浮気現場に突入した私が、泣き喚く代わりに絶望が詰まった「引継ぎ資料」を渡した結果。
「お疲れ様でーす! 業務連絡に参りましたぁ!」
バコォォォンッ!!
ホテルの重いドアをヒールを履いた右足で景気よく蹴り開けた。
ベッドの上で絡まっていた婚約者の正輝と、同じ会社の後輩・キララが、文字通り跳ね上がった。
「なっ……、いろは!? なんで、ここにっ……!」
「う、嘘……、奥さん!?」
「あ、動かないで。ピントがボケるから」
私は無表情のまま、最新iPhoneのシャッターをパシャパシャと切る。
まずは証拠確保。これ、基本中の基本。
「いろは、落ち着け! これは、その、違うんだ!」
「何が違うの? その距離感で『格闘技の寝技を研究してた』とか言ったら、今すぐこの場で腕ひしぎ十字固めを極めてあげるけど?」
「ひっ……!」
正輝が引き攣った声を出す。
私はカバンから、ずっしりと重い『A4フラットファイル』を取り出しベッドの端に放り投げた。
「はい、これ。新任の浮気相手のキララさんへ。前任の元婚約者から『業務引き継ぎ資料』です。よく読んで、一分以内に理解して」
「え、あ……、引き継ぎ……?」
22歳のキララが、おそるおそる資料をめくる。
そこには、専門職である私のスキルをフル活用した完璧なグラフと表が並んでいた。
「項目1、正輝の収支報告書。正輝の給料は手取り二十万だけど、毎月のクレカ支払いは三十五万。差額の十五万は同棲半年間、全部私が補填してました。はい、これ領収書の束ね」
「えっ……、まさきさん、貯金あるって……」
「ないよ。あるのは消費者金融からの借入、通称『魔法のカード』が三枚。現在借金額、合計二百三十万円。あ、これキララさんに貢いだバッグの代金も含まれてるから、あんたも共犯ね」
「は……!? 二百……、三十……!?」
キララの顔から血の気が引いていく。
私は淡々と、事務的なトーンで追い打ちをかけた。
「項目2、重要事項。正輝のママンこと、良子さんについて。合言葉は『まーくん、今日のご飯はママンの特製肉じゃがよぉ~ん!』。週三回、合鍵で同棲中の部屋に不法侵入してきます」
「え、まさきさん、お母さんとは疎遠だって……」
「逆よ。心はまだへその緒で繋がってるわ。ちなみに良子さん、気に入らない女の靴には『お清めの塩』と称してアジシオを大量に振りかける癖があるから、お気に入りのパンプスは隠しておきなさい」
「ア、アジシオ……!?」
「おい、いろは……!」
「正輝、あんたは黙ってて。今、あなたの新しい飼い主さんと人生相談中なんだから。……あ、キララさん、項目の4を見て。正輝の『靴下裏返し脱ぎ放置罪』と『トイレの便座上げっぱなし刑』について詳しく書いてあるから。これ毎日やられると地味に殺意沸くわよ。ちなみに、脱ぎ捨てられた靴下は、翌朝にはカピカピの化石となってリビングに転がっています。それを毎日無言で表に返し、洗濯機に入れる忍耐力があなたにある?」
「い、嫌です……。そんなの絶対無理です……」
「だよね。さらに追い打ち。彼、同棲半年で一度も風呂掃除したことないから。カビを育てるのが趣味みたい。あなたが仕事で疲れて帰ってきても、彼はソファでスマホゲームしながら『飯まだー?』って聞いてくるわよ。あ、その時のメニュー指定は『カレー。ただしジャガイモは溶けてるやつ』ね」
「ちょ、いろは! 言い過ぎだろ! 男なんてそんなもんだろ!」
正輝が情けなく叫ぶ。私は冷徹な視線で彼を射抜いた。
「『そんなもん』を、私の高年収で甘やかして、ママンの突撃から守って、借金を肩代わりしてあげてたのが私。で、その労力を全部ドブに捨ててくれたのが、今。わかる?」
「あ……」
「キララさん、まだ一ページ目よ。先は長いから、姿勢を正して」
私はホテルの備え付けの椅子を回してドカリと座った。
ちなみに正輝は完全に無視。視界に入れるのも視細胞の無駄遣いだ。
「更に次の項目。彼の『深夜のポテチ・ハラスメント』について」
「ポテチ、ハラスメント……?」
キララが引き攣った顔で文字を追う。
「そう。彼は深夜二時になると、眠っている私を叩き起こして『うすしお味が食べたい。買ってきて』と宣う特殊技能の持ち主です。無視すると『俺のこと愛してないんだ!』と三歳児並みの癇癪を起こすオプション付き」
「えっ……、まさきさん、そんな……」
