地獄を踏み抜いた私は、壊した男を生かしたまま物語から降ろされました
第一章 祝祭の朝は骨の音がする
祝祭の朝、ジュリアンヌは自分の体が妙に軽いことに気づいた。
空腹ではない。眠れていないわけでもない。ただ、骨の内側が薄くなったような感覚があった。
通りには花と布が溢れ、鐘の音が空気を叩いていた。人々は笑顔を貼りつけ、誰もが「正しい喜び」を演じている。ジュリアンヌも例外ではない。薄桃色のドレスを整え、髪に結ばれたリボンを指で確かめる。その指先が、わずかに震えていることに気づかないふりをした。
「大丈夫?」
声をかけてきたのはニトだった。彼は祝祭の運営補佐で、いつも几帳面に役割をこなす男だ。
「ええ」
ジュリアンヌは微笑む。微笑み方は何度も練習した。祝祭にふさわしい、柔らかく、無害な微笑み。
広場ではブリートが人の流れを誘導し、チッチが子どもたちに飴を配っている。ロザリオは祈りの言葉を唱え、ケーンは警備の位置を確認していた。ミュアイスとリコは舞台装置の最終調整に追われ、誰一人として空を見上げていない。
空だけが、やけに澄んでいた。
「始まるわ」
ロザリオの声と同時に、音楽が鳴り響く。祝祭の開幕だ。
そのとき、ジュリアンヌは感じた。
視線。
熱を帯びた、ねっとりと絡みつくような視線が、背中を撫でる。
振り返ると、そこにミュシャがいた。
彼は他の誰とも違っていた。祝祭用の衣装を着てはいるが、布の下に隠す気のない歪みがある。笑っていないのに、口元だけが楽しげに歪む。その目は、人ではなく「素材」を見る目だった。
「きれいだね、ジュリアンヌ」
その言葉は褒め言葉の形をしていなかった。
「……ありがとうございます」
声が少し掠れる。
ミュシャは近づき、彼女の耳元で囁く。
「今日は壊れやすい日だ。音がいい」
何の音か、聞き返す前に、彼は離れた。まるで触れただけで満足したかのように。
祝祭は進む。踊り、歌、喝采。
そして「選別」の時間が来る。
表向きは抽選だ。くじを引き、代表が選ばれる。それが名誉であるかのように説明される。
ジュリアンヌはくじ箱の前に立たされた。理由は知らされない。ただ「ふさわしいから」と言われただけだ。
紙を引く。
白い。
何も書かれていない。
ざわめきが広場を満たす。
「当たりだ」
ミュシャが言った。
その瞬間、ジュリアンヌは理解した。
選ばれたのではない。
最初から決まっていたのだと。
足元がぐらりと揺れ、軽かった体が急に重くなる。骨が軋む音が、耳の奥で鳴った気がした。
誰かが拍手を始める。
それに続いて、全員が拍手をする。
祝祭は成功だ。
拍手の中で、ジュリアンヌは初めて思った。
――この世界は、美しいまま人を壊す。
そしてミュシャだけが、その壊れる瞬間を心から楽しんでいた。
第二章 ミュシャは壊し方を知っている
控えの間は、祝祭の喧騒から切り離されたように静かだった。
壁に飾られた白い布は清潔すぎて、逆に不安を煽る。ジュリアンヌは椅子に座らされ、両手を膝の上に揃えられていた。指の位置まで、誰かに直された。
「動かないでね」
チッチが言う。声は優しい。だが目は仕事のそれだった。
「はい」
反射的に答える自分に、ジュリアンヌはぞっとする。
部屋の隅ではミュアイスとリコが何かを準備している。金属の触れ合う音。布が擦れる音。
何をするのか、説明はない。
扉が開いた。
ミュシャが入ってくる。
彼は手袋をはめていた。白ではない。薄く血の色を思わせる、鈍い赤。
「やあ」
軽い挨拶。まるで友人に会ったかのような声色だった。
ニトとブリートが一礼する。ロザリオは祈りの言葉を小さく呟き、ケーンは無言で扉の前に立った。
逃げ道は、最初から存在しない。
