……って……」

言葉が続かなかった。

先ほどのそれが、おおよそ年端もいかない少女の口から出た単語だとは思えなかったからだ。

けれど目の前の少女は口の端にかすかな笑みを浮かべながらも、その瞳は真剣そのものだった。冗談や悪戯の色は微塵もなく、まっすぐにこちらを見据えている。

「あなた、どうせ生活に困っているんでしょう」

そんなことを言いながら、少女はすっと立ち上がった。

エドガーは冷たい石畳に腰を下ろしたまま、呆気に取られたようにその姿を見上げる。

彼の着ていたものといえば、肘の擦れたくすんだ上着に色の抜けたベスト、何度も磨かれた革靴。確かにその姿は、傍目に見ても画家というよりは出稼ぎ労働者のそれに近い。

少女は構わず続ける。

「私が遂に自殺を果たした後、その姿を絵に残してほしいの」

彼女は風に髪を揺らしながら言った。まるで、それが未来の当然の出来事であるかのように。

「報酬は出すわ。もちろん端金じゃなく、貴方が当分のあいだ画業に専念できるくらい……充分な額をね」

そのどれもこれもが現実味がなくて、あまりにもあっけらかんと他人事のように話すものだから、内容をいまいち把握しきれない。

けれど嘘をついているようにも見えない。それに何より、さっき欄干の上に登っていたのは——……

「……わかりました」

エドガーはくたびれたウールのズボンについた埃を払いつつ、立ち上がって言った。

「ただ、実在の人物をモデルにした絵ってあまり描いたことがないんです」

別に金に釣られたわけじゃない。そもそもこんな年若い少女に“当分のあいだ生活を賄える”ような大金が支払えるとも思っていない。

それに、つい先刻ばかり夢破れて……とはいささか言い過ぎかもしれないが、ともかく、今の自分は繁忙とは程遠いのも事実だった。

ならば少しの人助けくらい——少なくとも、うら若い少女の自殺を少しくらい引き延ばすくらいは……そう思ってまっすぐ少女を見据える。

「なので、練習させてください」

その言葉に、彼女はさらに笑みを深めた。

まるで、悪戯の共犯者を見つけたような——そんな笑みだった。



(まさか本当に自殺志願者だったとは)

少女に聞こえないよう密かに溜息をつきつつ、エドガーは手にしたスケッチブック越しに彼女のほうを見やった。

しなやかな手指にビロードのドレス、丸く揃えられた艶やかな髪。上流階級の子女であるのはあの場においても一目瞭然だった。

もし怪我でもさせていたら不味かったかもしれない……と、今になってようやくあの時の自分の無謀さに気付く。けれど考えるよりも先に身体が動いていた。

(……しかし、本当に幼いな)

十四歳とは聞いたが、まだ人形を抱いていてもおかしくないくらいの歳に見える。

最近、子供達の間で流行っているらしい熊のぬいぐるみなんか——、

(……似合いそうだな)

ふと、スケッチブックの中の彼女の隣にテディベアでも置いてみようかと、そんな悪戯心が湧き上がってきた。

……いや、いくら子供とはいえ良家のご令嬢に対して不躾がすぎる。

エドガーは自嘲しつつ鉛筆を持つ手をそっと紙面から離した。

「……あの、お嬢さん。さっきのってやっぱり飛び込もうとしてたんですよね?」

あまりにも単刀直入すぎる気もしたが、こういう類の話題において、柔らかい聞き方というのがどうにも思いつかなかった。

エドガーの率直すぎるその問いに、少女——“お嬢さん”は静かに瞬き、ちらりとこちらに目を向けた。

そして、ためらいも見せず、小さく唇を開く。

「……私ね、本当は海で死にたいの」

その言葉が空気を震わせた一瞬、心臓が小さく跳ねたような気がした。

あどけなさの残る少女の唇から発せられたにしては、あまりにも重い言葉だった。

「けれど海は広いでしょう。寄せては返す波のまま、そのままどこかへ流されてしまってお墓もないなんて……そんなの悲しすぎるわ」

思わずエドガーは顔を上げる。

それはどこか物語の一節のようで、それでいて何故か妙に真に迫る言い方だった。

まるで、知っている誰かの話でもしているかのような——……。

そう思ったのも束の間、お嬢さんは悲痛な声を上げた。

「そのうえ預言者のヨナのようにクジラに食べられちゃうなんて御免だわ!!」

「……鯨って人食うんでしたっけ……?」

あまりにも大袈裟に言うものだから、ついそんな脱力したふうに返してしまう。

なんだかそんな話を昔教会で聞いたこともあるような気はするけれどいまいち記憶が曖昧だ。

まあ、あんなに大きい魚なら人くらいは容易く飲み込めるのだろうか……。

というか、そもそも問題はそこではない気もする。

「でも俺、むかし池で溺れた事ありますけどめちゃくちゃ苦しかったですよ」

話の流れに紛れるように、エドガーは手元の鉛筆を動かしながら、何気ない口調でそう言った。

あくまで自然に、重苦しくならないように、雑談を投げるような軽さでそっと小さな事実を突きつけてみる。

これで少しでも自殺を躊躇してくれれば良いと思ったのだが、返ってきたのはまったく別の角度からの反応だった。

お嬢さんは目をぱちくりとしながら問いかけてくる。

「池に落ちたの?」

「あぁ……はい。友達同士で、『俺水の上走れるんだぜー!』とか言って……」

と言ったはいいものの、田舎の阿呆な男子の悪ノリだ。貴族のお嬢様に理解できるような内容ではない気がして、エドガーはちらりと彼女の顔を伺う。

けれど、目の前の少女はふっと表情を綻ばせた。

「ふふ」

その笑みは、先ほど橋の上で見た、どこか不敵な微笑みとはまるで違っていた。

ただ、自然に滲み出たような笑顔。

年相応の少女の柔らかさそのものだった。

(……なんだ、そういう顔もできるんじゃないか)

