7 手を取り合ってふたりで話をした
六歳になって少し経ったその日、フローリアははじめて王宮へ足を踏み入れた。
馬車を降りた瞬間から、世界が違って見えた。
白い石畳は朝の光を跳ね返してまぶしく、遠くにそびえる宮殿の壁は、空に届きそうなほど高い。
「わあ……!」
思わず声がこぼれて、あわてて口を両手でふさぐ。
怒られたわけではなかった。でも、なぜか大きな声を出してはいけない気がした。
ついに王宮の中へと足を踏み入れると、そこは外から見る以上に別世界だった。
天井は高く、柱は太く、廊下はどこまでも続いている。
家にあるものより何倍も大きな絵画。
ずらりと並ぶ、ぴかぴかの鎧。
何か難しいことを言っている大人たち。
さらさらと床を滑るドレスの裾。
目に入るものすべてがきらきらしていて珍しくて、フローリアは首が痛くなりそうなほど、きょろきょろと見回してしまう。
「フローリア、迷子にならないようにね」
ハロルドからそう言われて、ちゃんと「はい」とうなずく。
けれど、ぎゅっと握っていたはずの父の左手は、気がついたときには、フローリアの右手にはなかった。
「あれ……?」
フローリアは焦ってあたりを見渡す。
同じ色の服を着た男の人がたくさんいて、誰が誰だか見分けがつかなかった。
「お父さま……?」
ハロルドを呼んでみる。だけど、声は高い天井に跳ね返って、どこから聞こえてくるのかさえわからない。
なんだかここにいるのが怖くて、フローリアはひとり廊下を歩いてみた。でも、歩いても歩いても、同じ壁が続くばかりでどこにもたどり着けない。
あんなにいたはずの人影も、いつの間にか消えている。
しんと静かな廊下が、左右から迫ってくるようだった。それに押しつぶされそうで、立ってさえいられない気持ちになった。
フローリアはその場でしゃがみこむと、小さな手で膝を抱える。
お気に入りの黄色のドレスの裾が、床にふわりと広がった。
「もう、かえりたいよ……」
小さな声は、誰にも届かなかった。怖くて、寂しくて、心細かった。涙がぽたぽたとドレスに落ちては、丸いしみを作っていく。
どれくらいそうしていただろう。
小さな足音が近づき、止まる。
「あ……」
顔を上げると、廊下の先に、フローリアより少し年上の男の子が立っていた。目が合うと、彼は迷いなく駆け寄ってくる。
「きみが、フローリア?」
こくりと頷くと、彼はほっとしたように息を吐いた。
「よかった。きみを探していたんだ」
そう言って、彼は手を差し出す。
「いっしょに戻ろう。みんな、心配してるから」
その手は少し冷たかったけれど、握るとすぐに安心した。
ふたりは、手を繋いで廊下を歩いていく。
男の子はクラウスと名乗った。年はフローリアよりふたつ上の八歳で、彼は何度か父親について王宮に来たことがあるという。だからなのか、フローリアには、その歩き方がとても頼もしく思えた。
「きみのお父さまと、僕の父上は仲がいいんだって。でも、僕たち、会うのは今日が初めてだね」
「うん。わたし、ずっと領地のお家にいたの。王都には来たことがなくて……」
クラウスは「そうなんだ」とうなずく。
「それなら、今度いっしょに出かけようよ。王都にはいろいろあって楽しいよ」
彼の言葉に、フローリアもうなずき返す。そうしたら、クラウスは黒い瞳を細めて微笑んだ。
クラウスはきっと、フローリアを元気づけようとしたのだろう。でも、その笑顔が急にまぶしく見えて、フローリアの頬がほんのり熱くなった。彼の手をそれ以上強く握るのがなんだか恥ずかしくなって、かわりにもう一方の手でドレスの裾をなんとなく握り込む。
そんなフローリアには気づかず、クラウスは廊下の先を指差した。
「あの角を曲がると、もうすぐのはずだよ」
そう言うと、クラウスはフローリアの手を引いて廊下の角を曲がった。
けれど。
「あれ……?」
足を止めたクラウスが、きょろりとあたりを見回す。
