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第4話 完成された日常

三歳の儀式から数日が過ぎた。

 ノーブルグレン家の朝は、驚くほど静かに、そして「完璧」に始まる。

 父ダニエルは、朝食を終えると裏の畑へと向かう。

 そこには王の加護によって、植えた覚えのない瑞々しい作物が整然と並んでいた。

 父さんがその作物にそっと手を触れる。スキル**『豊穣の代行者ハーベスト・ハンド』**の発動だ。

 収穫期を迎えた野菜たちが、吸い込まれるように次々とカゴへ収まっていく。

 土を掘り返す苦労も、害虫と戦う焦燥もない。

 父さんの爪の間は、いつ見ても宝石のように綺麗に磨かれたままだ。

「今日も王様は慈悲深い。ヒルス、見てごらん。この完璧な形を。自分で工夫する必要なんてどこにもないんだよ。……そもそも、工夫とは一体何を指す言葉だったかな」

 父さんは満足げに笑うが、その瞳には「次はもっと良くしよう」という向上心の欠片もなかった。

 

 

 家の中では、母マーサが昼食の準備を始めている。

 彼女がフライパンを握れば、スキル**『安らぎの食卓カーム・キッチン』**が自動で最適解を導き出す。

 火加減は常に一定。味付けは「王の基準」から一ミリもズレない。

 母さんの料理に失敗は一度もない。だが、日本で食べた時の「今日は少し味が濃いな」とか「お祝いで気合が入っているな」といった、作り手の感情が入り込む余地はどこにもなかった。

(……美味い。けど、やっぱり喉を通らないな)

 完璧すぎて、まるでプラスチックの模型を食べているような感覚。

 ふと、家の本棚に目をやる。

 そこには、王を讃える詩集と、簡単な生活の知恵が書かれた数冊の薄い本があるだけだった。

「母さん、他の国のことが書いてある本はないの? この国が世界のどこにあるのかとか……」

 俺の問いに、母さんはきょとんとした顔で手を止めた。

「他の国? ……さあ、そんなものあるのかしら。王様がここを『楽園』として完成させてくださったのだから、外の世界なんて知る必要はないのよ。第一、この国の外は、人が住めるような場所じゃないって聞くわ」

 この国の人々は、自分たちが世界のどのあたりにいるのかも知らない。

 地図すら存在しないのだ。

 王オメガの結界の向こう側に何があるのか、誰も興味を持たず、誰も知ろうとしない。

 情報が入ってこないのではない。王が「必要ない」と判断した知識が、この世界からは削ぎ落とされているのだ。

 午後に遊びに来たバッカス叔父さんとセーラ叔母さんも、その「停滞」の一部だった。

 バッカス叔父さんは、スキル**『不朽の酒杯エターナル・カップ』**のおかげで、どれだけ飲んでも顔色一つ変えない。

 二日酔いで後悔することもないから、彼は二十年以上、成長も反省もせずに「酔っ払いの若者」のまま止まっている。

 セーラ叔母さんは、スキル**『不変 of 刺繍マインド・ステッチ』**で、何時間も同じ布に針を通している。

 彼女は、何年も前に聞いた世間話を、まるで今初めて話すかのように繰り返す。

「ねえヒルス、知ってる? 王様がこの土地に名前をくださった時のこと……」

 その話をされたのは、今日だけで三回目だ。

 叔母さんにとって「新しい情報」は必要ない。昨日と同じ情報を、今日と同じように愛でるだけで十分なのだ。

 俺は逃げるように庭の隅へ行き、地面に落ちていた石を積み上げ始めた。

 一、二、三……。

「あら、ヒルス。またそんなことを。疲れるだけなのに」

 セーラ叔母さんが、憐れむような声で笑う。

 この国では、「努力」や「未知への探求」は、王の愛を信じられない者が行う不毛な行為だと思われている。

 そこへ、隣のリナがひょこりと顔を出した。

 彼女もまだ、この「情報のない楽園」を心から信じている。

「ヒルス、何してるの? ……あ、また石積み? 疲れない?」

「……疲れるよ。でも、リナ。この石を積み上げ続ければ、いつか、あの高い壁の向こう側が見えるかもしれないだろ」

 俺は、村を囲む巨大な結界の空を指差した。

「……壁の向こう? でも、お母さんが言ってたよ。向こうには何もないし、行っても苦しいだけだって。王様が守ってくれるこの場所が、世界のすべてなんだよ?」

 リナは純粋な疑問を投げかけてくる。

 彼女にとっては、この空白の地図こそが完成された正解なのだ。

「本当にそうかな。……俺は、自分で確かめてみたいんだ」

 俺は積み上げた石をわざと崩し、再び最初から積み直し始めた。

 スキル**『反復継続』**が発動し、指先が少しずつ、機械のような正確さを増していく。

「……確かめる……?」

 リナは、俺の言葉を咀嚼するように首を傾げた。

 彼女の両親も、叔父さんたちも、誰もそんなことは言わない。

 

 でも、俺が泥だらけの手で、真剣な顔をして何度も同じ動作を繰り返す姿を、リナはじっと見つめ続けていた。

 彼女の綺麗な瞳の中に、説明のつかない、小さな「ざわつき」が灯ったように見えた。

「なんだか、ヒルスを見てると……少しだけ、ドキドキする。……変なの。王様のお歌を聴いてる時とは、違うドキドキだわ」

「それは、リナ。お前が『明日』を見てるからだよ」

 俺は笑って、今日の一千回目の積み上げを完了させた。

 

 ノーブルグレン家を包む、温かくて、死んだように静かな幸福。

 本もなく、地図もなく、情報の届かないこの「完璧な牢獄」の中で。

 

 俺はリナの手を引いて、出口のない迷路を逆走し始めていた。

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