一瞬、スケッチをする手が止まった。

胸の底から何かが湧いてくるような、ふわりと何かが浮かび上がるような……不思議な感覚を覚える。

「ねえ、私の話なんかよりあなたの事が聞きたいわ」

椅子に座って視線は前を向いたまま、どこか微笑むような声音で、お嬢さんはそう言った。

ああ、そういえば簡単な自己紹介くらいしかしていなかったな、と思い至る。ここに来る道中で軽いやり取りはしたものの、自宅にまで招かれてこうして彼女の肖像を描いているのに、詳しい身の上など何一つ話していない。

(俺の話なんて何も面白いことはないが……)

だが、ただ筆を動かしているだけでは不躾にも思える。

絵のことくらいには触れておいてもいいのかもしれない。少なくとも、画家を志した経緯くらいは。

そう思って、紙の中の彼女の輪郭をなぞりながら、静かに口を開く。

「……小さい頃、村に移動美術展がやってきたんですよね」

記憶の隅を手繰るように、ゆっくりと。

「たぶん、ルーベンスだったと思うんですけど……それがあまりにも大きくて」

「大きい?」

反応は素直で、少し首を傾げるような問いだった。

「あ……、ええ、まあ……最初のインパクトはそうでした」

小さな村に来るには不釣り合いなくらいの壮大な絵。当時は作者もわからなくて、それでもその圧倒的な迫力に目を奪われた。

「あんなに大きいのに、調和がとれてて……肌の質感とか、布の躍動感とか……絵なのに、本当にそこにあって動いてるみたいで……」

体がねじれて、布が舞って、光が跳ねて、感情があって。宗教画なのに劇的で。

「こんなにでかい絵が描けるんだって……、まあ、一人で描いたわけじゃないって知ったのは暫くしてからでしたけど」

けれどそれが工房製だったということを知っても、あんな絵をいつか自分も描いてみたいと思った気持ちは変わらなかった。

「じゃあその頃から絵を?」

「そうですね、他に娯楽もなかったですし……」

目の前の少女に語るには、あまりにも取るに足らない始まりかもしれない。

けれど、不思議と否定されるような気はしなかった。

エドガーは、少しだけ話の続きを探すように、そっと視線を紙面へ戻す。

「燃え残った炭で板に絵を描いたり、誕生日に買ってもらった鉛筆が嬉しくて、壁紙剥がして描いて怒られたり……」

物の少ない田舎。当然画材と呼べるようなものもないに等しかった。

けれどそれでも、あの日見た絵を思い出しては、見よう見まねで線を引いた。

暇さえあれば、何かに描きつけていた。

土壁でも、木の板でも、紙切れでも。

「親父からは『絵なんか描いてる暇があるなら、麦を刈り入れた後の落ち穂のひとつでも拾ってこい』とか言われてましたけど」

「厳しいのね」

「いや……、まあ農家の六男なんで、親としては労働の手が欲しかったんでしょうね」

「それでもこうして首都まで出てきたわけでしょう?」

「最後はほとんど喧嘩でしたけどね。独立するというよりは、家出に近いかな……」

と、ふと自分の描く手が遅くなっているのに気付いて、妙な気恥ずかしさに襲われた。

なんだかつい話し込んでしまったが、上流階級の娘さんにこんな身の上話をしたところで退屈に決まっている。

けれどお嬢さんは、ふ、と笑って言った。

「そう、じゃあ早く画家として身を立てて、お父さんに認めてもらわないとねえ」

その横顔は先程とは打って変わって、どこか大人びて見えたような気がして、それ以上は、ただ黙って黒鉛を走らせることしかできなかった。



夜になると、表通りのガス灯がアパートの壁面を照らし、華やかな装飾が影を落とす。

だが、その中庭に面した棟は闇に沈み、窓から漏れるランプの光がわずかに庭を照らすだけ。

隣の咳すら筒抜けなその一室で、エドガーは粗末なベッドに腰掛けていた。

傍に置いた質素なテーブルに置いた黒パンを薄いビールで流し込みながら、スケッチブックに鉛筆を走らせる。

紙の中には、おかっぱ頭のあのお嬢さん。

(……なんか、表情が硬い気がするな)

そう思って、屋敷でいくつか描いたスケッチをパラパラと見返してみる。

いや、けれど見えたものを見たまま描いたつもりだ。

別に人物画が苦手なわけではない。

けれど、これまで実在の人物をモデルにして描いた経験といえば主に母親か、せいぜい隣のおばさんくらいが関の山だ。

村の女の子にモデルを頼めるような度胸もなく、想像や思い出して描いたりしたことはあったが……。

(……俺、もしかして女性を描くのが下手なのか?)

そうも思ったがなんだかしっくりこない。

あの時見せた、あの笑った表情。

一瞬だったけれど、あれが“彼女そのもの”のような気すらした。

……でも、それじゃあ、それ以外の彼女は一体なんなんだ?

あの橋の上での強気な笑い方は、俺の昔話を聞いて、どこか遠くを見るように笑ったあの表情は……。

そんなことを考えていると、壁の向こうから妙に伸びやかなハミングが響いてきた。

だんだん声量が上がってきて、途中で急に謎の歓声みたいな合いの手が入る。どうやら一人で二次会を満喫中らしい。毎度のことながら、歌詞は七割くらい不明瞭だ。

隣に住んでいる……何だったか。確か——、

(ああ、そうだ。自称“吟遊詩人”。)

表通りで朝でも昼でもお構いなしに酒を浴びるように飲んでは、特に楽器を演奏している様子もなく自作の妙な歌を歌っている。

正直、ただの飲んだくれにしか思えないのだが……傍から見ればきっと自分も大して変わらないのかもしれない。

……いや、そんなことはどうでもいい。

目下の問題はあの自殺志願者のお嬢さんだ。

あんなに大きなお屋敷に住んでいて、きっと何不自由ない生活を送っているんだろう。

(……こっちはクズ芋と安ビールで食い繋いでるっていうのに)

なんたって貴族様だ。こんなボロアパートにぎゅうぎゅう詰めになって暮らしている労働者たちの暮らし向きとはそれこそ天と地ほどの差があるだろう。

……それなのに、自ら死を選ぶ理由なんてあるのか?

