第8話 秘密の共有と、覚醒の雫
深夜に往復四時間の雪道を全力疾走したツケは、想像以上に重かった。
ザハクと別れ、深夜の静寂に包まれたノーブルグレン邸の窓から自室へ滑り込んだ記憶を最後に、俺の意識は泥のように深い眠りへと沈んでいった。前世の日本で、連日の徹夜仕事の末に自宅の玄関で力尽きた時以来の、凄まじい肉体の「燃え尽き」だった。
「……ヒルス! いい加減に起きなさい! お日様がもうあんなに高いわよ、寝坊助さん」
耳元で響く鋭い声。バサリとカーテンが勢いよく開けられ、冬の澄んだ陽光が容赦なく顔を焼く。
飛び起きて枕元の砂時計を確認すると、砂はとっくに下に落ちきっていた。お昼過ぎ……完全な、そしてこの国では「異常」なまでの大寝坊だ。
「もう、三歳の儀式が終わったばかりなのに、こんなに眠り続けるなんて。王様がくださった健やかな一日を無駄にしているわよ。お父さんはもう、畑の様子を見終わって、今はお昼の休憩で王様への感謝の詩を読んでいるわ」
母マーサが困ったように笑いながら、俺の額に手を当てた。熱はないか、どこか悪いのではないかと心配しているようだ。
この「エステラ・エデン」では、無理をして身を削る必要はない。その代わり、王の慈悲に感謝し、明るいうちに人生を楽しむことこそが「善き市民」の務めだ。お昼過ぎまで寝ているのは、この村では不徳というよりは、恵みを受け取り損ねている「可哀想な子」に見えるらしい。
「……ごめん、母さん。なんだか、すごく深い夢を見てて……」
「あらあら、王様が夢の中で素敵なお庭でも見せてくださったのかしら? それなら仕方ないけれど、午後はしっかり起きて、お庭の雪かきのお手伝いをしてちょうだい。お日様の下で動くのは気持ちがいいわよ。終わったらリナちゃんとたっぷり遊んできていいからね」
母さんは「王様」という言葉を添えるだけで、俺の寝坊さえも肯定的に捉えて部屋を出て行った。
この国の不快感や違和感は、王というフィルターを通すと驚くほど簡単に「幸福な出来事」へと上書きされる。誰もが深く悩まず、誰もが不満を持たない。それもまた、感情の波を穏やかに保つこの国の「完成された正解」なのだ。
軽い食事を済ませ、母さんの言う「雪かきのお手伝い」を数分で終わらせた。といっても、王の加護があるこの国の雪は、意志を持って道を避けるように積もっているため、軽く掃くだけで終わる。
俺はまだ少し重い体を動かして、約束していた裏庭へと向かった。そこには、すでにリナが雪を丸めて遊んでいた。彼女は俺の姿を見るなり、雪玉を放り投げて駆け寄ってきた。
「あ、ヒルス! 遅いよ、お昼寝坊助さん! 今日は王様のお歌を一緒に歌う約束だったのに、もうお昼が終わっちゃったよ!」
「……悪い。ちょっと、夜に走りすぎたんだ」
俺が隣の切り株に座り込むと、リナは不思議そうに、そして少し不安そうに俺の顔を覗き込んだ。
「走りすぎた? お庭で? ……ねえ、ヒルス。なんだか今日、いつもと違う。目が、昨日の夜よりずっと……なんて言うか、見たことないくらい『真剣』だよ」
リナの直感は鋭い。三歳の子供とは思えない鋭敏さだ。俺は辺りに誰もいないことを慎重に確認し、声を限界まで潜めて言った。
「……リナ、驚かないで聞いてくれ。昨日、一人で二時間走って、ダンジョンの前まで行ってきたんだ。そこで、ザハクっていう男に出会った」
「えっ!? あんな遠いところまで……。ザハク……? 誰なの、その人」
リナの目が、雪玉よりも丸くなる。俺はザハクの使い古された装備、そして彼の腕にあった「外から来た者の印」について、小一時間かけて詳しく話した。
「その人、外から来たんだ。この国を囲む壁の、ずっと向こう側。そこじゃスキルは五歳にならないと貰えなくて、しかも高い金を払って神殿で買うものなんだって。おまけに、貰える力は、この国なら『外れ』と言われるような、しょぼいものばかりらしい」
「え……? お金を払うの? 王様がくれるんじゃなくて?」
「そうだ。しかも、そこじゃ十二歳で魔物を倒さないと大人になれない。命がけなんだよ。……ザハクは言っていた。この国のスキルは、外の常識から見れば『異常』だって」
リナは、自分が何気なく使っている指先を見つめた。
この国では、喉が渇けば手から水が出るのは、呼吸と同じくらい当たり前だ。だが、もしそれが「一国を揺るがすチート」だとしたら。
「……リナ。お前のスキル『清流』は、ただ綺麗な水を出すだけじゃないはずだ。ザハクの話が本当なら、無限に水を生み出せる力なんて、外の世界じゃ戦争の道具にだってなる。……リナ、少し実験してみないか?」
「実験……?」
「いいか、いつも通りに水を出してみてくれ。でも、ただ出すんじゃない。このコップの中に、一滴ずつ、『針のように細く』出すことをイメージするんだ」
リナは戸惑いながらも、俺が差し出した木彫りのコップに指を向けた。
いつもなら、蛇口から出るようにジャラジャラと溢れる水。だが、リナが眉間に皺を寄せて集中すると、水は次第に細くなり、最後にはキラリと光る一筋の糸のようになった。
「……そう、それだ。今度はその糸を、もっと、もっと『速く』飛ばすイメージだ。あの木にかかっている、固まった氷を貫くつもりで」
「えっ、でも、お水だよ? お水で物は壊れないよ……?」
「この国じゃそう教わる。でも、外じゃ違うんだ。リナ、集中しろ。水を、一箇所に、極限まで押し込めて、撃ち出すんだ!」
俺の言葉に押されるように、リナが指先に力を込めた。
刹那――。
シュッ、という鋭い風切り音と共に、透明な「筋」が空気を切り裂いた。
パキンッ!
数メートル先の木の枝に張り付いていた厚い氷が、まるで弾丸に撃たれたように砕け散った。
「……っ!? あ……」
リナは自分の指先を見て、呆然と立ち尽くした。
「見たか。それが『清流』の真の姿だ。出し方を変えるだけで、それは人を癒やす水にも、物を壊す武器にもなる」
「すごい……。私、こんなこと、考えたこともなかった……。でも、なんだか……少しだけ、怖くなった。こんなの、王様のお歌には出てこないよ」
「だから、秘密なんだ」
俺は震える彼女の肩を優しく叩いた。
リナの瞳には、戸惑いと、それ以上の、今まで知らなかった「自分の力」への高揚が走っていた。
そして俺自身も確信した。俺の『反復継続』も同じだ。三歳の子供が二時間走り続けて、お昼過ぎまで寝るだけで回復する。肉体の成長速度が、外の世界の常識を遥かに超越している。
「俺たちの力は、王様が用意した箱庭で遊ぶためのものじゃない。いつかこの壁の外へ行くための、自分だけの武器なんだ」
リナは握った掌を見つめ、ゆっくりと、けれどもしっかりと頷いた。
「うん……秘密。ヒルスと私だけの、本当の秘密。私、もっと練習してみたい。ヒルスと一緒に」
平和で、豊かで、すべてが約束されたノーブルグレンの冬。
その風景は昨日までと変わらないはずなのに、秘密を共有した俺たちの間には、王の温室では決して育つはずのない「野生の熱」が、確かに芽生え始めていた。