そこには、さっきまで聞こえていた人の声も、同じ色の服を着た男の人たちもいなかった。
どこまでも続くのは、同じような壁だけ。
「……こっちじゃ、なかったのかな」
クラウスは首を傾げる。
その声は落ち着いているようで、でも、さっきよりも小さい。繋がれた彼の手に、少しだけ力が入ったのがわかった。
フローリアは、その手をきゅっと握り返す。
「だいじょうぶ」
思ったよりはっきりとした声を出せた。しんとした廊下も、天井に跳ね返って、どこから聞こえるのかもわからない声も、もう怖くなかった。
さっきとは違う。だって、ここにはいま、彼の手があるのだから。
「いっしょに探そ。ふたりなら、すぐ見つかるでしょ?」
クラウスは目をぱちぱちと瞬かせたあと、照れたようにふふっと笑う。
「……うん、そうだね。いっしょに探そう」
それから彼は、今度はさっきより少しだけゆっくり歩き出した。
どれくらい歩いたのか、遠くから大人の声が聞こえ、ふたりは同時に足を止める。
フローリアが、ぱっと顔を上げた。
「お父さま……!」
廊下の向こうから何人もの大人が現れる。そのなかに、ハロルドの姿も見えた。
フローリアは、横のクラウスを見上げる。彼はにこりと笑ってうなずき、その手をそっと離した。
フローリアが再び声を上げるより早く、ハロルドは涙目で駆け寄ってきて最愛の娘を抱き上げる。
「フローリア、ひとりにしてすまない……」
強く、安心する父の腕。胸のどこかがほぐれるみたいにほっとして、フローリアの目にも涙が浮かんだ。親子ふたりしてぐずぐずと鼻を啜る。「無事でよかった」と繰り返すその腕は震えていて、どれほど心配していたのかが伝わってきた。父の首にしがみついて、フローリアは「ごめんなさい、お父さま」とつぶやく。
ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる父の肩越しに、クラウスも大人たちに囲まれているのが見えた。そして、彼もこちらを見ていた。小さく手を振ると、彼も振り返してくる。
今度は胸のどこかがきゅうっとした。自分の手が、彼の手に触れていないことがとても寂しくて、どうしようもなかった。
しばらくしてやっと落ち着いたのか、ハロルドはフローリアを解放する。
足が地につくと同時に、彼女は駆け出した。クラウスのほうへと、まっすぐに。
足音に気づいたクラウスが振り向くが早いか、彼にぎゅっと抱きつく。感じていた寂しさはどこかに吹き飛んで、感じるのは、あたたかさみたいな、ふわふわとした心地よさみたいな。
クラウスは一瞬目を丸くして、それから照れたように笑い、フローリアの背にそっと手を回した。
大人たちは「おやおや」とか「あら、仲良しね」なんて笑ったけれど、まったく気にならなかった。
「今日はありがとう」
そう言うと、クラウスの手は返事をするみたいに、彼女の背を優しく叩く。
「……うん。僕も、ありがとう」
そのとき、誰かが開けた扉から太陽の光が差し込み、フローリアの黄色いドレスを明るく照らす。
フローリアが顔を上げると、クラウスは眩しそうに彼女を見つめていた。
そのあと、フローリアはクラウスと離れたくないと大泣きして、周りの大人たちを困らせた。
だけど、次の日フローリアが庭で遊んでいると、クラウスが彼の父親に連れられてやってきた。
その手には、黄色い花束。
「これをきみに」
すぐに会えたことはとても嬉しかったけれど、あんなに大泣きしたことを思い出したら、なんだか恥ずかしくなってしまった。
照れ隠しに、フローリアは花束を胸に抱えたまま、うつむく。
目の前が黄色でいっぱいになって、まるで光の中にいるみたいだった。
「……お花、ありがとう」
花に埋もれながらようやく言えたお礼の言葉は、とても小さくて、短くて。
そんなフローリアを見ながら、クラウスはただ嬉しそうに笑っていた。