顔色も悪くなかったし、受け答えもはっきりしていた。少々エキセントリックなところはあるが、不健康な印象はない。

けれどなんというか……——、

と、その時、今度は反対側で感情たっぷりの言い争いが始まった。

壁の向こうから突然響いた怒号に、思わず鉛筆の芯を折りそうになる。

言葉は聞き取れないが、リズムとトーンだけで『あぁ、またあの夫婦の十八番か』と分かる。

この様子だと、どちらかが負けを認めるまで、あと十分ぐらいは続きそうだな……。

「………はぁ」

……まあ、隣の夫婦喧嘩なんて昨日今日に始まったことじゃない。どうせ誰かが仲裁に入るまでもなく、放っておけば勝手にいつもの如く元の鞘に戻る。いたいけな少女の生死に比べれば些末な問題だ。

けれど、なんだか妙に大人びた話し方をする子だった。まるで急いで大人になろうとしているような……それでいて、時折見せる子供らしい表情が却って痛々しさを際立たせているような——……。

(………変わったお嬢様だな)

そう、自分でもいまいち腑に落ちない感想で思考を結んで、両隣から聞こえる賑やかな声の中、またひとつ溜息をついた。



その日は晴れだった。雲一つない快晴。

通りを歩く人たちの影がくっきり伸びているのに、自分の影だけが妙に濃くて重たく感じていた。

ずいぶん寒くなってきたというのに、近所の子供たちがキャッキャと笑いながら走り回っている。その声が遠くから聞こえてくるたび、自分の中のなにかが少しだけずっしり増すような気がした。

別に、気分が優れないわけじゃない。あの屋敷に行きたくないわけではない。

ただ、今日も無事にあのお嬢さんが出迎えてくれるだろうかと……それだけが、薄らと心の奥に引っかかっていた。

(せめて、自殺の動機くらいはわからないと……)

なぜ自ら死を選ぼうとするのか。それくらいは聞き出さないと手の施しようもない。

とはいえ……。

(どう聞けっていうんだよ……。)

重い溜息が漏れる。

死にたい気持ちなど理解できない。むしろこっちは必死で毎日を生き延びているというのに、希死念慮など理解できるはずもない。

そもそも自分は口が上手いほうではないのだ。絵ばかり描いてきたせいで、年頃の娘と碌に言葉を交わしたこともなければ、気の利いた文句の一つも浮かばない。

それに加えて十四歳なんて、ある意味一番扱いづらい年頃なんじゃないのか。

けれど悠長なことも言ってはいられない。

自殺未遂を目撃してしまったからには、なるべく早いところ手を打たないと……。


しばらく道を行くと、城の如く高い石の門柱と、その間にそびえる鉄製の門が見えてきた。

両開きの鉄格子には、複雑な蔓や植物のモチーフが絡みつき、中央に家紋を刻んだメダリオンが輝いている。

備え付けられた脇のベルも鳴らさず門扉へと手をかけると、重い鉄の軋みが響いた。

(勝手に入って良いって言ってたし……。)

扉の重みに少しだけ逡巡しながらも、冬枯れの木々の間を縫うように歩を進めた。

石畳の小道を進むたび、靴音が静かな庭に響く。

やがて辿り着いた玄関の重厚な扉を開けて中へ入ると、丁度とことこと、小さな足音が聞こえてきた。

「あら、エドガー」

お嬢さんだ。

深緑のウールワンピースに白い襟元がきちんと留められ、整った姿勢のまま手にはコーヒーの乗った、銀メッキの小さなトレイ。陶器のカップがふわふわと湯気を立てている。

「今来客中なの。ちょっと待っていてくれるかしら」

お嬢さんは軽く顎を引き、視線だけで傍らの椅子を示すと、やや早足で奥の応接室へと消えていく。

エドガーは素直に、エントランスに置かれた椅子に腰を下ろした。

「……………。」

……なんだか、小さい子のお手伝いみたいだな。

そう思ったところで、ふっと思考が切り替わる。

いや、ちょっと待て。おかしい。

なぜ“お嬢さん”が手ずから来客にコーヒーを出しているんだ。

こんなに大きなお屋敷だ。普通は女中なんかが茶を淹れたり来客を出迎えたりするもんじゃないのか。

(……“ちょっと”変わったお嬢さんだと思っていた)

今さらながら、違和感がじわじわと膨らんでくる。

どうして今まで気が付かなかったんだろう。

妙に静かな屋敷。火の入っていない暖炉。

広大な敷地で誰ともすれ違うこともなく、ふと見れば、椅子の肘掛けのレリーフの溝には薄らと埃が溜まっている。

(いつから……、)

背中に冷たいものが走る。

今まで見ないふりをしていただけなのかもしれない。豪奢な内装や、広さに目を奪われて、肝心なところから目を逸らしていた。

自分が今、何に足を踏み入れているのか。

俺は…………、

(俺は自分が思っていたよりも、もっとずっと、とんでもない事態に首を突っ込んでいるのではないだろうか……!?)



ベルベットの椅子に腰を下ろしたまま、半ば茫然自失といった体で項垂れていると、奥の応接室の扉が静かに開いた。

顔を上げると、お嬢さんと一人の男が並んで姿を現す。

整えられた口髭に、地味だが仕立てのいいスーツ。華美な印象はなくとも、きちんとした立場の人間であるというのは一目でわかった。

男はエドガーと目が合うと、軽く会釈をした。

エドガーも黙って頭を下げてそれに返す。

特に言葉を交わすこともなく玄関に向かう二人の背中を見送りながら、頭の中に疑問符が浮かぶ。

「…………?」

父親……、じゃないよな?