「緊張してる?」
ミュシャはジュリアンヌの前にしゃがみ込み、視線を合わせる。
近い。息がかかる距離だ。
「少し」
嘘ではない。だが足りない。
「いいね」
彼は嬉しそうに言った。
「緊張は割れ目を作る。割れ目があると、音がきれいに鳴る」
彼は手袋をした指で、ジュリアンヌの鎖骨に触れた。
なぞるのではない。位置を測るような触れ方だった。
「ねえ、知ってる?」
ミュシャは囁く。
「人って、壊れる瞬間までは自分を“人”だと思ってるんだ」
指が、首筋に移動する。
ジュリアンヌは息を止めた。
「でもね、壊れ始めた途端に、みんな素材になる。音、温度、抵抗。全部、記録できる」
「やめてください」
声が震えた。
その震えに、ミュシャは笑った。
「やめないよ。今日はその日だから」
合図だったのだろう。
ブリートとケーンが彼女の肩を押さえ、椅子に深く固定する。乱暴ではない。だが逃げる余地もない、完璧な力加減。
「怖がらなくていい」
ロザリオが言う。
「選ばれたのは祝福なの」
祝福。
その言葉が、胃の奥で腐った。
ミュシャは器具を受け取る。ミュアイスからだ。
細く、冷たく、用途のわからないそれを、彼は愛おしそうに眺めた。
「ジュリアンヌ」
名前を呼ばれる。
「君はね、壊れやすい。最初からそう作られてる。だから価値がある」
「……価値?」
絞り出すような声。
「そう。壊れやすいものは、壊すときに一番きれいな反応をする」
器具が、皮膚に触れた。
痛みは、すぐには来なかった。
代わりに来たのは、理解だった。
自分は観察されている。
助けるためでも、罰するためでもない。
楽しむために。
ミュシャの目は輝いていた。
人が壊れていく過程を、心から愛している目だった。
「記念すべき第一段階だ」
彼はそう言って、ほんの少し力を加えた。
骨の奥で、かすかな音がした。
祝祭の鐘よりも小さく、確かに。
ジュリアンヌの喉から、声にならない音が漏れる。
拍手はない。
だがミュシャだけが、深く満足そうに息を吐いた。
「――いい音だ」
その瞬間、ジュリアンヌははっきりと知った。
この男は敵ではない。
災害だ。
第三章 骨はまだ叫び方を知らない
痛みは、時間差でやってきた。
祝祭の音楽が遠のいた夜、ジュリアンヌは独房のような寝台で目を覚ました。天井は低く、白すぎて距離感が狂う。自分の体がどこからどこまであるのか、すぐには把握できなかった。
呼吸をするたび、胸の奥で細かな砂が擦れる音がする。
骨が、粉を含んでいる。
「目、覚めた?」
声はミュアイスだった。彼女は水の入った器を持って、ベッドの横に立っている。
「飲める?」
質問の形をしているが、答えは求めていない。ジュリアンヌの口に器が当てられ、水が流し込まれる。
喉が痛んだ。
水は冷たく、現実だった。
「安心して」
ミュアイスは淡々と言う。
「壊れてないよ。まだ」
まだ。
その一言が、胸に沈んだ。
扉が開く音がして、リコが顔を出す。
「ミュシャ、来るって」
それだけ言って、すぐ引っ込んだ。
逃げたい、という考えが浮かぶ前に、扉は再び開いた。
ミュシャは一人で入ってきた。手袋はしていない。素手だ。
「おはよう、ジュリアンヌ」
まるで普通の朝のように言う。
「寝心地はどう?」
答えられない。
喉が動かない。
ミュシャはベッドに腰掛け、彼女の腕を取った。
力は強くない。だが、指の位置が正確すぎる。
「ね、君は優秀だ」
彼は感心したように言う。
「普通はここで泣く。叫ぶ。懇願する。でも君は違う」
親指で、手首の内側を押す。
そこに走る痛みは、鋭く、短い。
「静かだ。壊れる前の素材として、最高だよ」
「……どうして」
やっと声が出た。
「どうして、私なの」
ミュシャは首を傾げた。
