8 噂はようやく真実を告げにきた
「フローリア……大丈夫?」
自分を呼ぶ声に、フローリアはゆっくりと目を開ける。
馬車は、いつの間にか邸に着いていた。
頬にはまだ涙の跡が残っている。隣ではガブリエラが、心配そうに彼女の手を握っていた。
窓から差し込む光が馬車の中を淡い黄色に染めている。その色が、幼い日の光景と重なって胸が痛かった。
もう、あの頃のように無邪気に抱きつくことはできない。
黄色い花束を胸に抱えて恥ずかしがった自分には、もう戻れない。
そう思ったら、止まったはずの涙はまた生まれようとしてくる。それを堪え、フローリアは馬車から降りた。
「……本当に、いいの?」
「うん、平気よ。ガブリエラこそ、気をつけて帰ってね」
泊まっていくと言うガブリエラに、フローリアは首を振る。
今日は誰かと話すよりも、ただひとりでいたかった。
フローリアは無理に笑ってみせる。きっと、目の前の友人は、それを見抜いているだろうけれど。
ガブリエラはしばらく黙りこむと、小さく息を吐いてうなずく。
「……わかった。でも、いつでも呼んでいいんだからね」
最後にフローリアを強く抱きしめてから、彼女は馬車に乗り込んだ。
フローリアは、リリエンブリュックの紋章が見えなくなるまでその場に立ちつくす。
やがて車輪の音が遠ざかると、邸の前は驚くほど静かになった。
取り残されたフローリアは、ひとり門をくぐる。
空にはいつの間にか薄く雲がかかり、ひんやりとした風がドレスの裾をはためかせた。
砂利を踏むたび、靴底で小さな音が鳴る。いつもは馬車で玄関前まで運んでもらうから、こうして歩くのは久しぶりだった。
見慣れたこの道は、何ひとつとして変わっていない。きちんと刈り込まれた植え込みも、遠くに見える白壁の邸も、木の上でさえずる小鳥たちさえも。
この道のように、いつかは何も変わらなくなるのだろう。
きっと、この気持ちだって、いつかは……
そう思わなければ、もう一歩も前に進めない気がした。
風は泣き腫らしたまぶたを冷やしてくれて、フローリアは歩くのを選んだことは正解だったとぼんやり思う。
玄関に近づくと、扉はすでに開かれ、執事がいつものように控えていた。
「お帰りなさいませ、お嬢さま」
フローリアは、思わず腫れたままの目を伏せた。
目の前の彼も、それに気づいているに違いなかった。だけど、長年この邸で働く彼の視線は礼儀正しく、余計なものを映さない。
「お客さまが応接室でお待ちでございます」
今起きていることを淡々と告げるその言葉に、内心ため息をつく。
……いまはそんな気分ではないのに。
でも、そんなことは言っていられなかった。
今は両親とも出掛けているはずだから、その帰りを待っているのかもしれない。
ならば、当主の娘であるフローリアが挨拶しなければならない。失礼のないように着替え、そしてこの顔を不自然のないくらいに整えて。
「わかりました。……お客さまはどなた?」
それは、客を迎える側として当たり前の問いかけ。
なのに、それをこんなに後悔することがあるなんて、フローリアは思わなかった。
「フィアライゼン公爵家のクラウスさまでございます」
比喩ではなく息が詰まった。
視界が歪み、立ってはいられないほどだった。
どうか、聞き間違いであってほしいと願わずにはいられなかった。
……どうして。どうして来たの。
答えのない問いが彼女の胸をじわじわと締め付けて、それがさらに呼吸を奪っていく。
フローリアは、詰まったままの喉から無理に息を吸う。
「……今日は」
ひゅうひゅうと不快な音を立てる喉から、なんとか声を絞り出した。
「体調がすぐれないから、お会いできないと伝えて」
執事は一礼し、何も問わずに下がっていく。
その背中が見えなくなってから、フローリアは壁に手をついた。
ここからは見えないはずの応接室から逃げるように壁伝いに歩き、階段を登っていく。
歩き慣れたはずの廊下が、今日ばかりは果てしない。
ようやく廊下の端にたどり着き、自室が救いのように視界に現れた。
