対称
玲衣は初めて訪れる紬の家を見て、唖然とした。
金持ちって本当だったんだな……。
高さのある白い外壁に囲まれた、洒落た邸宅。
玄関は手入れの行き届いた草花で彩られ、柵付きの車庫には高級車が二台。
まるで別世界だ。
玲衣は白い壁を背に、しゃがみ込む。
アパートの契約を済ませ、先に入居していた玲衣が紬の引っ越しを手伝いに来ていた。
とはいえ、紬はほぼ身ひとつで来るつもりのようで、すぐに終えるからと言って、家の中へ入っていった。
本当にこれから、紬と一緒に暮らせるんだな……。
一目惚れから約二年。
ここまでの道のりを思い返すと胸がじんわり熱くなる。
ふと、玲衣は家に近づく人影に気付く。
長身でがっしりした体つきの若い男。
玲衣は反射的に立ち上がる。
男は怪訝な顔で玲衣を見ながら、紬の家の前で足を止めた。
――まさか……。
男がズボンのポケットから鍵を取り出し、門の取手に手を掛ける。
「あ、あの!」
玲衣は咄嗟に声を掛けた。
男は動きを止め、ゆっくりと玲衣を見据える。
「えっと……紬のお兄さん、ですか?」
「……そうですけど」
その瞬間、考えるよりも先に体が動いてしまった。
気が付いたら紬の兄貴の顔面に拳を叩きつけていた。
男は屈みながら頬を押さえ、玲衣を睨みつける。
やばっ……。
玲衣は殴った右手を後ろに隠す。
不審者として通報されてもおかしくない。
「お前……玲衣って奴か」
何でそんなすぐわかるんだよ……。
玲衣は目を泳がせ、言葉を探す。
男は口元の血を拭うと立ち上がり、落ち着いた様子で歩み寄る。
「いいよ、紬がいつも世話になってるみたいじゃないか」
驚くほど穏やかな声。
「これくらい何ともないさ」
予想外の対応に思わず後退りする。
「俺も紬の兄として、君とは仲良く出来たらいいと思ってたんだ」
「俺は優一郎。コレ、交換しようか?」
優一郎はスマホを取り出し、顔の前で軽く振って見せた。
「……は?」
――それから、俺と優一郎は何故かチャットアプリの連絡先を交換して……
そして今、俺はそいつとファミレスで向かい合っている。
店内は妙に明るく感じた。
窓際の席のガラスには、外の街灯がぼんやり映っている。
玲衣はメニューを手にしていたが、まるで頭に入ってこない。
優一郎は向かいの席に腰を下ろし、ゆったりと背もたれに体を預けていた。
「悪いな、急に誘って」
優一郎がそう言いながら、水の入ったグラスに口を付ける。
「いえ……別に」
玲衣はわざと無表情で答える。
この場の空気に呑まれたら負ける気がする。
「そう。……じゃあ気楽に話そうか」
優一郎は微笑む。
その笑みは、妙に完成されていて、どこか人間らしくない。
「紬、元気か?」
「……え?」
「いや、ちょっと気になってさ。あいつ、家出てから連絡取れなくなってたから。ま、君と一緒に住んでるなら安心だけど」
軽く言いながら、優一郎はテーブルの上で手を組んだ。
玲衣の中に、言葉にできない重苦しさが広がる。
――何なんだ、こいつ。
「……紬のこと、心配なんですね」
そう返すと、優一郎は一瞬だけ目を細め、笑う。
「心配……なのかな。興味、って言った方が近いかも」
「……興味?」
「うん。あいつ、昔から変わってたろ。俺たちにないものを持ってた」
ゆっくりと顔を上げ、まっすぐに玲衣を見る。
「君も、そう思わない?」
玲衣は黙ってグラスに口を付ける。
冷たい水が喉を滑っていくのに、口の渇きは収まらない。
「……そう、なのかも…」
「だよな」
優一郎は満足そうに頷き、メニューを閉じた。
「ハンバーグ、頼もうぜ。ああ、安心しろよ。今日は俺の奢り」
「あ、ドリンクバーも付ける?」
蛇が体を這うような本能的な嫌悪感……。
「俺さ」
優一郎のフォークが皿に触れる音がした。
「最近、ちょっと恋愛で悩んでてさ」
玲衣は目を瞬かせる。
この男の纏う空気にそぐわない言葉だった。
「相手は年下。真面目で、ちょっと弱いとこがある。でも、そういうとこが可愛いんだよな。守ってやりたくなる、っていうの?」
玲衣の心臓がわずかに跳ねる。
どこか、聞き覚えのある言い回し。
「……その人のこと、大事なんですか?」
「さぁ?」
優一郎はナイフでハンバーグを半分に切った。
肉汁が滲んで、皿の中で音を立てる。
「俺、昔からさ、弱いものを見てると、どうにかしてやりたくなるんだよな。支配する、いや、救ってやるっていうのかな」
「…………」
「君もそうだろ?」
その言葉が、テーブル越しに投げつけられた。
玲衣の声が詰まる。
「……何の、話ですか」
「そのままの意味だよ」
優一郎は柔らかく笑う。
「紬を守るだなんて言ってたけど、ほんとは違うだろ?あれ、自分を守ってるだけだ。可哀想なやつを隣に置いておけば、自分がマシに見えるから」
玲衣は震える指でグラスを持ち上げた。