「理由が必要?」
少し考える素振りをしてから、彼は答えた。
「君は、拒絶の仕方を知らない」
その言葉は、刃物より深く刺さった。
「ニトも、ブリートも、チッチもね。君を守ってるつもりだよ」
彼は楽しそうに続ける。
「ロザリオは祈る。ケーンは立ち塞がる。ミュアイスとリコは準備をする」
指が、肩から首へ移動する。
「でも全員、君が逃げない前提で動いてる」
ミュシャは、耳元で囁いた。
「それが君の役割だから」
ジュリアンヌの体が、わずかに震えた。
恐怖ではない。
理解が、体に追いついたのだ。
彼は立ち上がり、部屋を見渡す。
「次は、内部だ」
軽く言う。
内部。
何が、とは言わない。
「大丈夫」
ミュシャは振り返って微笑む。
「まだ、死なせない。壊れる過程が一番きれいなんだから」
扉が閉まる。
鍵の音。
しばらくして、ニトが様子を見に来た。
「無理はさせないから」
彼は真剣な顔で言う。
「これは必要なことなんだ」
必要。
その言葉を、ジュリアンヌはもう信じなかった。
天井を見つめながら、彼女は初めて考えた。
拒むという行為を。
まだ方法はわからない。
でも、確かに芽生えた。
骨の奥で、また音がした。
今度は、ひび割れる音ではない。
向きを変える音だった。
そして自分は、避けられない場所に立っている。
第四章 壊れるのは順番ではない
最初に壊れたのは、ジュリアンヌではなかった。
それに気づいたのは、朝でも夜でもない時間だった。灯りはついているのに、世界の色が薄い。ミュアイスが手早くシーツを替え、リコが床を拭いている。二人とも無言で、動きに一切の迷いがなかった。
「誰が……」
ジュリアンヌの声は、まだ小さい。
ミュアイスは一瞬だけ手を止めた。
「順番を間違えただけ」
それだけ言って、また動き出す。
間違えた。
人が壊れたことを、そう呼ぶのだと知る。
扉の向こうで、低い声がした。ブリートだ。
「……耐えられるって言ったじゃないか」
誰に向けた言葉かは、すぐにわかった。
ミュシャの声が返る。
「耐えたよ。途中まではね」
その声には、苛立ちが混じっていた。
楽しんでいない。
それが、ジュリアンヌの背中を冷やした。
やがて扉が開き、ブリートが中に入ってきた。顔色が悪い。いつも通りの体格なのに、今日は服が重そうに見えた。
「見せない方がいい」
彼はそう言った。
「君はまだ、役割が残ってる」
役割。
またその言葉だ。
しばらくして、ニトが来た。
「大丈夫?」
本気で心配している目だった。
「……何が起きたの」
ジュリアンヌは聞いた。
ニトは答えなかった。代わりに、視線を逸らした。
それが答えだった。
その夜、ミュシャは機嫌が悪かった。
「期待してたんだけどね」
彼は独り言のように言う。
「壊れるべきものが、きれいに壊れないと、全体が濁る」
彼はジュリアンヌの前に立つ。
「君は学習が早い。拒絶の形を覚え始めてる」
指が、彼女の顎を持ち上げる。
「それはね、素材としては致命的だ」
ジュリアンヌは、視線を逸らさなかった。
怖い。
でも、それだけではなかった。
「……私が壊れなかったら」
声は震えている。
「次は、誰が壊れるの」
一瞬、部屋の空気が止まった。
ミュシャは、ゆっくり笑った。
「いい質問だ」
彼は答えない。
答えなくても、十分だった。
ロザリオが部屋の隅で祈っている。声は小さく、必死だ。
ケーンは扉の前に立ったまま、こちらを見ない。
チッチは爪を噛み、ミュアイスとリコは準備を続ける。
全員が、同じ沈黙に縛られていた。
次は誰かという沈黙に。
そのとき、ジュリアンヌははっきり理解した。
自分が壊れない限り、
誰かが代わりに壊れる。
それが、この祝祭の構造だ。