あと、数歩。
そのドアに手をかけようとして――
背後からフローリアの腕を掴む手があった。
振り返るまでもなく、誰なのかはわかってしまう。
まるで、身体中の神経がそこに集まったように、その感触だけが彼女の意識を占めた。
「……フローリア、待って」
彼の手は強くはなかった。むしろ、触れたか触れないかのように優しい。
だからこそ辛かった。
「……何の用?」
目を合わせずに短く問う。それ以上話せば声が震えてしまいそうだったから。
それは、自分でも聞いたことがないほど平坦で、低くて、冷たかった。
クラウスは一瞬目を見開いて、細く息を吸う。それでも、彼は手を離さなかった。
「きみに、話があるんだ」
振り払おうと思えば振り払えたのに、フローリアの手は動かなかった。クラウスは彼女の手を取ったまま、その正面に立つ。
彼と目を合わせるのが怖くて、フローリアはうつむき、その場に立ち尽くす。
彼の視線が、腫れたまぶたに触れた気がした。
「泣いたのか。どうして……」
今のフローリアにとって、それはあまりにも無神経な言葉。あなたのせいだと、ただ感情に任せて言えたらどんなにいいだろう。
結局何も言えず、新たな涙をこぼしそうになるまぶたを伏せて浅く呼吸を繰り返す。
うつむいたまま視線だけをそらすと、その先にクラウスの手に握られたものが見えた。
丁寧に巻かれ、革紐で結ばれた羊皮紙。
見覚えがあった。いやでも記憶が引きずり出された。
それは以前、ガブリエラが嬉しそうに見せてくれたものと同じ――婚約許可申請書。
「本当、だったのね」
そんなもの見たくなかった。
それなのに、視線は縫い止められたようにそこから離れてくれない。
「今日、聞いたわ。あなたがそれを受け取ったって……」
今度こそ、声が震えた。言葉の続きを喉が拒む。
熱を持った目から、じわりと込み上げてくるものがある。
ようやく紙から目を離し、涙を堪えるように瞬く。
「知っていたのか……」
クラウスの声がぽたりと廊下に落ちる。
視界の隅に映った窓はいつの間にか暗くなっていた。屋根を打つ雨音が、ひとつ、ふたつと耳に届く。
「フローリア、聞いてほしい。これは僕が――」
彼が言い切る前に、その手を払う。
抵抗はなかった。
あまりにも簡単に離れたその感触が、かえって胸に刺さる。その距離が取り返しのつかないもののように思えて。
「どうして……いま、そんなものを持ってきたの?」
胸の痛みを吐き出すように声がこぼれる。
昨日の答えの代わり?
それとも、婚約することを幼馴染には伝えるべきだとでも思ったの?
そこまで言いかけたところで、わずかに残っていた理性が彼女を止めた。
本当なら、言うべき言葉があるのはわかっていた。
彼の前に立つ今、きっとそれが正しかった。
――どうか、幸せになって、と。
だけど喉の先までせり上がってきたそれは、それきり動かない。
フローリアは唇を噛みしめた。
そんなことを言えるほど、優しくはなれなかった。
「先に伝えなかったことは謝る。……でも、どうしてもこれをきみに見てほしくて……」
クラウスの声は上ずり、どこか焦りを帯びていた。一歩距離を縮めてくる彼から逃れるように、フローリアも一歩下がる。
「そんなの見たくない。わたしの気持ちは、昨日全部伝えた。これ以上言うことなんてない。……だから、もう帰って」
一息に言い切り、フローリアは目の前の彼から視線を逸らした。
早く、手の届かない場所へ行ってしまえばいい。
そうでなければ、また期待してしまう。
彼が近くにいる限り、今日のレティシアの言葉も、その手にある紙も、なかったことにしてしまいそうで。
それが、怖かった。
雨は強さを増し、窓を叩く。
ガラスを流れていく水が、まるでこれから自分の頬を伝う涙のように見えて、フローリアは唇を噛みしめた。
拒絶されたはずなのに、それでも彼は、ただそこに立ち尽くしている。
もう、耐えられなかった。
これ以上ここにいたら、言わなくていい言葉まで口にしてしまいそうで。
