第6話 夜の鼓動と、銀のメダル
ノーブルグレン邸の窓の外には、しんしんと雪が降り積もっていた。
この「エステラ・エデン」という国に訪れる冬は、驚くほど静かで、どこまでも優しい。
外に出ても、凍えるような寒さはない。
雪は綿菓子のように柔らかく、ただ景色を白く染めるためだけに降っているようだった。
(……綺麗だな。本当に、非の打ち所がない)
王オメガが統治するこの国は、あまりに完璧だ。
前世の日本で感じた、身を切るような寒風や、雪かきに追われる人々の苦労。
それらが一切ないこの場所は、確かに理想的な「国」なのだろう。
ただ、その完璧さが、俺には少しだけ息苦しかった。
すべてが与えられすぎている。そう感じてしまうのは、俺が「外」を知っているからなのだろうか。
居間のテーブルの上には、数枚の**「エデン・メダル」**が置かれていた。
この国には、労働の対価としての通貨は存在しない。
王への感謝を捧げ、平穏に日々を過ごすことで、心に貯まる徳のようなものが、この銀色のメダルとして具現化される。
父さんはこのメダルを王の祭壇へ捧げ、この家や広い畑、そして毎日の豊かな暮らしを維持している。
努力して稼ぐのではなく、善き国民であることで家も食も与えられる権利。
それはこの国の誰もが疑わない、幸福の形だった。
深夜。
家族が寝静まった頃、俺は一人で家を抜け出した。
目指すのは、村から「王の道」を走って二時間ほどの場所にある、丘陵地帯のダンジョンだ。
子供の足で夜道を行くのは本来なら無謀だが、この国には夜盗も飢えた獣もいない。
ただ、自分の呼吸の音だけが雪夜に響く。
(はぁ、はぁ、……っ!)
二時間の全力疾走。
三歳の子供の身体には酷なはずだが、俺には『反復継続』がある。
走るという動作を何千回、何万回と繰り返してきた俺の脚は、疲労を逃がす術を覚え始めていた。
ようやく見えてきたのは、岩山の亀裂から漏れ出す青白い光。
そこが、王が民の娯楽のために用意した「ダンジョン」の入り口だった。
昼間なら、冒険に憧れる子供たちが集う場所。
だが、今は誰もいない。……はずだった。
「……こんな時間に、迷子か?」
低く、地を這うような声がした。
入り口の岩陰に、一人の男が座っていた。
騎士たちが着るような華美な魔導衣ではなく、使い古され、至る所に傷がついた革の防具を纏っている。傍らには、剥き出しのまま地面に刺さった一本の剣。
男が腕を組んだ拍子に、まくった袖の下から**「奇妙な紋章」**が覗いた。
この国の誰の腕にもない、複雑で禍々しささえ感じる、黒い刻印。
男は、俺が二時間走り続けてきたことを見抜いたように、目を細めた。
「いや、違うな。その呼吸、その足運び。……お前、この『停滞』の中で、独りで歩いているのか」
男の瞳には、村の大人たちが向ける憐れみも、王への妄信的な光もなかった。
ただ、冷たく、けれど確かな「個」としての意志が宿っている。
「……あんたは?」
「俺か。俺は、この『完成された箱庭』の壁を、いつか叩き割り倒したいと願っている、ただの変わり者さ」
男は自嘲気味に笑い、剣の柄を握った。
この国で初めて出会った。
王が与えるメダルでも、決められた四季でもなく。
自分の力だけで、この広すぎる国の果てを見ようとしている存在に。
俺と、その腕に謎の紋章を持つ男の視線が、闇の中で静かに交差した。