ミュシャは満足そうに頷いた。
「やっと顔つきが変わった」
彼は耳元で囁く。
「選びなさい、ジュリアンヌ。自分か、周りか」
その選択が、どちらも地獄だということを、彼女はもう知っていた。
床の向こうで、何かが落ちる音がした。
鈍く、戻らない音。
ジュリアンヌは目を閉じなかった。
閉じたら、負けだとわかっていたから。
骨の奥で、また音がする。
今度は、折れる準備の音だった。
第五章 祝祭は血で完成する
壊れたのは、ロザリオだった。
朝の祈りが、途中で止まった。
それだけで十分だった。誰もが理解した。祈りを止めるのは、失敗か死のどちらかしかない。
ジュリアンヌは拘束されたまま、隣室の気配を聞いていた。声はない。ただ、布が床を引きずる音と、水が零れる音が繰り返される。
血の匂いが、遅れて届いた。
「……ロザリオ、は」
口にした瞬間、ニトが顔を歪めた。
ブリートは壁を殴り、チッチはしゃがみ込む。
答えは、全員の沈黙だった。
ミュシャは機嫌が良かった。
「惜しかったな」
彼はそう言って、手袋を外す。
「祈りは好きなんだ。壊れるとき、意味が一気に剥がれるから」
ロザリオは、祈り続けた。
自分が代わりになることで、ジュリアンヌが保たれると信じて。
結果は――
祝祭は一段、完成度を上げただけだった。
「身代わりはね」
ミュシャは淡々と言う。
「制度を強化するだけなんだ」
ジュリアンヌの視界が、赤く滲む。
怒りではない。
遅すぎた理解だった。
「私が、壊れれば……」
声が掠れる。
「違う」
ミュシャは即座に否定する。
「君が壊れたら、祝祭は完成する。だから他はいらなくなる」
その言葉が、致命的だった。
ロザリオは無駄死にではない。
完成度を上げるための工程だった。
ジュリアンヌの中で、何かが切れた。
彼女は、初めて身体を強く動かした。
痛みを無視して、拘束に力をかける。骨が悲鳴を上げる。だが、止まらない。
「おや」
ミュシャが目を細める。
「ようやく?」
「……もう、選ばない」
ジュリアンヌは言った。
「私が壊れるか、誰かが壊れるかなんて」
彼女は笑った。
祝祭に一番似合わない、歪んだ笑みで。
「全部、壊す」
一瞬、ミュシャの表情が凍った。
ほんの一瞬。だが確かに。
「それは困る」
彼は低く言う。
「君には役割がある」
「ロザリオにも、あった」
ジュリアンヌは返す。
「でも、もうない」
沈黙。
ケーンが、初めて一歩後退した。
ミュアイスとリコの手が止まる。
ニトは、震えながらもジュリアンヌを見た。
祝祭の構造が、きしんだ。
ミュシャは、ゆっくりと笑った。
だがそれは、今までの楽しげな笑みではない。
「いいね」
声が低い。
「それでこそ、壊しがいがある」
ロザリオの死は、戻らない。
取り消せない。
修復も、意味づけも、もうできない。
祝祭は血を得て、次の段階に進んだ。
ジュリアンヌは知っている。
もう後戻りはない。
壊れるのは、順番でも代わりでもない。
構造そのものだ。
第六章 使う側の手は汚れる
ロザリオが消えてから、祝祭の空気は変質した。
表向きは何も変わらない。花は補充され、音楽は続き、人々は笑顔を貼り直す。だが内部では、全員が一段深い場所に足を踏み入れていた。
ジュリアンヌはそれを、肌で理解していた。
拘束は完全ではなくなっていた。
誰かが、意図的に緩めたのだ。
ニトだった。
「……逃げろ、とは言えない」
彼は低い声で言う。
「でも、選択肢がないまま壊されるのは……違う」
それだけで十分だった。
ジュリアンヌは頷いた。
彼女はもう、守られる側ではない。
守られるふりをして、使われてきた側だ。
「ミュシャは、完成を急いでる」
ニトは続ける。
「ロザリオで一段進んだ。次は……」
