第二話 母なる竜と風の名
砕け散った卵の殻から、ぬめる身体を引きずり出す。
新たな肉体を得て、這い出た俺、かつてのレンは、呆然と目の前の光景を見上げていた。
そこは、天井が霞んで見えないほど巨大な空洞だった。
天然の鍾乳洞のようだが、壁面の至る所からクリスタルが突き出し、外部から差し込む光を乱反射させて幻想的な輝きを放っている。
そして床には、山のような金貨、宝石、武具、見たこともないお宝が無造作に積み上げられていた。
その光景は、まさにおとぎ話に出てくる「竜の巣」そのものだ。
だが、そんな財宝の輝きすらも霞むほどの圧倒的な「覇気」が、眼前に鎮座している。
俺の前でとぐろを巻く、あまりにも巨大な影。
全身を覆うのは、白い鱗。
一つ一つが磨き上げられた鏡のように美しく、洞窟内の淡い光を受けて神々しくきらめいている。
しなやかに伸びる長い首、鋭い爪を備えた城壁のように頑強な四肢、そして背中には、雄大に折りたたまれた一対の翼。
俺がいた卵など、その巨体に比べれば、ただの小石に過ぎないだろう。
息を飲むことさえ忘れて、俺は見惚れていた。
その生物が何であるか、理解するのに時間はかからなかった。
(……ドラゴン)
ファンタジーの世界で最強の象徴として語られる、伝説の幻獣。
俺が転生した姿も、おそらくはその幼体なのだろう。
自分の手足を見れば、母と同じ純白の鱗に覆われた小さな爪があり、背中には可愛らしい翼の原型がちょこんと生えている。
俺がその威容にただただ圧倒されていると、巨大な白竜がゆっくりと首を下げ、俺の顔を覗き込んできた。
その瞳は、大空の澄んだ青色のように輝き、夜空の月よりも大きく見える。
至近距離で対峙する圧倒的な質量と、食物連鎖の頂点に立つ者特有の覇気。あまりの威圧感に、生まれたばかりの身体が本能的にすくみ上がった。
(喰われる……ッ!)
死の恐怖が全身を駆け巡った、その瞬間。
「グルルゥ……。」
白竜は、喉の奥で雷鳴のような低い音を鳴らした。
しかし、それは威嚇ではなかった。鼓膜ではなく、心臓に直接響くような、どこまでも優しく、慈愛に満ちた響き。
温かくザラリとした感触の巨大な舌が、俺の身体をぺろりと舐める。
卵の殻の粘液が丁寧に拭われ、温かい唾液が全身を包み込んでいく。
こわばっていた身体の力が、ふっと抜けた。
それはまるで、人間の母親が生まれたばかりの赤子を抱きしめるような、深い愛情のこもった行為だった。
(……母さん、なのか?)
言葉は通じない。だが、魂の深いところで理解できた。
この偉大なる白竜は、紛れもなく俺の母親なのだと。
その事実に気づいた途端、レンとして抱えていた孤独や不安の塊が、一気に溶けていくのを感じた。
理不尽な事故で失った家族、もう二度と会えない友人たち。その喪失感は消えない。けれど、この見知らぬ異世界で、俺は決して独りではない。
そう思えただけで、目頭が熱くなり、視界が滲んだ。
母竜は俺が落ち着いたのを見届けると、再びゆっくりと身体を起こした。
そして、遥か彼方に見える洞窟の入り口の方へ向かって、低く、しかし威厳のある声で咆哮した。
「グオオオオオオッ!!」
それは単なる獣の鳴き声ではなかった。
風が唸り、大気が震え、洞窟全体がビリビリと共鳴する。咆哮に込められた不可視の波動が、洞窟の外へと波紋のように広がっていくのが肌で感じられた。
(なんだ、今の……?)
ただの空気の振動ではない。肌があわだつような、濃密で重たい何かが、咆哮に乗って広がっていく。
この世界の大気中には、地球には存在しなかった未知のエネルギーが満ちている。
あらゆる生命の源であり、魔法を行使するための燃料。
この世界の人々は、それを『魔素』と呼ぶ。
(……そうか、これが『魔力』ってやつか?)