親子と言うには歳が離れすぎている気もするし……いや、そもそもお嬢さんの両親って……。

そこまで考えて、ふと、壁に掛けられている肖像画が目に入った。

お嬢さんの御先祖だろうか。黒い燕尾服の胸に勲章を携え、胸元まで届く立派な髭を蓄えた老人の油絵だ。

目線を横へずらすと、ホールの壁に、おそらく年代順だろう、額に飾られたポートレートがずらりと並んでいる。

古めかしいドレスを着た老女の肖像画、赤ん坊と子供の絵、結婚式の記念、軍服と首まで詰まったドレスを身につけた老夫婦の写真、と額縁が続く。

けれどその先……、一番端の壁にだけ、なぜか中途半端に布が掛けられていた。

「………なんでここだけ……」

特に深く考えることもなく、何の気なしにその幕を捲ってみる。

現れたのは、一枚の夫婦の写真だった。

比較的新しい銀枠に収められたそれは、特に記念日というわけでもなさそうな、何でもない写真。

黒髪の紳士がかたわらに立ち、金の髪をまとめ上げた女性が裾の長いドレスをまとって一人用のソファに腰掛けている。

当然会ったこともない若い夫人。けれど、どこかで見た瞳だった。

優しげで、けれどどこか意思の強さを感じる……そんな瞳。

その時、玄関のドアが音を立てて開く。

振り返って、“その瞳”と目があった。

「あ…………、」

反射的に手を離して、ぱさり、と布の垂れる音だけが静かなエントランスホールに響く。

べつに、やましい気持ちがあったわけじゃない。けれどきっと意図があって隠されていたものだろう。覗き見をしたようなものだと、今更になって罪の意識がじわりと滲む。

謝るべきだろうか。けれど、言葉を探している間に、お嬢さんの方が先に口を開いた。

「ごめんなさい、普段はお客さんなんて呼ばないのだけれど、ちょうどタイミングが重なっちゃったわね」

まるで『大したことじゃないわ』とでも言うように、敢えて気丈に振る舞っているような、そんな笑顔だった。

「………お手伝いさんとかって、いないんですか」

謝罪よりも何よりも、先に出たのはそんな言葉だった。

言った後で、『言うべきはそこじゃないだろ』と思ったが後の祭りだ。

けれどお嬢さんはといえば、さして気にしたふうもなく、きょとんとしたような顔でとんでもない事を言い放った。

「あら、そんなもの全員解雇したわ」

あまりにもけろりと言ってのけるお嬢さんに、一瞬理解が追いつかない。

「…………解雇?」

「そうよ、もうすぐ死ぬっていうのに、そんなもの必要あって?」

「………………。」

絶句した。

何をさも当然のように言い切っているのだこの娘は。

身の回りの世話をする人間を全員辞めさせた?冗談だろう。こんなお嬢様が、たった一人でこんな広い屋敷で生活を?

どう考えても現実的ではない。何より、防犯上の懸念もある。

……それは、“もうすぐ死ぬ”というよりも“生きていけない”のほうが言葉が正確なのではないだろうか……。

変なところで思い切りの良い子だとは思っていたが、まさかこんな事態にまでなっていたとは。

エドガーは思わず頭を抱えた。

「エドガー、あなた私を侮っているわね?もう何でもかんでもお膳立てしてもらわないと立ちもできないような赤ちゃんじゃなくってよ」

「えっ、いやそんな……」

咄嗟に否定する言葉が出たが、それ以上がどうにも続かなかった。

……いやいやいやいや。

そうは言っても、そもそもこの家自体が一人で暮らすことを想定していないだろう。管理も行き届かなければ、設備だって個人でどうにかできる代物ではない。

これはもはや“独り立ち”とかのレベルを超えている。

本当に、何を考えているんだこの娘は。最近の若い子の考えることは全く理解できない。

けれど目の前のお嬢さんはそんなエドガーの心中など全く察していないのか、まるで祭りの屋台の揚げパンのように頬を膨らませながら不満そうにこちらを見上げている。

「……あの、じゃあ、さっきの人って……」

あまりに居た堪れなくなり、話題の方向を変えてみることにした。

立ち入った事を聞くようだが、それももはや今更というものだろう。

「弁護士よ。遺体の身元引受人が必要でしょう」

(………………。)

ああ、そういえば『死に顔を描いて』なんて言われていたな、と、今更ながら思い出した。

“遺体の身元引受人”という現実感のある単語が、出遅れて情緒を殴ってくる。

あの時は全く深く考えていなかったが、よくよく考えると、俺は死にたてホヤホヤの女の子の死体を見ないといけないってことだよな?

……耐えられるだろうか、俺に。

まだ親の死に目すら見ていない自分に、幼子の死に様を見て平静を保っていられる自信が——……、

(駄目だこのお嬢さん……早くなんとかしないと……)

思わず眉間を押さえそうになった、その時だった。

「それと、私の遺産は全てあなたに支払われるようにしようと思って」

「は!!?」

素っ頓狂な声がエントランスの高い天井に反響する。

「約束したでしょ。私は私の生きた証が欲しいのよ。私の姿を後世に残すためには、あなたには高名な画家になってもらわないと困るんだから!」

言い切る彼女に、返す言葉が見つからなかった。

……まさか、本気で言っているのか?出会ったばかりのどこの馬の骨ともわからない俺に、全財産を?