「おい! いろは! 勝手に俺の生活習慣をバラすな! それはお前が俺を甘やかすからだろ!」
外野がうるさい。私は正輝の方を一切見ず、手鏡を取り出して前髪を整えながら言い放った。
「静かにしな、不良債権。今、後任者への引き継ぎ中だから。口を挟む権利があるのは、私の銀行口座に慰謝料を全額振り込んでからにして」
「ひっ……!」
蛇に睨まれたカエルのように正輝が黙り込む。
私はキララに向き直り、慈愛(自称)に満ちた笑みを浮かべた。
キララの手がガタガタとファイルを震わせる。憧れだった「社内の素敵な先輩」が、私の口によって、刻一刻と「燃えないゴミ」へと再定義されていく。
「……あの、いろはさん。まさきさんって、もっとこう、スマートで……」
「それは私が彼の給料より高い美容代を出して、私の職権で仕事のミスをフォローして、私が彼のマザコン発言を検閲してたから。つまり、今目の前にいるのは、中身を全部抜かれた『ただの抜け殻』よ。……これ、本当に欲しい?」
私は冷徹に、次の一撃を準備した。
「……さて、キララさん。項目2でも伝えたけど、正輝のママンの追加事項があるわ。そう、その付箋が三枚貼ってあるページよ」
キララが震える指でページをめくる。そこには大きく『超超超重要:ラスボス・良子婆』の文字。
「……アジシオ以外に、……他にも……?」
「これを見て。昨日私のスマホに届いたLINEのスクリーンショットよ」
私はスマホをキララの鼻先に突きつけた。
『まーくんのシャツの柔軟剤、安物に変えたでしょ! まーくんの肌はデリケートなんだから、ママンが送った特製のオーガニック水(1本3000円)で手洗いしなさい! あ、今から部屋の確認に行くから玄関開けといて!』
「……ひっ!?」
「これ、夜中の11時半。ちなみにこれに対して、正輝が私に送ってきた指示がこれよ。『母さん怒ってるから、ちゃんと謝って手洗いしとけよ。俺は寝るから』」
「まさきさん……、嘘でしょ……?」
キララが絶望の眼差しを正輝に向ける。正輝は「いや、母さんは俺たちのことを思って……」と小声で言い訳を始めた。
「さらにこれ。良子さんは息子のパンツを自分で選びたい派でね。今、正輝が履いてるそのド派手なクマさん柄のトランクス……、それ、ママンのチョイスよ。キララさん、あなた、それを見てムラムラできる?」
「無理です……! 絶対に、永久に、一億パーセント無理です!!」
「だよね。はい、恋の魔法、解けたー。パチパチパチ」
無表情で拍手する私。
その時、沈黙していた正輝が顔を真っ赤にしてガバッと起き上がった。プライドをズタズタにされた負け犬の逆ギレだ。
「……いい加減にしろよ、いろは!! なんだよその上から目線は! お前、自分が稼いでるからって、俺を馬鹿にしすぎなんだよ!」
「馬鹿にしてないわよ。事実を陳列してるだけ」
「うるさい! 専門職だか何だか知らないが、女のくせに可愛げもなく稼ぎやがって! 俺が浮気したのは、お前が仕事ばっかりで俺を男として立てないからだ! キララは俺を頼ってくれる。お前みたいに、理屈で人を追い詰めたりしないんだよ!」
正輝が吠える。キララが「いや、私はもう……」と引き気味に距離を置くが、彼は止まらない。
「大体、お前のその高年収だって、俺が家で支えてやってたからだろ!? 内助の功だよ! 慰謝料なんて払うもんか! むしろ、俺の精神的苦痛に対して金を払え!」
私はゆっくりと立ち上がり、冷え切った視線で正輝を凝視した。
「……内助の功? どの口が言ったの、それ」
カバンからもう一枚、今度はカラーグラフの資料を取り出す。
「直近半年の家事分担比率。私:98%、あんた:2%。あんたが内助の功だと言い張る『支え』の具体的内容を教えて。私が夜中まで報告書を作成している横で、ビール片手にスマホゲーの課金ガチャを回して『爆死したー! 慰めてー!』と叫ぶこと?」
「それは……、いろはをリラックスさせてやろうと思って……!」
「さらに、あんたが『男を立てろ』と言った仕事。先月の案件、あんたの致命的なミスを私が裏で取引先に頭下げて修正したの、忘れたの? あんたの役職が維持されてるのは私のコネと温情。……はい、これ、さっき私の叔父で人事部長に送った『正輝君の素行と、私物化された社用経費(デート代)の報告書』の送信済み画面」
