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第三話 幼竜の学び舎

 白き風竜ヴァイスとしての生が始まってから、およそ一年が過ぎた。

俺の成長速度は、人間のそれとは比べ物にならなかった。

 

生まれた時は精々小型犬ほどだった身体は、今や大人の人間の背丈を優に超えるまでになり、純白の鱗は太陽の光を浴びると、磨き上げられたプラチナのように鋭い輝きを放ち始めている。


 背中の翼も力強く大きくなり、時折吹き込む風を受けては、バサリと広がるようになり、

洞窟の中を駆け回り、財宝の山に登っては滑り落ちるのが、俺の日課であり遊びだった。


この一年、母竜は俺にとってはただ「母」だった。


偉大なる白竜は、生きるための様々な術を叩き込んでくれた。それは言葉ではなく、常に実践を通して行われる、命がけの授業だった。


 最初の試練は「食事」だった。

いつまでも母さんが小さく切り分けてくれた肉を、甘えて食べているわけにはいかない。

ある日、母さんは俺の前に、まだ息のある巨大な野兎のような魔物を放り出した。

その魔物は恐怖に震え、必死に逃げようともがいている。


『自分で仕留めなさい』


 テレパシーで、母さんの厳しくも静かな声が脳裏に響く。

俺は戸惑った。前世の記憶。平和な日本で培われた倫理観が、目の前の小さな命を奪うことに強烈な拒否反応を示したのだ。

 だが、腹は猛烈に空いている。そして何より、母竜の瞳が、これが生きるために越えねばならない壁なのだと、雄弁に物語っていた。


 俺は覚悟を決めた。鋭く伸び始めた爪を振り下ろし、震える手で、野兎の背を押さえ込む。

 

一瞬の躊躇。

 その甘さを、野生は見逃さなかった。野兎が死に物狂いで暴れ、強靭きょうじんな後ろ足が俺の鼻先を蹴り上げたのだ。


「いっ……!」


 思わぬ反撃に、俺はたじろいだ。鼻がじんじんと痛み、涙が滲む。

 その時、母さんの呆れたような、しかしどこか面白がっているような気配が伝わってきた。


『情けは、己の身を危険に晒すだけ。狩りは、喰うか喰われるか。それだけよ』


 その言葉に、冷水を浴びせられたように我に返った。

 ここは弱肉強食の自然界なのだ。スーパーでパック詰めされた肉しか知らなかったレンの感傷など、ここでは命取りになる。


 俺は再び野兎に飛びかかった。今度は躊躇はない。

本能に従い、牙を剥き、爪を食い込ませ、その急所を的確に貫いた。

手のひらの中で、暴れていた命の灯火がフッと消える。その重く、静かな感触。


罪悪感がないわけではなかった。

だが、それ以上に、「生きている」という生々しい実感と、初めて自力で獲物を得たという震えるような達成感が、俺の心を支配した。



次に始まったのは、ドラゴンにとって最も重要と言える「飛行訓練」だった。

 俺たちの巣があるのは、雲を突き抜けるほど高く、切り立った山脈の断崖絶壁の中腹だ。下は霞んで見えないほどの谷底。飛べなければ、この巣から一歩も外の世界へ出ることはできない。

 

ある晴れた朝、母さんは俺を崖の淵まで連れて行くと、ただ一言、こう告げた。


『跳びなさい』



「……え?」


 思わず間の抜けた声が出た。



 恐る恐る下を見下ろせば、目が眩むほどの高度だ。ここから跳べと? 

冗談じゃない、自殺行為だ。

 

俺が尻込みして後ずさりしようとした、その時。

 母さんの巨大な前足が、俺の背中をぐいと押した。


「うわあああああっ!?」


 無慈悲な一押しに、俺の身体はなすすべもなく宙に投げ出された。

 重力に引かれ、眼下に迫る地面。叩きつけられれば間違いなく即死だ。

 死の恐怖が全身を駆け巡り、俺は悲鳴を上げながら必死で背中の翼を動かした。


 ばた、ばた、ばた!


 溺れる者が藁をも掴むように、無我夢中で翼を羽ばたかせる。しかし、身体は一向に浮き上がらず、きりもみ状態で落下していくだけだ。



 もうダメだ。そう思った瞬間。



 ふわりと、身体が見えないクッションに持ち上げられる感覚があった。

 見ると、母さんが俺のすぐ下を滑空し、その巨大な翼が生み出す上昇気流で俺の身体を支

えてくれていたのだ。


『翼の力だけで飛ぶのではありません。風を読み、風を「掴む」のです』


 母さんの声が、風に乗って直接心に響く。



 風を掴む?