冗談にしては悪趣味すぎる。それに何より先ほどすれ違った“弁護士”の存在。

理屈はわかる。いや、わかるがわからない。

「……ちょっと、待ってください」

そう返すのが精一杯だった。

なぜか思い出したのは、もうずいぶん長いこと会っていない父方の叔父のことだった。

貧乏農家の三男坊だったのが、競馬が大当たりしたとかで一夜で大金持ちに。

畑を耕すことはやめ、派手に遊び回る毎日。

当然資産はあっという間にどんどん減り、知り合いの“確実な儲け話”に大金を突っ込み、田畑を売り、最後は夜逃げ同然に村を去った。

……そんな話。

この少女の死と引き換えに、自分の元に大金が舞い込んでくる。

それはもう、碌なことにならない予感しかしなかった。

エドガーの様子が、あまりに分かりやすく狼狽していたのだろう。

お嬢さんはうつむいたまま、スカートの裾を握りしめ、ぽつりと呟いた。

「……死にたいのよ。でも、死んだら後は忘れられるだけ。私が生きた証なんて何一つ残らない」

声を落とす少女に、かける言葉が見つからなかった。けれど何か言わないと、この子がそのままどこかへ消えてしまいそうにも思えた。

「………お嬢さん、やっぱり考え直しませんか。生きた証ならせめて——」

せめて、小さなことでもいい、自身で成し遂げられることを探せばいいでしょう。

そう、言おうとした。

こんな先の見えない画家くずれの与太者に託すよりも、この子にはもっと成せるものがあるはずだ——そう言いたかったが、お嬢さんは突然、ばっと顔を上げた。

「だって、若くして死ぬのよ!?親もいない、身内もいない、誰も私の事を知らない!!」

その叫びが、静まり返った広間に突き刺さった。

瞳が大きく見開かれ、涙の膜が一瞬、光を反射してきらりと揺れる。

「だからそれくらい、誰かの記憶に残りたいと思うくらい——……」

言葉を絞り出すたび声は震え、喉の奥で潰れそうになりながらも少女は視線を逸らさなかった。

ひたすらに、こちらをまっすぐ見つめている。

ただ一心に、胸の奥に渦巻いたものを吐き出すように。

「願ったって、いいでしょう?」

夜空に星が揺れるように、瞳の中で光が瞬いた。

目の前にいる小さな女の子が、もっとずっと小さく見えたような気がして——エドガーはそれ以上、なにも言うことができなかった。



その日の屋敷の応接室に笑いはなかった。

ただスケッチブックをなぞる鉛筆の音だけが静かな部屋に淡く反響している。

流石に練習書きのスケッチに高価な絵の具を使うわけにもいかず、今日は色鉛筆を持ち込んでいたのだが、指先の動きはどこか重かった。

「……あの……さっきの写真って……」

言いかけて、言葉を探す。けれど、視線を上げる前に答えが返ってきた。

「両親よ」

さらりとした声だった。

「半年前に死んだの」

「………………。」

お互いの視線は交わらないまま、帰ってきた返事は半分想像通り、半分は想定していたよりも、受け止めるのに労力が要った。

聞くべきではなかったかもしれない。けれど、はっきりさせておかないといけないと思った。

……半年。その間、誰にも言えずにずっとこの子は一人で生と死の狭間を歩いていたのか。

「ご両親の写真だけですか?家族写真とか……」

あそこに飾られていたのは歴代当主とその子供達だろう。けれど、そこにお嬢さんの写真はなかった。

その問いに、彼女はわずかに首を横に振った。

「……ないのよ。赤ちゃんのころにお母様と一緒に撮ったものや、一人で写っている写真はあるのだけど……きっと家族写真なんて、いつでも撮れると思っていたんじゃないかしら」

淡々とした口調だった。責めるようでも、嘆くでもない。ただ事実を並べているだけの声。

「そんな保証、どこにも在りはしないのにね」

その言葉は、はっきりと、重たく部屋に落ちた。

けれどそれはどこか彼女自身へ向けられているような、遠い呟きにも感じられた。

「……海難事故でね、出資してた船の処女航海だったわ」

ぽそりと呟くように落ちた声に、ちらりと視線を向ける。

座った彼女の目は部屋の隅を見つめているようで、けれど何ひとつ映していなかった。

(ああそうか、だから——)