「私」
ジュリアンヌが言う。
「……そうだ」
彼女は、初めて自分から立ち上がった。
足が震える。骨が軋む。それでも、立つ。
ミュアイスとリコが視線を交わす。
止めない。
止められない。
「使わせて」
ジュリアンヌは言った。
「あなたたちの準備も、知識も」
ミュアイスは一瞬、目を伏せた。
「戻れなくなるよ」
「もう戻れない」
それが答えだった。
夜、ミュシャは呼び出した。
「自分から来るなんて、感心だ」
部屋には彼とジュリアンヌだけ。
監視はいない。
それ自体が、彼の慢心だった。
「ロザリオの件、どう思う?」
彼は軽く聞く。
「無駄じゃなかった」
ジュリアンヌは言った。
「あなたにとっては」
ミュシャは笑う。
「理解が早い」
彼は近づく。
「君はね、もう半分こちら側だ」
その瞬間、ジュリアンヌは動いた。
ミュアイスから受け取っていた器具を、ためらいなく使う。
正確に。
ミュシャが“好む”位置に。
一瞬、彼の呼吸が乱れた。
「……ほう」
驚きではない。
興奮だ。
「いい」
彼は低く笑う。
「その手だ。そうやって、使う」
ジュリアンヌの手は震えていた。
でも、止めなかった。
この手は、もう汚れている。
ロザリオの時点で。
「勘違いするな」
ミュシャは囁く。
「君は壊す側に回れたわけじゃない」
「知ってる」
ジュリアンヌは答える。
「だから――壊す」
彼女の目を見て、ミュシャは初めて確信した。
これは素材ではない。
爆弾だ。
部屋の外で、ケーンが異変に気づく。
チッチが泣きながら走る。
ブリートが、判断を誤る。
祝祭の歯車が、噛み合わなくなった。
ミュシャは楽しそうだった。
だが、その楽しさには、初めて不確定が混じっていた。
「いいよ、ジュリアンヌ」
彼は言う。
「壊そう。どこまで行けるか」
それは挑発であり、賭けだった。
ジュリアンヌは、もう引かない。
引けない。
誰かを守るためではない。
自分が、自分であるために。
祝祭は、制御を失い始めていた。
第七章 完成する前に壊れる
ミュシャは、自分が崩れ始めていることを認めなかった。
認める必要がないと思っていた。
制御できている。
掌の上だ。
いつもそうだった。
祝祭はまだ続いている。
音楽も、灯りも、人の声もある。
だから問題はない――そう思い込もうとしていた。
だが、噛み合わない。
視線が、思考が、快楽が。
何より――ジュリアンヌが。
「君は、随分と静かになった」
ミュシャは言う。
自分が試す側だという前提で。
ジュリアンヌは答えない。
ただ、彼を見る。
それが、彼を苛立たせた。
「壊れる音がしない」
ミュシャは呟く。
「普通、ここまで来れば……」
「完成しない」
ジュリアンヌが遮った。
「あなたの欲しい“完成”は」
一瞬、部屋の空気が止まった。
「何を言っている」
「ロザリオで証明したつもり?」
ジュリアンヌは静かに続ける。
「あなたが壊したのは、人じゃない。“順序”よ」
ミュシャの眉が、わずかに動く。
「……面白いことを言う」
「あなたは、地獄を深く掘ったつもりでいる」
「でも、足場を壊しただけ」
その言葉は、刃だった。
切れ味が良すぎて、痛みが遅れてくる。
ミュシャは笑った。
笑いながら、歩み寄る。
「それでも、君はここにいる」
「ええ」
ジュリアンヌは一歩も引かない。
「あなたが“使う側”だと思っている間は」
彼女の視線が、ミュシャの胸元を射抜く。
そこには、彼自身が築いた象徴がある。
「……気づいてないのね」
「何に?」
「あなたが、もう選ばれる側になってること」
その瞬間だった。
外で、何かが崩れる音がした。
怒号。
命令が通らない声。
ケーンの叫びが聞こえる。
