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第9話 五年目の楽園と、窓のない市場

三歳の儀式から、あっという間に二年の月日が流れた。

 この「エステラ・エデン」という国において、時間は凪いだ湖面のように穏やかに過ぎ去っていく。俺とリナは五歳になり、少しだけ背が伸び、走る速度も、そして胸に秘めた「秘密」の重さも増していた。

 この二年間、俺たちは大人たちの目を盗んでは、あの裏庭や森の境界で「特訓」を繰り返してきた。

 リナの『清流』は、今や細く絞れば硬い岩に穴を穿つほどの鋭さを持ち、俺の『反復継続』は、一日に数万回の素振りをしても翌朝には筋肉痛すら残らないほどの、異常な自己修復と肉体強化を俺にもたらしていた。

「ヒルス! 今日は街へ行くわよ。五歳のお祝いに、新しい靴を貰いに行きましょう」

 母マーサの声に誘われ、俺は初めて村の外にある大きな「街」へと向かうことになった。父ダニエルの操る馬車に揺られ、俺たちは中心街へと入った。

 初めて見る街の風景は、俺の想像を遥かに超えていた。

 空に向かってそびえ立つ真っ白な尖塔、幾何学的に配置された美しい広場、そしてどこまでも清潔な石畳。ゴミ一つ落ちていないその街並みは、まるで誰かが毎日筆で描いているかのように完璧だった。

 しかし、商店街に足を踏み入れて、俺は奇妙な静けさに気づく。

「……ねえ母さん、あの靴はどうすれば手に入るの?」

「あら、店主さんに『これが必要です』って伝えて、メダルを見せるだけよ。必要なものを、必要な分だけ。それが王様の慈愛だもの」

 店先には「値札」も「宣伝の看板」も一つもない。

 この国には通貨が存在しない。人々は日々の善行や感謝で心に貯まる「エデン・メダル」の輝きを店主に示す。店主はそれを見て、相手にふさわしい品を無償で提供する。店主もまた、誰かに物を「売って儲ける」必要がない。王から店舗を任され、在庫を補充してもらい、ただ配るだけの「配給の代理人」として存在しているのだ。

 活気はある。だがそこには、前世の市場にあった「少しでも安く」「少しでも多く売る」という、人間特有の執着や熱気が一切排除されていた。

 そんな中、中心街で一番大きな衣類店へと足を運んだ。そこを切り盛りしていたのは、幼馴染であるリナの両親だった。

「あら、ヒルス君! いらっしゃい! まあ、ずいぶん大きくなって」

 リナの母親が、忙しそうに色鮮やかな反物を抱えながら明るい声をかけてきた。

 この国では生活に必要なものは王から与えられるが、服の仕立てや専門的な道具の管理など、どうしても「人の手」が必要な役割がいくつかある。お店という役割は数が少ないため、彼女たちのような専門職は、街中から人が集まるため非常に忙しそうだった。

「ヒルス君、いつもリナと遊んでくれてありがとうね。あの子、毎日お家であなたの話ばかりするのよ。『ヒルスはすごいんだよ』『ヒルスといるとワクワクするの』って、本当に楽しそうに話してくれるんだから」

 リナの父親も、少し疲れ気味の顔に優しい笑みを浮かべて俺の頭を撫でた。

「私たちがお店で街にいることが多いから、リナには寂しい思いをさせていないかしらって、いつも二人で心配しているんだ。だから、ヒルス君みたいなお友達がいつも側にいてくれて、本当におじさんたちは救われているんだよ。これからも、あの子の良き友人でいてやってね」

 その言葉には、親としての純粋な愛情がこもっていた。

 だが、俺は複雑な気分だった。彼らが「王の慈悲」という仕事に忙殺されている間、リナは村で俺と「王が禁じるはずの牙」を剥く練習をしているのだ。

 買い物を終えて村へ戻った俺は、その足でリナの様子を見に、近所のゼノさんの家へ会いに行った。

 両親が忙しいリナは、昼間の多くを親戚であるゼノさんの元で過ごしている。

 ゼノさんは、百歳を超えているとは思えないほど、相変わらず真っ直ぐな背筋で庭の椅子に座っていた。

「おや、ヒルスか。買い物から戻ったか。リナなら、そこの水瓶で楽しそうに遊んでおるよ」

 ゼノさんの瞳は、百年生きた人間特有の「重み」が全く感じられないほど、透き通って、そしてどこか空っぽだった。

 九十代後半で一度尽きかけるはずの命を、王から「継ぎ足し」て生きる百歳。

 リナは「ゼノおじいちゃんはとっても優しくて大好き!」と懐いているが、俺にはどうしても、彼が瞬き一つせずに何時間も空を眺めているような、不気味な「静止」を感じてしまう。

「あ、ヒルス! おかえりなさい!」

 水瓶から魔法で出した水をキラキラと輝かせながら、リナが駆け寄ってくる。

 彼女の両親が願っているような「王の加護に守られた健やかな日々」とは、もう違う場所に、俺たちは立っている。

「ヒルス。私、もっとお水の出し方を練習したよ。ゼノおじいちゃんが見ていない隙に、さっき、あっちの大きな石を動かしたの」

 リナが誇らしげに囁く。

 その小さな手のひらに宿った力が、いつかこの「穏やかな迷宮」を打ち破るための光になることを、俺は祈らずにはいられなかった。

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