ただ、彼の前から逃げ出したかった。
フローリアはクラウスの横をすり抜け、部屋に入ろうとした。
けれど、できなかった。
クラウスが遮るように、彼女の顔のすぐ横の壁に手をつく。耳元で、羊皮紙がくしゃりと音を立てた。
ふたりの間に、もう距離はなかった。彼の息づかいがはっきりとわかるほど。
あまりの近さに、どうしても捨てきれない彼への想いが胸を突き上げ、鼓動が忙しなく動き出す。
その苦しさに耐えるようにフローリアは胸の前で手を握りしめ、強く目を閉じた。
「すまない、こんなことをして……でも、どうしても話を聞いてほしくて」
クラウスの声が、すぐ耳元で震える。
閉じたまぶたに遮られて、彼の表情は見えない。けれど、その声には切実さがにじみ、いまにも泣き出しそうなほど揺れていた。
「わかってるんだ、もう遅いって……それでも、いま伝えたいんだ」
クラウスは小さく息を吸い、吐く。
まるで、本当に言うべきかどうか、迷っているように。
そして、彼はもう一度同じことを繰り返す。さらに手に力を込めたのか、羊皮紙が苦しげに泣いた。
「……きみが好きだ、フローリア」
届いたその声に、目を開けずにはいられなかった。
すぐ目の前のクラウスと視線がぶつかる。
彼はひどく苦しそうな目でフローリアを見つめ、まるで衝動に駆られたように彼女の肩を引き寄せた。
その腕は一度だけためらいに止まり、それでも抗えなかったみたいに彼女を抱きしめる。
「……初めて会った日からずっと、きみだけを思い続けてきたんだ」
時間が止まったようだった。
ざあ、と強まった雨音が、世界に残された唯一の動きのように耳に届く。
……何を、言ってるの?
フローリアは彼の言葉をすぐには受け止められなかった。
頭の中でゆっくりと溶かし、飲み下して、ようやくその意味を理解する。
でも、それはあまりにも都合が良すぎた。
そんなはず、ない。
首を振り、クラウスの胸を押してその腕から逃れる。
彼は抵抗しなかった。手を宙に浮かせたまま、悲しげに彼女を見ている。
「……うそ」
口をついて出たのは、すべてを否定する言葉。
彼は、王女殿下と婚約するのだから。
そんなはず、ない。
「嘘じゃない。僕は……」
「嘘よ」
クラウスの声をかき消すように繰り返す。
それなら、レティシアの言葉は?
王女殿下の噂は?
あの書類は?
彼の言葉を都合よく信じてしまったら、また期待してしまう。
それがまた思い込みだったら?
そんなの、もう耐えられない。
だったら、全部否定してしまえばいい。
「だって……あなたは」
言葉が途中でつまる。小さく細い呼吸のなかから、なんとか絞り出す。
「王女殿下と、婚約するんでしょう」
声に出したら、その言葉は思ったよりも重かった。
言わなければよかったと思った。彼が何と返すのかも聞きたくなかった。
否定してほしいのか、肯定してほしいのかも、もうわからなかった。
「王女殿下と婚約……?」
クラウスは、信じられないものを聞いたように言葉を繰り返した。
「……違う」
その顔は青ざめ、でもその視線は揺れながらも彼女から逸らされない。
「僕にそんな話は来ていない。それに……もし、あったとしても断っている」
窓を叩く雨音が強さを増していく。
その音に紛れるように、クラウスは小さく息を吐いた。
「……僕には、きみしか考えられない」
彼は、手に握りしめていた紙を差し出す。
「これを受け取ってきたのは……きみの心が僕にないとわかっていても、それでも諦めきれなくて……」
巻かれていた革紐をゆっくりと解き、音もなく床に落ちていくそれを見下ろす。
次に顔を上げたとき、彼のその目はまっすぐにフローリアを見ていた。
「でも、きみが嫌だと言うならこれは捨てる。今日を限りに、きみのことは諦める。だから……はっきりと言ってほしいんだ」
一瞬、言葉が途切れる。
「……僕とは結婚できないと。……コンラートを選ぶと」
ため息のように掠れた声が、フローリアの胸にすとんと落ちてきた。