レンの脳裏に、生前の記憶がフラッシュバックする。
ラノベやゲームで幾度となく目にした概念。
母さんの咆哮は、ただ大きな声を出しているだけじゃない。この大気中に充満するエネルギーを直接振動させ、遥か遠くまでその意思を伝達しているのだ。
ドラゴンという種族の本能が、そう告げていた。
すると、数分もしないうちに、洞窟の外からバサバサという翼の羽ばたく音が聞こえてきた。
現れたのは、母竜ほどの巨体ではないが、それでも十分に大きな飛竜たちだ。
コウモリのような翼を持つ二本脚の竜に、鷲の上半身を持つ獅子。
ファンタジー知識に照らし合わせるなら、あれはワイバーンやグリフォンといった魔物だろうか。
彼らは、狩ってきた獲物を口や足に掴んで、次々と洞窟の中へ入ってくる。
そして母竜の前まで来ると、怯えたように小さくなり、うやうやしく頭を垂れた。獲物である巨大な猪や鹿のような魔物を、そっと床に置く。
まるで、女王に貢物を捧げる忠実な臣下のように。
どうやら母竜は、単に強いだけでなく、この地域の生態系の頂点に君臨し、他の魔物たちを従える絶対的な支配者らしい。
母竜は、運ばれてきた獲物の中から一番新鮮そうなものを一つ選ぶと、鋭い爪で巧みに肉を引き裂いた。血の滴る肉塊を、俺の目の前に優しく差し出してくる。
まだ温かい、生の肉。
鉄錆のような血の匂いが、強烈に鼻をつく。
人間だった頃の感覚からすれば、嘔吐感をもよおすような光景だ。
焼いてもいない、捌かれてもいない、ただの死肉。
到底食べられたものではないと、理性が全力で拒絶した。
だが、俺の喉がゴクリと鳴った。
今の俺の身体は、本能的にそれを「極上の御馳走」だと認識していたのだ。
この肉には、生物の生命力だけでなく、マナも豊富に含まれている。生まれたばかりの竜の成長には、他の魔物の肉、つまりマナを取り込むことが不可欠なのだ。
腹の底から湧き上がる、焼き付くような強烈な飢餓感。それに抗う術など、最初からなかった。
俺は夢中で肉にかじりついた。
ガツッ、グチャリ。
生臭い。だが、驚くほどに甘く、美味い。
肉を噛み砕き、飲み込むたびに、熱い奔流となって力が身体の隅々までみなぎっていくのがわかる。細胞の一つ一つが歓喜し、爆発的に活性化していく感覚。
これが、ドラゴンとして生きるということなのだ。
食事を終え、満腹になった俺が母竜の足元で丸くなっていると、母竜は再び俺に顔を寄せ、ひんやりとした鼻先を優しく擦り付けてきた。
そして、今度は俺の頭の中に、直接「音のない声」が響いてくる。
『――――』
それは、言葉ではなかった。
もっと根源的で、膨大なイメージの奔流だ。
脳裏に、鮮烈な映像がなだれ込んでくる。
どこまでも広がる蒼穹を、自由自在に駆け抜ける疾走感。
優しく頬を撫でる春のそよ風。
全てを薙ぎ払い、世界を浄化する荒れ狂う暴風。
そして、雲を切り裂き、高みへと昇っていく高潔な魂。
(……すごい)
ただの単語ではない。意味と、願いと、景色が凝縮された情報の塊。
(これは……名前?)
母竜は、俺に名前を与えようとしているのだ。
人間としての「レン」という個は、もう過去のもの。この世界で、この純白の翼を持つドラゴンの身体で生きていくための、新しい真名が必要だ。
風を司る高貴な竜の一族。
その子である俺に、母は風にまつわる名を授けようとしてくれている。
俺は、奔流のように流れ込んでくる無数のイメージの中から、たった一つ、自分の魂に共鳴するものを選び取った。
それは、穏やかでありながら力強く、時には全てを破壊する激しさを持ち、しかし最後には優しく包み込む……そんな、自由で気高い「白き風」のイメージ。
(……この名がいい)
俺が心の中でそう強く念じると、母竜は満足げに、嬉しそうに喉を鳴らした。
そして、再び俺の頭の中に、今度はハッキリとした「言葉」として、その響きが刻み込まれた。
『――ヴァイス』
それが、この世界での俺の新しい名前になった。
風竜、ヴァイス。
白き風の申し子。
この瞬間から、俺のドラゴンとしての本当の生が始まったのだ。
偉大なる母竜の深い愛情に見守られながら、この過酷で、残酷で、けれど息をのむほどに美しい世界を生きていく。
そのための術を学ぶ日々が、今ここに幕を開けた。