あのとき彼女がぽつりとこぼした言葉が、ふと脳裏に蘇る。

『本当は、海で死にたいの』

『寄せては返す波のまま、どこかへ流されてお墓もないなんて悲しすぎるわ』

胸の奥を冷たい何かが撫でていく。

……止める権利があるのだろうか、俺に。

この歳で両親に先立たれ、身寄りもなく、ただ一人でこの広い屋敷に取り残されたこの子に。

希望の欠片さえ握り潰すような現実のなかで、それでもなお『生きろ』とだけ言うことが、果たして本当に救いになるのか。

「……水の底は、冷たいでしょうね」

辛うじて出たのは、そんな言葉だった。

慰めでもなく、制止でもなく。

「ええ、でも」

お嬢さんはくすりと笑って、まるで季節外れの風が吹き抜けたように囁いた。

「川は海に繋がってるでしょう?」

……ああ、またその顔だ。安心しきったような、それでいてなにもかもを諦めているような、その微笑み。

この子は、いつからこんな風に笑うようになったのだろうか。子供の顔のままではいられず、泣くこともせず、ただ全てを受け入れて。


なんと返せばいいのかわからず、再び視線をスケッチブックに戻して、寝かせた鉛筆でひたすら面を埋める。

すると、いつの間にか隣に移動していたお嬢さんが、俺の肩越しにひょいとスケッチブックを覗き込んでいた。

「ねえ、それってもうすぐ完成?」

「あ、はい。でもまだ仕上げが……」

言いかけたところで、お嬢さんの声が遮る。

「あら、私こんなに可愛くないわ」

「え、そんな事ないでしょう。俺は結構美人だと思——」

半分無意識だった。自分が何を言おうとしているのか遅れて気付いて、慌てて顔を上げる。

刹那、視線が交差した。

艶やかな頬、長い睫毛。

跳ねた心臓の音すら聞こえそうなほど近い距離だったことに狼狽える間もなく、ぱっと顔を背ける。

「……すみません」

「いえ……」

それだけを言って、お互いぎこちなく距離をとる。

……何を照れているんだ俺は。

こんなもの、親戚の赤ん坊に『かわいいですね』と言ったのと変わらないだろう。

落ち着け俺、ここで小さなお嬢さん〈フロイライン〉相手に女性慣れのしてなさを発揮している場合じゃない。

絵に集中しろ。少なくとも、今この場での俺の役割は絵を描くことだろう。

鉛筆の芯が紙を擦る音で沈黙を埋めようと試みるも、うっすらと漂う妙な居心地の悪さは変わらなかった。

何かを言えばいいのか、それともこのまま描き続ければいいのか。

逡巡するうちにかすかな衣擦れの音がして、お嬢さんがソファの反対側の端に腰を下ろしたのが視線を向けずともわかった。

だがエドガーは何と言葉を続けるべきか分からず、ただ黙ったままスケッチブックと向き合っていた。



玄関の大きな扉に手をかけると、鉄の冷たさが指先を刺した。開いた瞬間、冬の冷気が一気に押し寄せ、空気ごと身体を包み込んでいく。

「寒いので、ここまでで良いですよ」

「平気よ。すぐに戻るから」

白く短く息を吐きながら、お嬢さんが笑った。

『門のところまで見送るわ』と言われた時は最初こそ断ったものの、結局こうして並んで歩いている。屋敷から伸びる石畳を、二人分の足音が細く重なって響いていた。

少し後ろを歩きながら、お嬢さんが悪戯っぽい笑みを浮かべて問いかけてきた。

「どう?私の死に顔を描く手筈は整いつつあるのかしら」

「あ……いえ、正直………、」

そう曖昧に語尾を濁す。

はっきり言って、まだ“掴めていない”というのが実情だった。

描けないわけではない。ただ、納得がいかないというかなんというか……自分の中で、どうにも画竜点睛を欠くような感覚だった。

いや、というかそんなもの万全になっても困る。自分にはこのお嬢さんの死を見届けるつもりなど毛頭ないのだ。

だが、とりあえず……少なくとも俺の“練習”が終わるまでは自殺を踏み止まってくれるだろう。そんな楽観視にも似た希望的観測が、胸の内を占めていた。

おかしな話だ。

なんだかとんでもない内容の会話をしている気がするのに、二人の間に流れる空気は静かで、冬の風は凪いでいた。

庭園の小路を抜け、門前へと差し掛かる。

自分の足音に、小さな足音が寄り添って重なるのがなんだか不思議な気分だった。

「………また明日来ます」

そう言って振り返り、帰路へと足を向けようとした、その時だった。

ふっと、二人の間に影が落ちた。

「飛行船だ!」

道の向こうを歩いていた少年が、声を弾ませる。

その声につられるように、エドガーも空を仰いだ。

空に浮かぶ巨大な船。

最近、首都でも見かけるようになったばかりの新しい乗り物だ。

まだ見慣れないせいか、通りの人間が一斉に空を見上げる。冷えた石畳の上で、白い息と声が交錯した。

「ほら、ツェッペリン伯爵のやつだろ?」

「空を飛ぶほうが早いってさ。船なんてもう古いよ」

誰かが言い、それに呼応するように笑い声があがる。

人々が口々に囃し立てるその声にあったのは、そう遠くない未来への“希望”だった。

ふと見ると、お嬢さんは空ではなく、空を見上げる人々のほうを見ていた。

指さす子供、笑い合う若者、驚いたように帽子を押さえる老婦人。

そのひとつひとつを、静かに目で追っていた。

だがやがてゆっくりと視線を落とし、ぽつりと呟く。

「……みんな、空ばかり見るのね」

声は小さく、けれど不思議と胸に残った。

夜の湖底に落ちた小石のように、水面に浮かぶことなく、音も立てずに沈みながら。

その余韻だけが、胸の奥で静かに波紋を広げ続けた。



夜が深まるにつれ、共有の便所へ向かう足音が廊下に響き、階段室の鉄の手すりが冷たく軋む。

小窓の外、内庭の闇から時折猫の鳴き声や風の音が聞こえるが、それはもう別の世界の音のように遠かった。

ベッドに腰掛け、線をひく。何度も何度も、記憶を反芻するように。

傍に置いたザワークラウトが、夜気に晒されて縁から乾きはじめているのもお構いなしだった。

(……なんだか違う気がする)

並んで立つ紳士と淑女。

紙の中の人物を睨んで、またページを捲る。

今描かないと、全てが薄れてしまう気がした。

なんせ、見たのは一瞬だ。

くそ、もう少しちゃんと見ておけば……。

頭の中でぶつぶつ言いながら手を動かしていると、左手の壁の向こうから鼻歌を口ずさむ声が聞こえてきた。

いつもの怒鳴り合いではない。静かなアリアだ。

(……知ってる曲だな)

耳を澄ます。

確か……歌劇“トスカ”の第一幕で歌われる愛の歌。

穏やかな旋律に耳を傾けながら、再び鉛筆を走らせる。だが、どうにも描ききれない。

……なんか、もう少し柔らかい感じだった気がする。

輪郭はもう少し丸かったか?……いや、これじゃただの大きいお嬢さんだ。

というか、親父さんのほうももう少し優しそうな雰囲気にした方がいいのか?

いや、でも実際の性格がわからないし……。

迷いながらも描き上げては紙を捲る。

すると今度は、反対側で第二幕が始まった。

……いや、お前も歌うのかよ。

そう心の中で突っ込んだが、ふと、エドガーの描く手が止まる。

(……なんか、普通に上手くないか?)

エドガーは、思わず声のするほうの壁へと目をやった。

声量も大きく、歌詞もいつものようなヘンテコではない。

歌に生き、愛に生き——。

(こういう歌も歌うのか、あの人)

いつもの飲んだくれの歌だとは思えなかった。

いや、普通に上手いどころではない。むしろ、国立歌劇場の歌手にも勝るとも劣らないような——……。

……プッチーニの『トスカ』。

通して観劇したことはないが、内容はなんとなく知っている。

確か、悲劇の画家と、その後を追って城壁から身を投げる恋人の話。

そういえば、かのアルフォンス・ミュシャが一躍有名になったのも、トスカの公演ポスターからだったような………。

「……皮肉だな」

ふっと笑って、視線をスケッチブックに戻す。

内庭を囲む借家の一室。響く独唱曲の中で、ランプの光だけがただ、静かに手元を照らしていた。



差した陽の眩しさに、思わず目を細めた。

季節外れの陽気が、石畳の影すらやわらかく映す。

もはや通いなれた屋敷への道。

雲の欠片すらなく、ただ無限に広がる紺碧。

冬といえばいつもじめじめしていて陰鬱な天気が続くのに、こんなに晴れているのも珍しい。

……そろそろ、食い扶持を稼がないと正直キツくなってきた。

あのお嬢さんから金を引き出すのは無しだ。というか、死なせないのが目的なのだから、当然報酬は当てにしていない。

……とはいえ、そろそろ“練習”でお茶を濁すのもいい加減限界かもしれない。

けれど放っておくわけにもいかないし……。

(どうしたものか……。)

足元に落ちる自分の影をぼんやり眺めながら、そんなことを考えていた。

悩みながらも川のそばの広場に差し掛かったとき、ふと見慣れた小さな影が視界の端を掠めた。

思考が止まり、反射的に首を巡らせる。

「お嬢さん……!!?」

思わず声が漏れた。

心臓がひやりとする音を立てて、足が止まる。

あの時と同じ、けれど前回見た時とは明らかに様子が違う。

欄干に登る足取りは軽く、迷いの色がどこにもなかった。

ぐらつきも、躊躇もない。

まるでそうすることを決めてここに来たかのように、彼女はすでにその上に立っていた。

「………くそっ!!」

脇に抱えた画材道具を放り出して、走り出していた。

石畳を蹴る音も、吐く息も、すべてが煩わしい。

(間に合え……!!)

