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第八話 街道の騒乱

 百年ぶりに飛び立った空は、どこまでも青く、澄み渡っていた。

俺は風に乗り、雲を追い越し、眼下に広がる世界の姿を改めて目に焼き付けた。


 鬱蒼うっそうとした大森林を抜けると、穏やかな丘陵地帯が広がり、その先には豊かな緑の平野が見える。川が銀色の帯のように大地を走り、所々には小さな村のような集落が点在していた。


(あれが、人間の住む場所か)


 上空数千メートルの高みを飛んでいるため、人の姿までは見えない。だが、畑を耕し、家畜を育て、慎つつましく暮らしているであろう彼らの営みが、俺には何となく想像できた。


憎い相手。母さんを殺した、残酷で欲深い生き物。


 そのはずなのに、あの小さな集落の牧歌的な風景を見ていると、俺の胸には不思議と懐かしいような、温かい気持ちが込み上げてくる。

人間だった頃の記憶が、そうさせるのだろうか。

 俺は複雑な思いを抱えながら、ひとまず人間たちの生活圏から距離を置き、新たな住処に相応しい場所を探して飛行を続けた。


 数日後、俺は巨大な山脈地帯に差し掛かった。

故郷の山脈ほどではないが、それでも十分に険しく、人を寄せ付けない威容を誇っている。ここなら、静かに暮らせるかもしれない。

俺は山脈を縫うように飛び、手頃な洞窟がないか探した。


 その時だった。

山脈を貫くように一本の街道が走っているのが見えた。そして、その街道の上で、何やら物騒な騒ぎが起きている。

 俺は高度を下げ、気配を消しながら様子を窺った。

 そこでは、二十人近い、見るからに粗野な格好をした男たちが、一台の豪華な馬車を取り囲んでいた。

 馬車の周囲には、騎士と思われる兵士たちが数人倒れており、残った四人の騎士が必死の形相で剣を構え、馬車を守っている。


「ちっ、しぶとい野郎だ! おい、かかれ! 」

「へへへ、こんな山道を通るのが悪いんだよなぁ!」


 盗賊だ。そして襲われているのは、紋章からしておそらくどこかの国の貴人だろう。


(……人間同士の争いか)


 俺には関係のないことだ。

 そう頭では理解し、その場を立ち去ろうとした。だが、俺の翼はなぜかその場で凍り付いたように動かなかった。


 多勢に無勢。騎士たちの奮戦も空しく、一人、また一人と盗賊の凶刃に倒れていく。

 馬は興奮していななき、馬車の中からは女性のものらしき悲鳴が聞こえてくる。


「ぐあっ……!」

「ロバート!! くそっ、貴様ら!」


 一人の騎士が、背後から槍で足を突かれ、体勢を崩したところを数人の盗賊に袋叩きにされた。鈍い音が響き、彼の動きが止まる。

 残るは、最後の一人。


「へへへ、もう終わりだぜ、騎士様よぉ!」

「大人しく姫様を差し出しな! そうすりゃあ命だけは助けてやってもいいぜ? ……身ぐるみ剥いでからだがなぁ!」


 盗賊たちの卑怯で下品な笑い声が、風に乗って俺の耳まで届いた。


 姫?

 どうやら馬車に乗っているのは、どこかの国の王女らしい。

 最後に残った騎士も、肩で息をし、全身から血を流して満身創痍だ。

剣を持つ手も震えている。もはや時間の問題だろう。


(……見過ごすべきだ)


 彼らは人間。俺の母を殺した、憎い人間だ。彼らがどうなろうと俺の知ったことではない。同族同士で殺し合うなど、自業自得だ。


 そう自分に言い聞かせる。

 しかし、俺の脳裏に、不意に高校生だった頃の苦い記憶が蘇った。



_________________________


 放課後の教室。

 オレンジ色の西日が、埃の舞う放課後の教室に長い影を落としていた。ほとんどの生徒が部活や帰路につき、校舎を包む騒音は潮が引くように遠ざかっていく。俺はノートを教室に忘れたことに気づき、一人、静まり返った廊下を引き返していた。


 自分のクラスの引き戸を手にかけたその時だった。

中から、くぐもった声が聞こえたのは。聞き慣れた、クラスメイトたちの明るい声じゃない。

低く、威圧するような声と、何かに怯えているようなか細かい声。


 何かがおかしい。胸騒ぎを覚え、俺は音を立てないようにそっと引き戸を数センチだけ開けた。隙間から覗き込んだ光景に、俺は息を呑んだ。


 教室の隅、窓際の逆光の中に、三つの人影か俺の友人を囲んでいた。中心にいるのは、隣クラスの素行の悪い連中だ。ニヤニヤと汚い笑みを浮かべ、彼らは壁際に追い詰められた友人にじりじりと詰め寄っている。


「で、どうすんだよ。今日までだって言ったよな?」


リーダー格の男が、友人の胸ぐらを掴んで揺さぶる。友人は、青ざめた顔でか細かく首を横に張った。


「ご、ごめん…そんな大金、今すぐには……」

「ああ?聞こえねぇな。じゃあ、体で払ってもらうしかねえか」


 乾いた打撃音が、やけに静かな教室に響いた。

友人の小さな呻き声。俺は廊下の壁に背中を押し付け、自分の心臓が大きく波打つのを感じていた。冷たい汗が首筋を伝う。


 助けなきゃ。脳の片隅で、正義感を振りかざす自分が叫ぶ。彼は、俺の一番の友人じゃないか。いつも馬鹿な話をして笑い合っていたじゃないか。


 だが、足はコンクリートで固められたように動かなかった。恐怖が全身を金縛りのように支配していた。もし俺が飛び込んでいたら?あの拳が、次は俺に向けられる。俺も友人のように殴られ、金を奪われる。あいつらに目をつけられ、明日からの学校生活が地獄に変わる。その想像は、友情という脆い天秤をいとも簡単に傾かせた。


