第九話 王女の瞳
生き残った騎士の渾身の一撃が、俺の巨体に迫る。
その剣には、彼の騎士としての矜持と、仲間を失った悲憤、そして未知の怪物に対する根源的な恐怖が込められているのが、ひしひしと伝わってきた。
見事な剣閃だ。もし俺がただの前足が翼と一体化しているワイバーンという飛竜をはじめとする並の魔物であったなら、この一撃は致命傷になっていたかもしれない。
だが、今の俺にとって、それはあまりにも無力な抵抗だった。
キンッ!
甲高い、澄んだ金属音と共に、彼の鋼鉄の剣は俺の鱗に当たってあっさりと弾き返された。
俺の鱗は、百年の時を経て成長し、魔力を帯びることで、もはや「オリハルコン鋼」にも匹敵するほどの硬度を誇っている。
オリハルコンとは、神代の時代に精錬されたとされる伝説の金属で、ダイヤモンドよりも硬く、決して錆びず、魔力を通しやすいという特性を持つ。
人間の鍛えた剣ごときで、傷一つ付くことはないのだ。
騎士は自らの全力の一撃が全く通じなかったという事実に、絶望の表情を浮かべた。
武器を弾かれた反動と衝撃で、彼は後ろに大きくよろめき、無様に尻餅をつく。
「……っく、化け物め……!」
彼はそれでも諦めず、再び震える手で剣を構え直そうとした。その瞳には、死を覚悟した戦士特有の、悲壮な光が宿っている。
俺はそんな彼を見て、敵ながら少しだけ感心した。そして同時に、どうしようもない面倒くささがこみ上げてくる。
これ以上、ここにいても話がこじれるだけだ。
助けた相手に斬りかかられるなど、割に合わないにも程がある。
(……やれやれ)
俺は巨大な翼を一度、力強く羽ばたかせた。
それだけで、凄まじい風圧が発生する。騎士の身体は抵抗むなしく、再び地面に押し付けられるように叩きつけられた。
俺はその隙に大地を蹴って宙へと舞い上がる。目的は果たした。後は静かに立ち去るだけだ。
その時だった。
「お待ちになって!」
凛とした、しかしどこか震えを帯びた女性の声が、地上から響いた。
声のした方を見ると、豪華な馬車の扉が開き、そこから一人の少女が姿を現していた。
歳は十六か、十七くらいだろうか。
燃えるような赤い髪をなびかせ、気品のある顔立ちには恐怖と、それ以上の強い意志が浮かんでいる。豪奢なドレスは所々汚れているが、彼女がただ者ではないことは一目でわかった。おそらく、盗賊たちが言っていた「姫様」なのだろう。
彼女は、俺の山のような巨体を見上げても、悲鳴を上げたり、逃げ出したりはしなかった。
ただ、真っ直ぐに俺の瞳を見つめてくる。
「あなたは……私たちを、助けてくださったのですね?」
その問いに、俺はどう答えるべきか迷った。
竜の言葉は、人間には通じない。テレパシーを使えば意思疎通は可能かもしれないが、そこまでする義理もない。下手に知性があることを知られれば、さらなるトラブルを招きかねない。
俺が沈黙していると、少女は、ゆっくりと俺に向かって歩み寄ってきた。
「姫様!いけません! お下がりください!そいつは魔物です!」
倒れていた騎士が、悲鳴に近い声を上げて制止する。
だが、王女は彼の言葉に耳を貸さず、俺の巨大な足元まで来ると、そこで深々と、貴人らしい優雅な礼をした。
「私はアリア・フォン・ロミール。アルマード王国の第一王女です。名も知らぬ、偉大なる白き竜よ。このご恩、決して忘れはいたしません。本当に、ありがとうございました」
彼女の言葉には、嘘やごまかしは一切感じられなかった。
純粋で、混じり気のない感謝の念。
俺はその真っ直ぐな瞳から目が離せなくなった。
人間は皆が皆、欲深く残酷なわけではないのかもしれない。
俺の心の中で百年間、固く凍りついていた何かが、ほんの少しだけ、カチンと音を立てて溶け出すのを感じた。
しかし、感傷に浸っている場合ではなかった。
遠くから、複数の馬の蹄の音が聞こえてくる。おそらく、王女の護衛の別動隊か、騒ぎを聞きつけたどこかの領主軍だろう。
これ以上、人目につくのはまずい。
俺は、アリアと名乗った王女を一瞥すると、彼女に背を向けた。
そして、もう一度だけ、力強く翼を羽ばたかせる。
巻き起こった風が、彼女の赤い髪とドレスを美しく乱した。
俺は振り返ることなく、夕暮れに染まる空へと姿を消していく。
「……行ってしまわれた……」
アリアは、純白の竜が飛び去った茜色の空を、いつまでも見上げていた。
その瞳には恐怖ではなく、畏敬と、そして強い好奇心が宿っていた。
「知性があった……あの竜の黄金の瞳は、ただの獣のものではなかったわ……」
やがて王都からの援軍が到着し、現場は騒然となった。
生き残った騎士の報告により、
「王女一行が盗賊に襲われたが、突如現れた巨大な純白のドラゴンによって救われた」
という、にわかには信じがたい事実が王城へと伝えられる。
この出来事が、風竜ヴァイスと人間社会との間に、やがて大きな波紋を広げていくことになる。
まだ、ヴァイス自身はそのことを知る由もなかった。彼はただ、手頃な住処を見つけるべく、再び誰にも邪魔されない山脈の奥深くへと翼を進めていただけなのである