ブリートが制止しようとして、失敗する。
チッチの泣き声が、近すぎる。
ミュシャは舌打ちした。
珍しいことだった。
「時間稼ぎか」
「いいえ」
ジュリアンヌは首を振る。
「結果よ」
ミュシャは初めて、不安を感じた。
これは計算外だ。
だが、取り戻せる――はずだ。
彼は手を伸ばす。
だが、ジュリアンヌは触れさせない。
「もう触れないで」
「あなたは、もう“作る側”じゃない」
「……誰が決めた?」
「あなた自身」
ジュリアンヌは、彼が最も嫌う言葉を選んだ。
「あなたは、私を“壊れなかった失敗作”として残した」
ミュシャの目が、細くなる。
「失敗作?」
「ええ。だから今――」
彼女は一歩近づく。
距離が、逆転する。
「あなたは、完成しない」
ミュシャの呼吸が乱れた。
快楽ではない。
焦りだ。
自分が、誰かに“評価されている”側になる感覚。
それを、彼は初めて味わった。
「……ジュリアンヌ」
名を呼ぶ声が、弱い。
「あなたは、私を見誤った」
「私は、壊れなかったんじゃない」
彼女は囁く。
「壊れたまま、動いている」
その言葉で、ミュシャの中の何かが決定的に折れた。
彼は理解した。
もう、取り返しはつかない。
自分が作った地獄に、
最初に飲み込まれるのは自分だと。
祝祭の灯りが、一つ消える。
ミュシャは、初めて暗闇を見た。
第八章 生きているという刑
ミュシャは死ななかった。
それは誰の慈悲でもなく、偶然でもない。
選択だった。
彼は床に座り込んでいた。
背筋はまだ伸びている。呼吸も整っている。
だが、もう“立ち上がる理由”が存在しなかった。
祝祭は終わった。
正確には、破綻した。
ケーンが全権を握り、ブリートは沈黙を選び、チッチは口を閉ざした。
ミュアイスとリコは、何も言わないまま距離を取った。
誰も、ミュシャを裁こうとはしなかった。
それが一番の刑だった。
「……終わりか?」
ミュシャが呟く。
誰に向けた言葉でもない。
「いいえ」
答えたのは、ジュリアンヌだった。
彼女は立っている。
以前のように俯いていない。
「あなたは、生きる」
ミュシャはゆっくりと顔を上げた。
期待も、恐怖もない目。
「それは……赦しだと?」
「違う」
ジュリアンヌは即座に否定した。
「あなたは“完成させる側”として生きてきた」
「でも、もう何も完成しない」
ミュシャは理解した。
それが、どんな意味を持つか。
「……見世物か」
「観測対象よ」
淡々とした声だった。
感情はある。だが、揺れていない。
「あなたはこれからも、考える。選ぶ。感じる」
「でも、それは誰も壊さない」
ミュシャの喉が鳴る。
「それは、俺にとって――」
「地獄でしょう?」
ジュリアンヌは先回りする。
「でもあなたが作った地獄より、ずっと浅い」
彼は、初めて目を伏せた。
誇りが砕ける音はしない。
代わりに、空白が生まれた。
役割を失った人間が、何になるのか。
ミュシャは、その問いの中に閉じ込められた。
「ジュリアンヌ」
名を呼ぶ。
「君は、何になる?」
彼女は少し考えてから答えた。
「壊した人」
それだけだった。
去り際、彼女は振り返らない。
もう、確認する必要がないからだ。
ミュシャは生きている。
だが、物語からは降ろされた。
祝祭の跡地で、
彼だけが、終わらない。
第九章 戻れないと知って、それでも進む
ジュリアンヌが一歩、外へ出た瞬間――
世界は、彼女を迎えなかった。
拒絶ですらない。
無関心だった。
誰も彼女を止めず、呼び戻さず、称えもしない。
ただ、配置を変える。
それが、この世界のやり方だった。
「彼女は、もうこちら側ではない」
誰かが言った。
名前は必要ない。
合意があれば、それで足りる。
ブリートは目を伏せたまま黙認した。