「は……? じんじ……、ぶちょう……?」
「あんた、明日から会社での居場所、あると思う? 借金まみれ、マザコン、仕事は無能、おまけに不倫。……ねえ、キララさん。この『歩く不良債権』、まだ頼りがいがある男に見える?」
キララは無言で首を横に振り、そのままベッドから滑り落ちて部屋の隅まで後退した。
「さあ、正輝。論理でボコボコにされるのは嫌いだったわね。じゃあ、もっと分かりやすく『数字』で話し合おうか」
私はペンを回しながら、ニッコリと、しかし目は一切笑わずに微笑んだ。
「……もう、耐えられません!」
沈黙を破ったのはキララだった。
彼女は床に散らばった『業務引き継ぎ資料』をひったくるように掴むと、ベッドの上の正輝に向かって叩きつけた。
「まさきさん! 格好いい先輩だと思ってたのに中身はマザコンの借金まみれ、おまけに生活能力ゼロのゴミだったなんて! こんな物件、不良在庫です! 一生倉庫でカビててください!」
「え、キララ……? 待てよ、俺たちは愛し合って――」
「愛!? 寝言は寝てから言ってください! 私、被害者ですから! こんな地雷踏まされたこっちの身にもなってよ!」
パコーーーンッ!!
乾いた実にいい音が部屋に響き渡った。
キララの全力ビンタを食らった正輝の顔が、情けなく横に流れる。
彼女はそのまま下着にコートを羽織っただけの姿で、脱兎のごとく部屋から逃亡した。
「あ、キララさん。資料忘れていかないでねー」
遠ざかる足音に軽く手を振り、私は視線を正輝に戻した。
彼は頬を抑えたままガタガタと震えている。
「い、いろは……、ごめん。俺が馬鹿だった。やっぱりお前しかいないんだ! お前の稼ぎがあれば、借金だってすぐ返せるし、母さんとも上手くやっていけるだろ!?」
「……正輝。あんた、鏡見たことある?」
私は冷徹に最後の手札を切った。
「その顔、今のあんたに一円の価値もないって書いてあるわよ。あ、それから。あんたが今夜帰るはずだった同棲中の部屋、さっき鍵交換業者を呼んでシリンダーごと変えといたから。あんたの荷物は全部段ボールに詰めて着払いで実家のママン宛に送っといたし。アジシオたっぷり振りかけてもらってね」
「は……!? 鍵、変えた……? 俺の家だぞ!」
「私の名義、私の支払い。法的にも物理的にも、あんたの居場所は地球上のどこにもないの。……はい、これ。今回の件の 『婚約解消合意書兼、慰謝料請求書(合計五百万円也)』」
私は正輝に金額と振込先が明記された紙を置いた。
「期限は一週間。遅れたら次は私じゃなくて『プロの取り立て屋(弁護士)』が行くから。じゃあね、不良債権。二度と私の人生にログインしないで」
「待て! いろはぁぁぁ! 行かないでくれぇぇ!!」
背後で響く絶望の叫び。
それをBGMに、私は一度も振り返ることなくホテルの部屋を後にした。
一時間後。
私は同じホテルの最上階にあるラウンジで、夜景を見下ろしながらソファに身を沈めていた。
テーブルの上には一杯二千五百円の最高級シャンパン。
そして正輝から回収したばかりの、震える字で書かれた「婚約解消合意書」が誇らしげに鎮座している。
「ふぅ……。やっぱり、ゴミ捨ての後のシャンパンは格別ね」
グラスを傾け、琥珀色の液体を喉に流し込む。
スマホには正輝からの着信が百件以上入っているが、そのすべてを一括でブロックリストに叩き込む。
――自由。
そして、高年収を自分のためだけに使える贅沢。
「……あ。そうだ」
私はふと思い出し、ラウンジのスタッフを呼んだ。
「すみません。今夜は最高に気分がいいので、一番高いデザートを。……あ、でもジャガイモが溶けたカレーだけは、死んでも持ってこないでくださいね?」
スタッフの困惑した顔を横目に、私は優雅に微笑んだ。
第二の人生は、今、最高にスッキリした状態で幕を開けたのだ。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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浮気現場に殴り込むなら、泣くよりも『現実』を突きつける方がスッキリしますよね。
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