手のひらの熱で、氷が擦れる音がした。
「違う……俺は、そんな――」
「じゃあ聞くけど」
優一郎が身を乗り出す。声は低く、耳の奥に直接触れるみたいだった。
「紬を見てるとき、お前、どんな気持ちになる?」
玲衣の視界が一瞬で狭まる。
外の街灯が滲み、店内のざわめきが遠ざかる。
「なぁ。泣いてる紬を抱きしめたいって思うのはさ、同情か、欲か、どっち?」
喉の奥に、冷たいものが突き刺さる。
優一郎は笑わない。ただ、興味深そうに見ている。
まるで標本を観察するような目。
「……やめろ」
「やめろ?何を」
優一郎は首を傾げる。
「お前さ、声が紬に似てるんだよな」
その言葉の意味を理解する前に、背筋を何かが這い上がってくる。
――こいつ、本当に全部知ってる。
足の指先まで凍るような感覚。
テーブルの上の、手を付けられないままのハンバーグが冷めていく。
玲衣の指は、無意識に膝の上で丸まっていた。
優一郎は、ふと思い出したように言う。
「そういえば、あの動画。――見た?」
玲衣は顔を上げる。
「……動画?」
「知らないはずないだろ」
そう言いながら、優一郎はスマホを取り出す。
画面を開く指の動きが、妙にゆっくりだ。
「やめろよ」
玲衣は即座に声を荒げた。
「何のつもりだよ」
「つもり?」
優一郎は微笑む。
「ただ確認してるだけだろ。君はあいつの全部を受け入れる覚悟があるのかって」
テーブルにスマホを置き、指で画面をトントンと叩く。
玲衣は唇を噛み、目を逸らす。
優一郎は、わざと軽い声で続けた。
「紬は、自分が汚れてるって思ってる。でも俺から言わせれば、そういうのが似合う顔だよ。あのまま、泣きながら生きてるのがちょうどいい」
「黙れよ……」
玲衣の拳が震える。
声が掠れて、呼吸が乱れる。
「なぁ、玲衣」
優一郎は静かに名前を呼ぶ。
「お前さ、ホモなんだろ?」
玲衣の全身が跳ねた。
血の気が引いていく音がする。
「別に責めてない。興味あるだけだよ」
優一郎は肘をつき、頬杖をついた。
「男を好きになるって、どんな感じ?例えば、あいつみたいな顔にキスしたいとか?それとも、あいつが泣いてるとヤりたくなるとか?」
「やめろって言ってんだろ!」
玲衣がテーブルを叩き、立ち上がりかけた瞬間、優一郎は手を伸ばし、テーブル越しに玲衣の手首を掴んだ。
冷たい手。
「ほら、今の顔。やっぱり、そうなんだな」
優一郎の声は静かだった。
まるで、確信を得た科学者のように、興味深そうな目で玲衣を見上げている。
「……紬に、触れたことある?」
玲衣は息を飲む。
「ねぇ、どっちが怖い?」
優一郎は淡々と問う。
「男を好きな自分のこと?それとも、可哀想な紬に性欲をぶつけたくなること?」
玲衣の中で、何かが崩れかける音がした。
視界が歪み、涙がにじむ。
呼吸がうまくできない。
「……違う、俺は……」
「何が違うの?」
優一郎はテーブルの上に肘をつき、わずかに笑った。
「守るって言葉、便利だよな。欲望も罪悪感も全部隠せる。君もそうやって、自分を守ってるだけだ」
「……うるさい……っ」
言葉が喉の奥で潰れて、涙がテーブルに落ちる。
優一郎はそれを見て、微かに眉をひそめた。
まるで、想定より壊れやすい実験道具を扱うように。
「泣くなよ。俺は悪いことは言ってない」
優一郎はまるでため息を吐くように言う。
玲衣はテーブルに視線を落としたまま、握り締めた拳を見つめていた。
「……お前に、何が分かるんだよ」
震える声。でも、確かに反発の意思を帯びていた。
優一郎は肩をすくめる。
「分かるさ。俺は、あいつを昔から知ってる」
「違う!」
玲衣は思わず声を荒げた。空気が一瞬だけ揺れる。
「お前は、安全な場所から、紬を下に見てるだけだ!」
玲衣は顔を上げる。涙で赤くなった目のまま、まっすぐ優一郎を見た。
「俺は、紬と同じ高さで見てる。一緒に笑って、一緒に泣いて……紬のことを、ちゃんとひとりの人として見てる!」
「お前とは違う。お前は一生、誰も愛さないし、誰にも愛されない!」
その言葉に、優一郎の口角がわずかに歪んだ。
笑っているのか、苛立っているのか、分からない。
玲衣は震える手でポケットから皺の寄った千円札を取り出すと、テーブルに叩きつけた。
椅子の脚が床を引っ掻く音が、やけに大きく響く。
店のドアを開けた瞬間、まだ冷たい外の空気が頬を刺す。玲衣は一度も振り返らず、そのまま店を後にした。
………
優一郎はしばらく黙ったまま、テーブルの上の千円札をじっと見つめていた。
「ふぅん……」
テーブルの上のスマホを手に取ると、画面に映る玲衣のアカウントを無言でブロックする。
それから、指先で自分の頬を撫でた。
あの日、殴られた箇所。
もう痛みはない。
けれど、あの瞬間だけは――確かに生きていた気がしていた。