まだ練習の絵も描きかけで、なにより自分の心の準備もできていない。

こんなところで死なれては困る。

いや、死なせない。

「お嬢さん!!!」

叫びながら距離を詰める。

あの時と同じ。

目が合って、瞳が揺れる。

差し出すように投げ出されたその手を——、

(………掴んだ!!!)

そう思ったのも束の間。足元の感触が消え、身体が宙に浮く。

視界がぐるりと回り、空と橋と川がめちゃくちゃに混ざり合う。

そして——。

ザブン。

いや、ドボンのほうが近いかもしれない。

とにかく、派手な水音が二つ、冬の空に響いた。

そこからはよく覚えていない。

細い腕を離すまいと必死に掴んで、気付いたら川岸に漕ぎ着けていた。

「ちょっと、お嬢さん……勘弁してくださいよ……、俺泳ぐの苦手なんですって………」

ぜえぜえと、肩で息をしながら抗議の声を上げる。

ふと振り返ると、リュックの中身がぶち撒けられて絵の具のチューブが一つ、二つと、川のせせらぎに流れていくのが目に入った。

(…………最悪だ)

泳いで追いかける気にもなれず、心の中で呟く。だが、まあ……買い直せばいい。

女の子一人の命に比べれば安いものだ。たぶん、きっと。……いや、そう思いたい。

というか、正直言ってそれどころではなかった。

寒風に、濡れた身体が軋む。

冬の初めの水温は切るように冷たい。

このまま川に浸かっていては冗談抜きで死んでしまう。

刺すような痛みに震えながらも、共に橋から転落したお嬢さんのほうへ声をかける。

「お嬢さん、上がりましょう。歩けますか」

けれどお嬢さんはこちらの声など聞こえていないのか、水の中に佇んだまま、ただじっと空のほうを見ていた。

「……お嬢さん?」

もしやどこか悪いところでもぶつけたんじゃないかと思ったその時、ふいに太陽がかげり、街に影が差した。

エドガーも、彼女と同じ方向へと目をやる。

見ると、巨大な浮かぶ船が、日差しを遮りながら街の上を横断していた。

(……飛行船?)

いや、違う。そっちじゃない。

……紙だ。さっき道端に放り出した画用紙。

それが風に煽られて、飛行船と一緒に泳ぐように、まるで紙吹雪のように舞っていた。

それに気付いた矢先、それまで微動だにしなかったお嬢さんが、ばしゃばしゃと流れをかき分けるように走り出した。

(待て、まさか自分から溺れに行くつもりじゃないだろうな!?)

一瞬本気でそう思った。

けれどお嬢さんの視線の先は明らかに上を見ていて、何かを追いかけているようだった。

慌てて彼女の後を追う。

川の底はぬるつき、足が滑る。その上、あまりの冷たさに足先はおろか、膝の辺りまで感覚がなくなっている。

なかなか追いつけないでいると、風が凪いで、その小さな手が、舞い降りてきた一枚を掴んだ。

「これ………、」

「あっ……!それ………」

しまった、と思った。

まだ見せるつもりではなかった。というか、さすがにいい加減怒られる……というより、呆れられるんじゃないだろうか。

そんなばつの悪さを感じて、別の意味で背筋が冷たくなる。

お嬢さんが捕まえたのは、一枚の絵。

父と母、そしてその真ん中に、溢れんばかりの笑みを湛えた、一人の少女。

昨晩、食事もそっちのけで何枚も何枚も描き溜めたものだった。

「あー……それは、その……三人で写っている写真がないって仰っていたので………それで……」

もごもごと、歯切れ悪く言い訳のように言葉を探す。

その絵を見つめながら、お嬢さんが静かに口を開いた。

「お父様が言っていたわ……。立ち止まりそうになったら、空を見上げなさいって」

震える声で、胸の底に沈めた記憶を手繰り寄せるように。

「……お父さんが?」

「人は死んだら天の国に行くでしょう。去っていった人たちも、新しく生まれたものも、全部空にあるから、って」

「………どうして忘れていたのかしら」

その声は、涙と共に、溢れるように滑り落ちた。

「お父様……、お母様………。」

まるで堰を切ったように、これまで抱え込んできた全てを洗い流すように。頰を伝う涙が止まらず、顎から滴り落ち水面へと吸い込まれていく。

冬の晴れ間、ただ並んで立つ二人の影が、水面に揺れていた。


去っていった人たちも、新しく生まれたものも——。

それは単なる移動ではなく、人類の夢だった。

巨大な銀色の船が重力の鎖を解き放ち、青い虚空を縦横無尽に闊歩する。

かつて手を伸ばすだけだった空に届いた人類の夢。

科学の発展は目まぐるしく、人はきっともっと空高くまでその翼をはためかせるだろう。

我が子には色々なものを、時代の移り変わりを見ながら、永く生きてほしいと——……きっと、そんな親の願いだった。



——親愛なるエドガーへ

フランスでの生活はどうかしら。少しは落ち着いた?

