第一章 第1話
意識が、ぷつりと途切れた。
深夜のオフィス街、連日の残業で鉛のように重い体。
不意に視界を真っ白に染めた、トラックのヘッドライト。
濡れたアスファルトを滑る嫌な金属音と、浮遊感。
痛みは一瞬で、その後に訪れたのは底なしの闇だった。
(ああ、俺……死んだのか)
これまでの人生を振り返る暇すらなかった。
必死に会社に尽くして、何を得たんだろう。もっと、何かに夢中になれるような、自分が自分であると胸を張れるような生き方をすればよかった――。
そんな、泥のような後悔が意識の端にこびりついて離れなかった。
どれだけの時間が過ぎたのか。
不意に、全身を震わせるような衝撃と共に、強制的に感覚が呼び戻された。
「……ぎゃあ、あ、ああ……っ!」
耳を突き刺す高い泣き声。自分の喉が震えている。
肺が焼けるように熱く、無理やり空気を吸い込まされる苦しさに、俺は必死でもがいた。
「産まれたわ……! 健康な男の子ですよ!」
聞こえてきたのは、聞いたこともない言語だった。
それなのに、なぜか意味だけが直接頭の中に流れ込んでくる。
ぼやけた視界の中で、何らかの力が脳に干渉し、強制的に翻訳を行っているような、得体の知れない感覚があった。
(……転生、なのか? 俺、やり直せるのか?)
温かい布に包まれ、誰かに抱き上げられる。
前世でやり残したことを、この世界なら。今度こそ、何かに必死になって――。
そう決意しかけた、その時だった。
――ズシン、と。
世界そのものが重力に屈したかのような、凄まじい「圧力」が部屋に満ちた。
さっきまで祝福の声を上げていた大人たちが、一瞬にして静まり返る。
見れば、空間そのものがガラスのようにひび割れ、そこから一人の男が静かに現れていた。
膝下まで届くほど長い、艶やかな黒髪。
三十代ほどに見えるその顔立ちは、この世のものとは思えないほど整い、同時に数千年の歳月を閉じ込めたような底知れない虚無を湛えていた。
男が歩を進めるたび、心臓が潰されそうな圧迫感に襲われる。
なのに、不思議なことに、その圧迫感はどこか「心地よさ」すら伴っていた。
周囲の大人たちは、恐怖ではなく、まるで救い主に出会ったかのような恍惚の表情で床に跪いている。
(なんだ、この男……。この国の、王様……なのか?)
男の黒い瞳が、俺を捉えた。
覗き込まれるだけで、魂のすべてを検閲されているような不快な感覚。
男はしばらく俺を見つめていたが、ふっと僅かに眉を動かした。
「……異変はない。だが、ひどく魔力の薄い子だ」
その声は、低い旋律のように脳を震わせた。
男はこの国に産まれた赤ん坊を一人残らず確認しに来ているようだったが、俺の「魔力の少なさ」という特異性に、わずかな興味を引かれたらしい。
男は、細く白い指を俺の額に伸ばした。
指先が触れた瞬間、温かい泥のようなものが体に流れ込む。
「脆きものよ。私がお前に、存在の証を与えよう」
男は普段、名など付けない存在のようだった。だが、この時の彼は気まぐれに、あるいは憐れみを込めて、言葉を紡いだ。
「お前の名は、ヒルス。我が楽園で、永遠に健やかに眠るがいい」
ヒルス。
その名が刻まれた瞬間、俺の視界の端に無機質な文字列が浮かび上がった。
『――言語の加護を確認。……完了』
どうやら、言葉が理解できたのはこれのせいらしい。
名を与え終えると、男は興味を失ったかのように翻り、再び時空の裂け目へと消えていった。
嵐のような圧力が去り、部屋に再び安らかな空気が戻る。
母親が、俺を愛おしそうに抱きしめ、何度も「ヒルス」と呼んだ。
やり直しの人生。
だが、あの日見た黒髪の男――おそらくはこの国の王――の瞳が脳裏に焼き付いて離れない。
あの男が「安らげ」と言ったこの場所で、俺は本当に、求めていた「必死になれる人生」を歩めるのだろうか。
田村宏改め、ヒルスの長い長い「やり直し」が、ここから始まる。