チッチは泣かなかった。泣く権利すら失ったからだ。
ミュアイスとリコは、距離を測るように沈黙を選ぶ。
ケーンだけが、はっきりと線を引いた。
「彼女は危険だ」
危険。
その言葉は、処分の準備を意味する。
「ミュシャを壊した存在だ」
「意図せずとも、再現性がある」
ジュリアンヌは、その場にいた。
すべてを聞いていた。
そして――否定しなかった。
「そうね」
静かな声だった。
「私は、踏み抜いた」
空気が変わる。
この瞬間、彼女は“弁明する存在”ではなくなった。
「後悔は?」
ケーンが問う。
ジュリアンヌは少し考えた。
ほんの一拍。
「ある」
正直だった。
「でも、戻る選択肢はない」
それが、決定打だった。
誰かが息を呑み、誰かが視線を逸らす。
ここで彼女を排除すれば、秩序は守られる。
だが同時に、真実が残る。
――彼女は、一人で地獄を踏み抜いた。
ニトが、遅れて口を開いた。
「彼女を消せば、ミュシャは救われたことになる」
その一言で、すべてが決まった。
救われる必要のある者など、もういない。
「……配置を変える」
ケーンが告げる。
「ジュリアンヌは、どこにも属さない」
それは追放ではない。
隔離でもない。
役割の剥奪だった。
ジュリアンヌは、軽く息を吐いた。
「ありがとう」
その言葉に、誰も返さない。
彼女は理解していた。
ここから先は、誰の物語にも守られない。
それでも――歩いた。
背中に、視線が突き刺さる。
恐怖でも、憎悪でもない。
確認だ。
あれは、人だったのか。
それとも、もう違うものか。
ジュリアンヌは振り返らない。
踏み抜いた者に、帰り道はない。
彼女は、地獄を背にしない。
地獄を、連れていく。
第十章 それでも名を持つ
世界は、ジュリアンヌに居場所を与えなかった。
だが、立ち去れとも言わなかった。
それは拒絶でも赦しでもない。
ただの事実だった。
彼女は境界に立っている。
内にも外にも属さない。
それでも、足は地に着いている。
風が吹く。
熱も冷たさもない、無色の風。
ジュリアンヌは目を閉じ、息を吸った。
胸が痛まない。
それだけで、充分だった。
「……終わった?」
背後から、声がした。
ニトだった。
警戒も敵意もない、ただの問い。
「いいえ」
ジュリアンヌは振り向かずに答える。
「終わらせなかった」
ニトは少し黙ってから、言った。
「それが救いか?」
「違う」
彼女は首を振る。
「救いは、選ばれることじゃない」
「続けてもいいって、許されること」
ニトは何も言わなかった。
だが、去らなかった。
遠くで、ミュシャが生きている。
壊れたまま、完成しないまま。
それでも、彼は存在している。
その事実が、世界の歪みを少しだけ矯正していた。
ジュリアンヌは理解した。
誰かが生き続けることで、誰かが救われることがあると。
それは美談ではない。
等価交換でもない。
ただの、連鎖だ。
ケーンが遠くから頷いた。
ブリートは視線を逸らし、
チッチは、初めて小さく息を吐いた。
ミュアイスとリコは、まだ測っている。
だが、測る時間があるということ自体が、救いだった。
ジュリアンヌは、名を口にした。
「私は、ジュリアンヌ」
誰かに与えられた役割ではない。
踏み抜いた後でも、壊れた後でも、残った名。
「私は、壊した」
「でも、消さなかった」
それでいい。
それで、立っていられる。
彼女は歩き出す。
行き先は決めない。
ただ、戻らないと決めただけだ。
地獄は、まだある。
だが、彼女はそこに立ち止まらない。
――救いは、光ではなかった。
足元に残った影だった。
影がある限り、人は立てる。
ジュリアンヌは、そうして歩いていく。
名を持ったまま。