 隙間から見えた友人の瞳が、助けを求めるように虚空をさまよっていた。一瞬、俺と目が合ったような気がした。いや、気のせいだ。俺はここにいない。何もみていない。


 俺は自分にそう言い聞かせると、息を殺して後ずさった。軋む床に心臓が跳ねる。どうか、気づかれませんように。祈るような気持ちでその場を離れ、階段を駆け降りた。自分の足跡だけが、やけに大きく校舎に響いていた。


家に帰っても、夕食の味はしなかった。目を閉じれば、友人の怯えた顔と、不良たちの嘲笑いがまぶたの裏に焼き付いて離れない。俺は逃げたんだ。友人を見捨てて、自分の保身のためだけに。その事実が、鉛のように重く胃の腑に沈んでいた。


 翌日、教室のドアを開けるのが恐ろしかった。重い足取りで自分の席に着くと、いつもより空気が張り詰めていることに気づく。やがて、教室の後方のドアが開き、友人が入ってきた。


 教室中の視線が、一斉に彼に注がれる。そして、誰もが息を呑んだ。


 彼の顔は、見るも無惨に腫れ上がっていた。左の目元にはどす黒い痣が広がり、唇の端は切れ、痛々しく赤く染まっている。

昨日までと同じ制服を着ているのに、まるで別人だった。彼は誰とも視線を合わせず、俯いたまま自分の席に向かって歩く。


その途中、俺の席の真横で、彼の足がピタリと止まった。


 ゆっくりとゆっくりと、彼が顔を上げる。そして、俺の目をまっすぐ見た。その瞳には、昨日までの彼が浮かべていた人の良さそうな光など微塵もなかった。あるのは、裏切られたものだけが浮かべる、絶望と、かすかな怒り。


震える唇が、静かに開かれた。


「お前、見てたんだろ?」


それは、周りの喧騒を切り裂く、告発の声だった。教室のざわめきが嘘のように静まり返る。誰もが、固唾を飲んで俺たちを見ていた。


「なんで……」


彼の瞳から、堪えていた涙が一筋、腫れ上がった頬を伝った。


「なんで、助けてくれなかったんだよ」


 その声は怒りよりも、どうしようもない悲しみに満ちていた。俺は何にも言い返せなかった。どんな言葉も、言い訳にしかならない。喉がカラカラに乾き、ただ俯くことしかできない。クラスメイトたちの侮蔑と好奇の視線が、針のように全身に突き刺さる。


自分の弱さが、卑劣さが、どうしようもなく恥ずかしかった。


_________________________



あの時と今。何が違う?


 今の俺には、彼らを救えるだけの圧倒的な力がある。

 目の前で、理不尽な暴力に晒されている弱者がいる。俺にはそれを止めることができる。

 ただ、それだけのことだ。

 相手が人間だからという理由は、この状況で何の意味がある?

 母さんは俺に生きろと言った。ただ憎しみに囚われて、心を殺して生きろとは言わなかったはずだ。


「……はぁ。面倒なことに首を突っ込むのは柄じゃないんだがな」


 俺は小さくため息をつくと、覚悟を決めた。

殺すつもりはない。前世の倫理観がそれを許さないし、人間と同じレベルに堕ちたくはない。

ただ、少し懲らしめて、追い払うだけだ。

俺は雲の切れ間に隠れていた身体を一気に急降下させた。


 巨大な翼が風を切り、ジェット機のような轟音を立てる。

突然空から降ってきた巨大な影に、盗賊も、最後の騎士も、皆が皆、呆然と空を見上げた。

 彼らの目には、太陽を背にして降臨する、神々しく輝く純白の竜の姿が映っていた。


「な……な……」

「ど、ドラゴン……!?」

「でけぇ……! なんだありゃあ!?」


 彼らが何かを言うより早く、俺は行動を起こした。

 口からブレスを放つ。だが、それは殺傷を目的としたものではない。マナの出力を極限まで抑え、ただ強烈な突風を生み出すためだけの、威嚇の咆哮。


 ゴオオオオオオオオオッ!!


 嵐のような突風が、街道を一直線に薙ぎ払った。

 盗賊たちは、なすすべもなく枯れ葉のように宙を舞い、悲鳴を上げながら森の奥へと吹き飛ばされていく。

 木々に叩きつけられたり、岩にぶつかったりした者もいるだろうが、まあ、自業自得だ。骨の二、三本は折れているかもしれないが、命までは取っていないはずだ。

 一瞬にして、街道は静寂を取り戻した。

 残されたのは、倒れた騎士たちと、豪華な馬車。そして、かろうじて吹き飛ばされずに済んだ、最後の一人の騎士だけ。

 俺はゆっくりと、その騎士の前に着地した。

 ズンッ、と大地が揺れる。

 ふう、と一息つき、これで一件落着、とばかりに飛び去ろうとした、その時。


「……化け物がぁっ!」


 絶叫と共に、その騎士が震える足で立ち上がり、俺に向かって折れかけた剣を振りかざしてきたのだ。


 その瞳に宿っているのは、感謝などではない。

紛れもない、異形の怪物に対する「恐怖」と「敵意」だった。


 助けてやったはずなのだが。

 どうやら彼にとっては、盗賊もドラゴンも等しく「死をもたらす脅威」でしかなかったらしい。

言葉の通じない怪物。それが、彼らから見た俺の姿なのだ。

人間とは、本当に厄介で、面倒な生き物だ。

俺は本日二度目のため息を、心の中で深くついた。




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