こっちは日が短くなって随分経つけれど、パリも似たようなものかしら。

雪が降っているのを見ると、あなたと初めて会った時のことを思い出すわね。

あなたにも、祖国の雪景色を見せたいわ。

そうそう、頼まれていた写真も同封しておくわね。

あなたの描く私は、いつも実物よりも随分可愛らしい気がするけれど……でも、やっぱり嬉しいものね。


「……追伸。あなたの奥様にも、よろしく言っておいてね。あなたの奥さんなら、私にとっても姉のようなものだもの……。……って、えっ!?ホーエンフェルダーって、戦火を逃れてイスタンブールにいたのは知ってたけど、その前はパリにもいたの!?」

低い天井の下、梁が交差する影が網のように広がり、古いトランクから溢れた手紙の束が床に散らばる。

唯一の光源は小さな天窓で、そこから差し込む青白い光が、屋根裏全体を夢のような薄明かりに染めていた。

空気は乾いて古びた紙の匂いがし、ここだけ時間が止まったような、静かな空間。

「信じられない……これは美術史に残る大発見だわ!!」

埃の立つ空気の中、古い手紙を握りしめつつ、ひとり驚嘆の声を上げてしまった。


きっかけは、祖母が亡くなったことだった。

骨董品や絵や古書や、とにかくなんでも集める趣味のあった祖母の家。

あまりにも物が多すぎて、親族の誰もが敬遠するなか、“遺品整理係”として派遣されたのが、大学で美術史を専攻していた孫の私だった。

「おばあちゃん……、ひいおばあちゃんの個人的な手紙までとっておくなんて物持ちが良すぎよって思ってたけど……。とんでもないものを遺してくれたわね」

手紙を読み漁る手を止めて、肩をすくめる。

と、その時、玄関と呼ぶには遠すぎる門戸から、古いベルが鳴るのが聞こえた。

慌ててスマートフォンの時計を確認する。

「あっ、いけない!もうこんな時間!?」

来客の予定があったのに、つい読み耽ってしまっていた。

こちらから呼びつけておいて居留守だなんて、失礼にも程がある。

急いで屋根裏から続く階段を降りる。ジーンズの裾に埃がつくのもお構いなしだった。


大理石の階段を駆け下り、先祖代々の肖像画や写真がかけられた廊下を走り抜ける。

全くもう、どれだけ広いのよこの家は……。

息を切らしながら、やたらと重い玄関の扉を開けた。

「初めまして、ローゼンシュタインさん」

金の髪をきっちりと纏め上げ、眼鏡をかけた女性がにこりと笑って会釈する。

私も息を切らしながら、それに応えた。

「初めまして!お待ちしていました!」

玄関先で出迎えたのは、美術館で資料の調査や展示を担当しているという、学芸員の女性だった。

数日前、祖母の遺品を整理していた私は、屋根裏部屋で見つけた祖母の母——つまり曽祖母とその“友人”とのやりとりの数々を目の当たりにした。

その内容は前代未聞の歴史的大ニュースとも呼べるような内容で……それを読んだ私は大慌てで大学時代にお世話になった教授に連絡を取ったところ、先生の知り合いの学芸員の方を紹介してもらった……というのがことのあらましである。

口に出してしまえば簡単な経緯だけれど、胸の奥には今もまだ、あの手紙を読んだ時の震えるような興奮が残っている。


「本当に、すごいお家ですね」

玄関ホールから続く広い廊下を歩きながら、学芸員の彼女がぽつりと感嘆の声を漏らした。

「ええ、祖母が骨董好きで……。今にして思うと、これも曽祖母の影響だったんでしょうね」

祖母の骨董趣味はとにかくすごかった。各国の名画から由来の怪しいミイラまで、この広い屋敷を埋め尽くさんばかりの収集品の数々。

まあ、そんな私も祖母の影響で芸術系の学科に進んだのだけど……。

「いえ、それもなんですけど……その、お家自体が」

「ああ、まあ……うちは普通のサラリーマン家庭なんですけどね」

確かに、誰がどう見ても“普通”とは言い難い大邸宅ではある。

けれど、言ってみれば、金持ちだったのはあくまで先祖だ。祖母はどうやら株や土地といったものは相応に受け継いでいたらしいが、特に事業をやっていたとかではない。

現に、その息子である父は普通に就職して家を出ているし。末裔の私も言わずもがなである。

「でもうちの祖母ときたら、夫に先立たれてからはたった一人でこんな広い家に住んでたんですよ!?変わり者にも程がありますよね!」

そんな愚痴すら漏れてしまう。おかげで私は一人で祖母のコレクションを仕分ける羽目になっているのだ。

それを聞いた学芸員さんは困ったように笑っていた。

「曽祖母が遺した手紙の量もすごくて……」

「ああ、お写真を拝見しましたけど、本当によくあんなにたくさん残っていましたね。正直、驚きました」

木でできた階段を登りながら相槌をうつ。

「ええ、私もびっくりですよ。まさか——」

屋根裏部屋の扉を開くと、整理途中だった手紙の山々が二人を出迎えた。

「私の曽祖母があの近代美術の巨匠、ホーエンフェルダーのパトロンだったなんて!」


「あまりにも量が多くて全て読み切れていないんですけど……」

私はそう言いながら、まだ未整理だった紙の束のひとつに手を伸ばした。

「写真がこんなにたくさん……あ、でもここから白黒からカラーに変わってますね」

「えっ、すごい!ホーエンフェルダー直筆の絵葉書が!!」

学芸員の彼女がひとつひとつ確認するたび、束の中から新たな時間が顔をのぞかせる。

「これなんて曽祖母が描いたヘンな絵の上からホーエンフェルダーの筆致が……」

これはちょっと、他所に出すのをためらうかも……。

子供が描いたみたいなウサギの絵を有名画家が飾り付けって……どんな合作よ……。

「あれ、これは……」

手に取ったのは、ひときわ丁寧に描かれた一枚の色鉛筆画だった。

艶やかな黒髪の女性が、鮮やかな緋色の花に囲まれて穏やかな笑みを浮かべている。

「この花って……」

「柘榴の花ですね。当時のドイツではあまり見られなかったと思いますが……」

「………………。」

……想像で描いたのだろうか、遠い異国の地から。

咲き誇る柘榴の花に囲まれて微笑んでいる、曽祖母の姿を。

「……二人は、生涯良き友であり続けたんだわ」

私の言葉に、彼女は優しく頷いた。

「ええ、この量を残すって、相当大事な関係だったんでしょうね」

手紙の山を見渡す。

色あせた封筒、滲んだインク、折り癖のついた紙。

誰にも見せるつもりもなく、ただ書いて、残して、積み重ねられてきた時間。

学芸員の彼女が、そっと息を吐いた。

「……これだけ揃っているのは、本当に奇跡ですよ」

私はもう一度、あの絵に目を落とした。

緋色の花に囲まれて笑う、曽祖母のまなざし。

「ここにある全て——二人の生きた証、なんですね」



end

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