昨日彼が見せた目の理由も、こぼした言葉の理由も。そのすべてが、ようやく線を結ぶ。
込み上げるものを抑えきれず、フローリアは顔を覆って泣き出した。首を横に振る。
違うの、そんなこと言わないで。
けれど声にはならない。
手のひらの向こうで、最悪の答えを覚悟したのか、クラウスの気配がわずかに揺らぐのがわかった。
このままではいけないと、フローリアは震える声を絞り出す。
「……ほんとうに、わたしのこと……?」
信じてもいいの――その思いが涙と一緒にあふれ出す。
フローリアは涙に濡れた顔を上げ、クラウスの手から羊皮紙を受け取った。強く握られてしわの寄ったそれは、昨日、自分が震える手で握りしめていた便箋を思い出させる。
「わたし、あなたに拒まれたんだと思って……」
やっと届いたのだと思うと、次から次へと涙があふれ、紙の上に落ちては滲んで消えていく。
「……だって、昨日のブローチも言葉も全部、あなたに向けたものだったんだもの……」
クラウスは目を見開き、何かを言いかけて、結局言葉にならなかった。
そのかわりに、彼はフローリアを抱きしめる。
彼の温もりに触れながら、フローリアが小さく「好き」とつぶやくと、その腕がわずかにゆるんだ。
腕のなかから、そっと顔を上げる。
星空を閉じ込めたような瞳が、揺れながら彼女を見つめていた。
それがあまりにもきれいで、いつまでも見つめていたかったのに、その瞳が近づいてきて――
名残惜しさを胸に、フローリアはゆっくりと目を閉じる。
これからは、この瞳を何度でも見られるのだと思いながら。
――翌日。
昨日の雨はすっかり止み、王都の空は透きとおるような青さを取り戻していた。
「お聞きください、みなさま!」
朝の広場には、レティシア・ベルンハルト子爵令嬢のよく通る声が響いていた。王都新聞の名にふさわしく、彼女の知らせはいつも風より早い。
「エルヴァローナ王国、ルーシェル王女のご婚約者が、ついに判明したのですわ!」
広場はどよめいた。
「お相手は、殿下がずっとお慕いしていたというエルヴァローナの公爵閣下! 実は、ロザンテール王国へ向かわれる直前、おふたりの間に少しばかり行き違いがあり、殿下は大層落ち込まれていたとか。夜会への到着が遅れたのも、そのせいだったそうですわ!」
人々がざわめくなか、レティシアは胸を張り、勝ち誇ったように続ける。
「ですが、おふたりは無事に仲直りされ、晴れてご婚約が整ったとのこと。めでたしめでたし、ですわね!」
王都の空気が一気に華やぐ。
でも、聴衆の間には別の疑問が浮かび上がった。
「それなら、フィアライゼン公爵家のクラウスさまが受け取ったという婚約許可申請書は?」
「ほんとよね。いったいどなたとのご婚約だったのかしら」
「それがわからないと、すっきりしないわね」
皆が首をかしげ始め、レティシアが焦り始めたころ。
王都にさらなる知らせが駆け抜けた。
それは、クラウスと、リリエンブリュック侯爵家の令嬢フローリアが王宮に姿を見せ、婚約許可申請書を提出したというもの。クラウスの胸元にはシトリンのブローチ、フローリアの耳元にも同じ色の光が輝いていたらしい。
その後ろには、両家の当主夫妻がにこやかに付き添っていた。
……ただしフローリアの父、ハロルドを除いて。
感極まってしゃくり上げる彼を、妻が肘でつついて黙らせていたのだとか。
そして、その朝、リリエンブリュック邸には、花束が届いたという。百花を集めたそれは、朝日のなか瑞々しく輝いていた。
差出人の名はなかったけれど、「どうかお幸せに」とだけ書かれたカードが添えられていた。
王都は再び色めきたった。
誰もが口々に、なんて素敵な、なんて物語のような、と囁き合う。
なんと、この一件を王都中に広めたのは、フローリアの親友であるガブリエラ・コルヴェンティス伯爵令嬢。
「こんな大ニュースを逃すなんて……! これでは『王都新聞』の名折れですわ!」
出し抜かれたレティシアは、地団駄を踏み、それはそれは悔しがったという。
それもまた、王都の噂話のひとつ。