 言われた通り、俺は無駄な羽ばたきを止め、翼を一杯に広げて風の流れに意識を集中させてみた。




すると...見えた。



 これまでただの空気の塊だと思っていた空間に、いくつもの「風の道」が流れているのが肌で感じられたのだ。



 上昇する道、下降する道、複雑に渦を巻く道。


 その光景はまるで、目に見えない巨大な川の流れのようだった。


(そうだ、空気も水と同じ「流体」なんだ……!)


 高校の物理で習った知識が、直感と結びつく。水流に逆らえば押し流されるが、流れに乗れば力を使わずに進めるのと同じ理屈だ。

 俺は上昇気流の道を捉え、翼の角度(迎角)を微妙に調整した。

 すると、身体がぐんと持ち上がる。


翼が風をはらみ、重力から解き放たれる感動的な浮遊感。

俺は夢中で翼を傾け、風の流れに乗った。

 

最初はぎこちなく、何度も高度を落としかけたが、母さんの的確な指導と風のサポートのおかげで、俺は数時間後にはなんとか自力で空中に留まれるようになっていた。

 

初めて自分の力で飛んだ空から見下ろす世界は、言葉を失うほどに美しかった。

 どこまでも続く雄大な山脈、陽光を反射してきらめく銀色の川、そして遥か彼方に見える緑の絨毯のような広大な森。


この世界はなんて広くて、自由なんだ。

 俺は喜びのあまり、天に向かって咆哮した。まだか細く、可愛らしいものだったが、それは紛れもなく、風竜ヴァイスの産声だった。




 狩りと飛行。その二つを習得した俺に、母さんは最後の教えを授けた。

 それは、ドラゴン最大の武器である「ブレス」の訓練だ。


『体内の魔力を練り上げ、喉元に集中させなさい。そして、それを一気に吐き出すのです』


 洞窟の奥深く、最も広い空間で、母さんは手本を見せてくれた。

 母さんが深く息を吸い込むと、その喉元が淡い青色の光を放ち始める。

 そして、次の瞬間。


 ゴオオオオオオッ!!


 圧縮された空気の刃とでも言うべき、凄まじい衝撃波が口から放たれた。

 それは洞窟の壁に激突し、硬い岩盤をバターのように容易く抉り取り、轟音と共に無数の破片を撒き散らした。

 

風のブレス。俺たち風竜の力の源だ。


 俺はゴクリと喉を鳴らし、見様見真似で魔力を練り始めた。

 体の中に、もう一つの心臓があるような熱い感覚。それが魔力を生み出す器官なのだろう。意識を集中させると、温かいエネルギーが喉元に集まってくるのがわかった。


(いける!)


 俺は大きく息を吸い込み、思い切り吐き出した。


「ふしゅるるる……」


 口から出たのは、情けない音を立てるただの気の抜けた吐息だった。

 母さんがまた、呆れたような深いため息をつくのが気配でわかった。


 ブレスの習得は、これまでで最も困難を極めた。

 魔力の集中はできても、それを強力なブレスとして放出するコツがどうしても掴めないのだ。何度も挑戦しては失敗し、喉を痛めて咳き込むばかり。


 そんなある日、俺はふと、前世の記憶を思い出した。

 高校の物理で少しだけ興味を持った、流体力学の知識。




 ―ベンチュリ効果ー

 流体の通り道を絞ることで、流速を加速させる原理。スプレー缶や、ジェットエンジンのノズルと同じ理屈だ。


 ただ闇雲に吐き出すのではなく、イメージするのは「圧縮」と「解放」。

 喉の奥の筋肉をバルブのように締め、魔力を極限まで高圧に圧縮して、一点から一気に解放する。


(……これなら、いけるかもしれない)


 俺は再び深く息を吸い、体内の魔力を練り上げた。

 そして喉をきつく締め、圧縮し、圧縮し、限界まで溜め込む。魔力が喉元で暴れ、高温の熱を帯びるのを感じる。

 

(今だ、解放!)


 ヒュオオオッ!


 これまでとは比較にならない鋭い高音と共に、小さな空気の弾丸エア・バレットが俺の口から射出された。

 それは前方の岩壁に当たり、バスッと心地よい音を立ててこぶし大の穴をあけた。


 成功だ!

 俺は思わず歓喜の声を上げた。

 威力も規模も、まだまだ母さんのブレスには遠く及ばない。

けれど、そこには確かな手応えがあった。前世の知識が、この異世界で新たな力として花開いた瞬間だった。

 

母さんも、俺の小さな成功を褒めるように、優しく喉を鳴らしてくれた。


 こうして、狩り、飛行、そしてブレスという、ドラゴンとして生きるための三つの力を、俺は手に入れた。

 母さんの元で過ごす日々は厳しくも、穏やかで満ち足りている。

 この幸せな時間が永遠に続けばいい。

 当時の俺は、心の底からそう信じて疑わなかったのだ。



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